木曜会15 完結
木曜会 15
私は次の週から仁平先生のお宅へ通うようになりました 先生の身の回りの世話の他にこれといった事もなく 先生とたわいもない世間話しやらをして過ごす訳なのですが それだけでも心が落ち着くような ここだけ時が止まったかのような気がするのでした
普段 先生は庭を眺めたり 本を読んだり たまに絵を描いたりして過ごしておりました
書き物といえば 短い日記を書くぐらいのものです 小説を書くなどという事はありません
高野爺さんが言っていた 筆を折ったという話は本当かもしれません それにしても かつては芥川賞の候補にまでなったらしい先生が
何故 突然 筆を折ってしまったのか
その事を 私なぞが聞けるはずもなありません 先生ご自身も相当な覚悟の上で そうしたに違いないのでしょうから
ですが ある日 先生自ら その事を語りはじめたのです
それは 急に降り出した激しい雷雨の上がった後 雨露に濡れた庭の紫陽花を先生が眺めていた時でした
『この瞬間をを文学で表現できたら』
先生は独り言のように呟きました
『私も 小説を書いていたんだが 随分昔にやめてしまったよ 』
私が何も言わずに黙っていると先生はその先を話しはじめました
『 ひたしい友人がいてね 彼は私よりも年下だったが 何故か妙に気が合った 私はその頃 小説家を目指していて 彼は小さなコーヒー屋をやっていた 私は毎日のようにそこへ通っては一杯のコーヒーで何時間も彼と語りあった
文学の話や音楽の事 政治 戦争 彼といると時間があっという間に過ぎてしまったよ
私は 自分の作品が出来上がると真っ先に彼に読んでもらって感想を聞いた 彼はいつも私の作品を褒めてくれた そんなある日 彼が恥ずかしそうに 恐る恐る 原稿用紙の入った封筒を私の前に出してね 自分も見よう見まねで小説を書いてみたんだが 読んでみてくれないか と言うんだ あの時の彼のはにかんだ笑顔は今も頭に焼き付いているよ
彼の原稿を家に持ち帰って 細かな所を直してやろうと 赤い鉛筆を片手に読みはじめた
だが 最後までその必要はなかった それどころか 私は言葉を失い ただ唖然とした 一種の恐怖さえ感じた
生まれて初めて 絶対的な才能というものを見たのだ
私は自分の足元が脆く崩れていくように自信を失ってしまった 私が書いていた物があまりにも ちっぽけに思えてきた
その日以来 しばらく彼の店には足が向かなくなってしまった
そんなある日 彼が私のアパートに訪ねてきて 野球のチケットが二枚手に入ったから一緒に行かないかという
巨人 対 阪神戦の外野席チケットを一枚私に手渡した そして二人で野球を観にいったよ
その日 満員の球場は熱気に溢れかえっていた
二人はビールを片手に晴れわたった青空の下 ヤジを飛ばしながら応援した
9回裏 3対0で ツーアウト もう勝負がついたと思ったいたら ホームランで試合が振り出しに戻った
球場は割れんばかりの興奮状態になった その時 突然 彼が言い出したんだ
この試合 何か 賭けませんか?ってね
何を賭けるかって話になって 彼は勝ったら私の持っていたコルトレーンのレコードが欲しいと言った そして彼は私が勝ったら何が欲しいかと訪ねた
私は咄嗟にこう言ったよ
もし勝ったら 君に預かっている小説を文学賞に応募しても良いかと
それは酷い罰ゲームですね と彼は笑ったよ
結局 試合は延長戦の末 彼の賭けたチームが負け 私が勝った
私はすぐさま 彼の小説を有名な文学賞に応募した
そして その小説が元で彼は小説家になった
私は小説を書くのを諦めて田舎に帰ってきた
ただ それだけの話だ
そういうと先生は 初夏の日差しが戻った庭をゆっくりと眺めました
ただ それだけの話 ただ それだけの……
私は しばらく その事が頭から離れませんでした
そして季節は過ぎ 夏から秋になりました
今年も村上春樹はノーベル賞を取れませんでした ハルキストを中継したテレビの画面には 中野さんや靖子さん それになぜか 平野女史の残念がる映像が流れていました
高野爺さんは 出版詐欺で弁護士を雇って裁判を起こしています
松本さんは 先生の言った通り 芥川賞を受賞しました
私はといえば相変わらず 先生と一緒に毎日 世間話の毎日です
そういえば 先日 面白い物を見つけました
先生の本棚の整理をしていると 奥の方から
ノルウェーの森が出てきました
本には一枚の写真が栞代わりに挟んでありました そこには髪を長く伸ばした若い頃の 仁平先生と彼が写っていました
本を開いてみると そこには こう書いてありました
仁平先輩へ 村上春樹
終