同乗者
「のり子とは別れるよ」
ハンドルを握る須崎がおもむろに口を開くと、助手席に座っていた涼子は相変わらず窓の外を眺めながら、
「どういう風の吹き回し?」
と、無関心そうに聞いた。
「あいつの父親がK病院の院長だって話はしたろう?」
「随分前に聞いたわ。その父親が病にかかって、現在病床に就いてるってこともね」
「正確には『就いてた』だね」
「亡くなったの?」
須崎は前を見ながら頷いた。
「彼には子どもが二人いる。それが妻ののり子と、弟の雄二郎だ。オヤジさんは生前、K病院を息子の雄二郎に継がせると話していたが、血縁関係者が後継者として指名されるのは一般的な常識だから俺もそれは承知していた。が、ある日オヤジさんが突然、病院で長年一緒に働いてきた俺を後継者として迎えたいと言い始めた。恐らく、のり子と婚約関係になっていたからだろう。俺は歓喜しのり子も喜んでくれた。ところがこれまた突然、やっぱり自分の椅子は息子の雄二郎に託すと抜かしやがった。ころころと気が変わるオヤジさんだったよ、全く」
義理の父親でもあった院長の生前の言葉を思い出した須崎は、忌々しそうにフンッと鼻を鳴らした。隣の池上涼子は、これといった反応も示さずただじっと窓の外を流れる夜景を眺めていた。
須崎の運転する車は、街の夜景を一望しながら食事が出来る展望レストランへ向けてひたすら走り続けていた。
須崎が突然、彼女を展望レストランへ招待したいと言い出したのだが、涼子は須崎の意図をかすかに読み取っていた。が、あえて自分から口を出さず彼の口から全てが語られるのを静かに待っていた。
「院長のオヤジさんが息子の雄二郎に院長の座を譲ると言い残して死んだせいで、俺がその後継の椅子に座るという夢は完全に砕けた。必然的に、後釜を狙って婚約関係に辿り着いたのり子とこれ以上引っ付く理由もなくなったってわけだ」
「だから、奥さんと別れて私と一緒になる決意をしたわけね」
「優柔不断だったのは認めるよ。だが、今回の件で涼子と一緒になろうと俺は固く決めたよ。のり子には近いうちに離婚を告げるつもりだ」
須崎が言うと、涼子はようやく顔を向けた。
しばしの沈黙が流れた後、涼子は突然笑みを浮かべ、ハンドルを握る須崎に寄り添った。
「やっと聞けたわ、その言葉が」
「待たせたな」
須崎がキザっぽく言いながら、寄り添う涼子の肩に腕を回した。
K病院に勤務する医師の須崎一郎と、スナックでホステスとして働く池上涼子が関係を持ち始めたのは五年前だった。
涼子は医師=資産家という認識を持って意識的に須崎へ接近したのだが、彼の人柄に魅了され気付いた頃には純粋な好意を持ち始めていた。
須崎は元来、人見知りが激しく性格もどちらかというと控えめだった。涼子が勤務するスナックへ足を運ぶようになったのも、先輩に無理やり連れられたからだった。
ホステスたちにちやほやされている先輩の横で縮こまっている須崎に、最初に声をかけたのが涼子だった。
須崎は当初、口も開けずただちびちびと酒を飲んでいるだけだったが、積極的に接してくる涼子の人柄に惹かれ、最終的に今のような関係となった。
互いに気が合う仲という意識が働いて生まれた関係だった。
須崎はあくまで飲み仲間という認識で涼子を見ていた。が、涼子の方は須崎の愛人というポジションだと一方的に思い込んでいた。
ある日、涼子は自分から須崎へ婚約を申し込んだ。彼がK病院院長の娘と婚約中だと把握していてである。
そのとき、既に現院長の後釜の候補として挙がっていた須崎は、言うまでもなくその申し出を拒否した。
彼がスナックに訪れるたびに涼子はしつこく迫ったが、須崎はそれをのらりくらりとやり過ごした。
半ば涼子が諦めかけていたある日、須崎が突然食事に誘った。
淡い期待を抱きながら涼子は付き合ったが、以前から渇望していた願いがようやく須崎の口から飛び出てきたのだ。
須崎の妻、のり子が彼に対して本気かどうかはともかく、須崎が彼女との婚約を現院長の座に居座るための踏み台としか捉えていないことは涼子も聞いていた。そのため、須崎がオヤジさんと呼ぶ院長の遺言次第で、自分が彼と結ばれるチャンスも巡ってくるはずだと、涼子は前々から期待していた。
それが叶ったのだから夢のような気持ちだが、同時に涼子は地位のためでしか意識を向けられていなかったのり子に対し、軽い同情心も抱いていた。が、結局、涼子を支配していたのは須崎という男を手にしたという優越感だった。
「思い返しても面白いわね。初めて店に来たときの須崎さん、まるで蛇に睨まれた蛙みたいに小さかったんだもの。それが、今じゃこうして男らしく愛人の肩に腕を回してるわ」
「時間とともに、人間も変わるってやつだよ。まあ、こうやって俺という人間が大きく変わったのも涼子のおかげかもしれないな」
と言い、須崎はハンドルに手を戻した。
車は夜の街を抜け、山頂に展望レストランを設ける山の麓へ辿り着いた。そこから山道を三十分ほど進むと、目的のレストランへ到着する。
十分ほど山道を登ると、自動販売機が三台設置された休憩所に辿り着いた。
「少し喉が渇いた。お茶でも買ってくるが涼子は?」
「私はいいわ。レストランまで我慢するから」
「あいよ。それから、一服したい」
「いいけど、早く済ませてね。真っ暗だし怖いから」
「あいよ」
須崎は笑ってから車を降りると、寒さを凌ぐように襟を立てて自販機まで小走りした。まだ十月で、本格的な冬の到来ではないが山だからか意外と冷え込むのだろう。
自動販売機の明かりと今にも消えそうな外灯のみで照らされた休憩所で、須崎は茶を飲みながらのんびりと煙草を吸っている。
その間、涼子は薄気味悪さを振り払おうとカーラジオをオンにした。
ラジオはニュースを伝えていたが、それでも少しは落ち着くだろうと涼子は深々と椅子にもたれながら耳を傾けた。
ラジオから淡々とニュースを伝えるキャスターの声が聞こえる。
『都内で発生したR銀行襲撃事件について続報です。警察は銀行に設置された監視カメラの映像を確認した結果、銀行を襲撃した強盗グループが少なくとも三人いたという結論を出しました。さらに映像の解析を進めた結果、カメラに映った強盗犯の一人が強盗致傷で逮捕された前科のある沢木元宏容疑者と判明。強盗グループはいずれも現在行方が知れず、警察は引き続き捜査をーー』
(物騒な世の中ね)
涼子はラジオを消すと窓の外を見た。
ふと須崎に目をやると、さっきまで優雅に煙草をくすぶっていた須崎が携帯で誰かと話をしている。
須崎は落ち着きのない動作で煙草を咥えたり手で持ったりし、うろうろとその場を動き回っている。
涼子が怪訝な顔でその様子を眺めていると、須崎が携帯をポケットに仕舞った。
しばし神妙な顔を浮かべてから、須崎は煙草と飲み終えたお茶を捨て、車へと戻って来た。
「誰と電話してたの?」
「のり子だ。今何処にいるんだと」
「奥さん、明日の夜まで戻らないんでしょ?」
「なにか用事でもあって戻ってきたんだろ」
「なんて返事したの?」
「外出中とだけ言っておいたよ。勿論、涼子が一緒とは言わずにね」
「私たちが不倫してることに気付いたのかしら?」
涼子が不安そうに言うと、
「その心配はないだろう。のり子は自惚れの部分があるから、俺が自分に夢中だと思い込んでるし、院長の座に執着しているために婚約したことも理解していない。弟の雄二郎が後継者になったから不倫する気になったとは全く考えていないだろう。鈍い女だよ」
と、須崎は余裕たっぷりの顔で言った。
「それなら、どうして電話してきたのかしら?」
「さあね。まあ、気にすることはないさ。のり子には女特有の鋭い感ってやつがないからな」
そう言うと、須崎はサイドブレーキを解除し車を発進させた。
心なしか、慌てているような印象を涼子は抱いた。
走り続ける車の中で、涼子は何度か須崎の顔を一瞥した。
目が焦りの色を浮かべている。
明らかに、さっきまでとは様子が違う。
「ねえ、大丈夫なの?」
「………」
須崎は涼子の言葉を無視し、無心でハンドルを操作している。
涼子はムッとしたが、須崎は構わず前方だけに目を向けている。
つまらなそうに窓の外を見ながら背もたれに体を預けていると、突然車が大きく曲がり体が揺れた。
須崎が方角を変えたのだ。
「ちょっと、何処行くつもりよっ」
涼子が驚いて思わず尋ねると、
「野暮用があるんだ。悪いけど、ちょっと寄り道する」
と、須崎が乱暴な口調で言った。
確実に様子がおかしい須崎が車を停めたのは、ライトに照らされた行き止まりの標識と、それを示すかのように鬱蒼と木々が林立する不気味な場所だった。
須崎はエンジンを切ると、真っ暗にも関わらず下車した。
小さな赤い光が灯ったのを見ると、どうやらまた煙草に火を点けたらしい。
(どういうつもりよ、一体)
涼子は問い詰めたい気持ちにかられたが、じっと我慢した。
どういう気なのかは定かではないが、休憩所でのり子からかかってきた電話が原因であるのは間違いないような気がする。
恐らくだが、なにか癪に触るような内容を言われたか、或いは聞かされたのだろう。だから、気持ちを落ち着かせるために静かな場所で気晴らししようと思い立ったに違いない。
(だからってなにもこんな場所で…)
涼子は恐る恐る周囲を見回した。
カーライトだけが灯るその場所は、生い茂る木々が厚い壁を作っているために夜景の光という光が全く見えないまさに闇だけが支配する所だった。
涼子は時間を確認しようとした。が、エンジンを切られたためナビの画面から時刻が確認出来なくなってしまった。
携帯電話を探したが見当たらない。
(そういえば、須崎さんがトランクに荷物を載せたんだっけ)
出発前、涼子が貴重品の入ったバッグをトランクに入れようとしたが、須崎がすかさずそれを引き受け入れてくれたのだ。妙に慌てた様子で、今思うと不自然な動きだった。
涼子は運転席のキーを抜くと車を降り、トランクに差し込んだ。
俄然、煙草を吸いながら腕を組んでいた須崎が振り返り、煙草を投げ捨てると慌てて駆け寄ったが、時すでに遅く涼子はトランクを開けていた。
「………!」
カッと目を見開いた男の顔がトランクのライトに照らされた。
恐怖に満ちた涼子の目とその目が合った。
目を見開き頭から血を流している男の死体が、トランクに押し込まれていたのだ。
驚きのあまり後退りする涼子に須崎が近付いた。
「涼子、聞いてくれ。こいつは沢木という男でーー」
「沢木って、R銀行を襲った強盗犯の一人の?」
間髪入れず涼子が聞くと、須崎はゆっくりと頷いた。
「須崎さんが殺したの?」
「………」
「もしかして須崎さんも強盗犯の…」
血の気が引いた涼子が大声を上げそうになり、須崎が慌てて口を塞いだ。
「正直に話すから落ち着いて聞いてくれよ」
ヒステリックに暴れる涼子を宥めてから、須崎が言った。
「沢木は俺の仲間だった男だ」
「じゃあ、やっぱり須崎さんも例の襲撃事件の…」
「認めるよ。だけど、俺は運転手として連中にーー」
言い訳がましく弁解する須崎を涼子は突き飛ばした。
「運転手だろうとなんだろうと犯罪に加担したのには変わりないじゃないのよっ」
「聞けって。俺は運転手として連中の手助けをしただけで、銀行は襲ってない。そもそも俺は、R銀行の襲撃を計画した沢木ともう一人…そいつは平岡っていうんだけど、その二人が立てたプランには乗り気じゃなかったんだ。だけど、手伝わなきゃ涼子との関係をのり子にばらすと脅された。そのとき、まだ後継の候補に立っていたからどうしても断れず、結局渋々引き受けたんだよ」
「………」
「あの襲撃事件以降、俺は連中と関わらないようにしてきた。が、あるときこいつが俺の所に来たんだ」
と、須崎はトランクで死んでいる沢木に目をやった。
「こいつは、金の山分けで平岡と口論になり思わず殺しちまったと言ってきた。沢木は平岡の分の金も持って、海外へ逃げるつもりだったらしい。だからその前に、顔を知っている俺の口を封じる気で来たんだ」
「それで殺したの?」
「誤解しないでほしいが、あれは立派な正当防衛だ。殺さなきゃ、俺が殺されてた」
「………」
「今回、涼子を展望レストランに誘ったのはのり子との離婚を打ち明ける理由もあったが、沢木の遺体を人知れず山奥に捨てる目的もあったんだ。適当な言い訳を作って、涼子に気付かれないようこっそり隠すつもりだったんだが…」
須崎が大きなため息を吐いた。
しばしの沈黙が流れたが、それを破ったのは涼子だった。
「何処に隠すの?」
「え?」
「この男の遺体を何処に隠すのか聞いてるの」
涼子がさっきまでとは人が変わったような冷静な態度を取ったため須崎は困惑したが、気を取り直して林が鬱蒼と茂る奥を指差した。
「埋めるのなら私も手伝う。それに、須崎さんがこの男と関係していたことも殺したことも誰にも言わないわ」
「本当か? でも、どうして?」
「須崎さんが好きだからに決まってるでしょ」
(なんてしたたかな女なんだ)
いくら好きだから言って、これほど簡単に犯罪の片棒を担ぐのもいとわない女性などそうそういないだろう。
須崎は驚くと同時に感心した。
須崎と涼子は協力し、トランクから動かぬ同乗者である沢木の遺体を持ち上げた。
医師の須崎はそうでもないかもしれないが、涼子は死体に触れるのが初めての経験だった。
屍だからだろうか、涼子はやたら重い気がした。
「そこにあるシャベルと懐中電灯を持ってきてくれ」
沢木の遺体を背負った須崎が言った。
涼子はトランクの奥に押し込まれていたシャベルと懐中電灯を手に取り、遺体を背負う須崎と一緒に林の奥深くへと進んだ。
遺体を背負いながら須崎は懐中電灯で前方を照らし、足場の悪い獣道に注意を払いながら歩を進めた。その背後を涼子は進むが、目の前でぐったりする沢木が今にもこちらを振り返ってきそうな錯覚に陥り、そのたびに足を震えた。
所狭しに生い茂っていた林をかき分けるように進むと、わずかだが木の生えていないスペースに辿り着いた。
須崎が足で土の柔らかさを確かめる。
「ここなら埋められそうだ。照らしててくれ」
須崎は背負っていた沢木の遺体を下ろすと、涼子に懐中電灯を渡した代わりにシャベルを受け取った。
涼子が懐中電灯の光を照らす中、須崎は脇目も振らずにシャベルで穴を掘り続けた。
作業に没頭する須崎の近くで横たわる沢木の遺体は、当然といえば当然なのだが微動だにしない。
死体というものの存在を初めて目の当たりにする涼子にとって、それが前まで生きて動いていた物体とは到底思えず、単なる人形のようにしか捉えられなかった。
不意に、涼子が悲鳴を上げた。
須崎が作業を止め、慌てて穴から顔を出した。
「どうしたんだ?」
「い、今、この男が私を睨みつけたような気がして…」
涼子が声と手を震わせながら言った。
須崎もゾッとし、地面に仰向けで倒れている沢木を見た。
しかし、懐中電灯の光に照らされた沢木はビクともせず、睨んだという眼も瞬きすらしない。
「あんまり脅かさないでほしいね」
須崎はうんざりしたが、顔は笑っていた。
涼子は目の錯覚だったのかしらと思い、恐怖で体を震わせる自分を落ち着かせようと深呼吸した。
時計を持っていないため、どれだけの時間が経過したかは分からないが、須崎は既に棺桶が収まりそうなほどの大きな穴を掘っていた。かすかに肌寒い季節にも関わらず、須崎は額に大粒の汗を流していた。
須崎は穴から地面に上ると、袖で汗を拭った。
「これぐらい掘れば死体も入るだろう」
「随分深く掘ったのね」
涼子が穴を見下ろしながら言った。
「もし蘇生して出てこられちゃ敵わないからな」
「気味の悪いこと言わないでよ」
と、須崎のジョークに涼子は震えた。
須崎と涼子は沢木の頭と足を同時に持ち上げ、乱暴に穴の中へと放り込んだ。
ドサッという音がし、沢木の遺体が闇に溶け込むように消えた。
「一件落着ね」
「本当によかったのかい?」
「なにが?」
「俺のために、涼子に犯罪の片棒を担がせる結果になったからだよ。大丈夫だとは思うが、もし沢木の死体が発見されたら…」
「スナックで相手をしてたときから思っていたけど、須崎さんって意外と心配性なところあるわよね。もう少し楽観的に捉えたら? こんな場所、そうそう人は立ち入らないだろうから、まず見付かる心配はないわよ」
「そうだといいけど」
と、まだ心配そうに穴を見詰める須崎に涼子は寄り添った。
ようやく、固かった須崎の表情が綻んだ。
「…涼子」
須崎が涼子を自身の前に立たせ、肩に手をやり向かい合った。
「…なに?」
涼子の脳裏にまた新たな期待が込み上げた。それが果たせれば自分と須崎の関係は絶対的なものとなる。
が、その期待とは異なることが起きた。
突然、須崎が涼子を突き飛ばしたのだ。
えっ、と声を出す間もなく、涼子は穴の底で横たわる沢木の遺体の上に落下した。
固くなった沢木の遺体に落下した衝撃は激しく、打ち所が悪かったのか頭がぼんやりし、体も思うように動かなくなった。
おぼつかない視界で上を見ると、暗闇に須崎らしきシルエットが浮かび上がった。
「須崎さん…どうして…」
朦朧とする意識の中、涼子はかすれ声で言った。
須崎は返答をする代わりにシャベルを手にし、掘り起こした土を再び穴の中へと入れ始めた。
涼子は必死に助けてほしいと哀願の声を漏らしたが、無情にも須崎は次々とシャベルですくった土を穴に投げ入れた。
風に吹かれ冷たくなった土が涼子の体と顔に降り注ぐ。
やがて、うっすらと涼子の瞳に映っていた須崎の姿が消え、暗闇だけが広がった。
穴は元の平坦な地面へと戻った。
須崎はシャベルと懐中電灯を手に車へと戻った。
道具をトランクに乗せ、運転席に座るとエンジンをかけ、相変わらず無表情のまま車を発進させた。
須崎が来た道を戻るように車を走らせると、先ほど勢いよく方角を変えた道に到着した。涼子が何処に行くつもりだと、咎めた場所だった。
須崎は展望レストランへと繋がるルートへは向かわず、来た道をそのまま引き返す形で車を走らせた。
雲に隠れていた月が顔を覗かせた。
月光が車と須崎の顔を照らした。
須崎は笑っていた。
♤♡♢♧
一時間前の中村邸宅に、一台の車が到着した。
車を降りてきた女性が、半ば慌て気味に屋敷へと入った。
「ママ、帰ったわよっ」
女性、中村のり子が大声で呼ぶと、奥から着物姿の小柄な女性が小走りで来た。のり子の母親、菊枝だった。
「あ、おかえり。ごめんね、急に呼び出したりして」
「それはともかく、一体どういうことか説明して」
「ちゃんと説明するからまずは落ち着きなさいよ」
菊枝は落ち着かない娘ののり子を宥めてから、廊下を進み奥の和室へと連れて行った。
そこは、のり子の父で先日急死したK病院元院長、中村雄太郎の自室だった。
部屋の中は色々な物があっちこっちに散らかっていた。
恐らく整理していたのだろうが、のり子が帰って来て迎えたので、中途半端に終わっていたのだろう。
「あの人が突然亡くなって気持ちの整理が付かなかったけど、放っておくのも申し訳ないと思って昼間に遺品整理がてら部屋を片付けててね。そうしたら、これを見付けたのよ」
と、菊枝が白い封筒を取り出した。
のり子が受け取ると、それには達筆で「遺言状」と書かれていた。
「これ、パパが書いたの?」
「そう。しかも、以前病院の訴訟問題でお世話になった弁護士の新島さんも全然記憶にないっておっしゃるから、もうてんてこ舞いよ。とりあえず、家庭裁判所の方で開封してもらったんだけど、これもまた驚きよ」
と、菊枝は言った。
のり子は裁判所で開封済みの遺言状を中から取り出した。
じっくりと目を通したのり子は驚いて菊枝を見た。
「これ、雄二郎はなんて?」
「あの子ったらそりゃあ大激怒よ。話と違うから怒るのも当然だけど、実の父親が遺した言葉なんだからその通り守らないとって言い聞かせたわ。多分、まだ納得していないでしょうけどねえ…」
「ママはなにも意見はないの?」
「あの人の遺言ですからね。私は書かれてある通り守るつもりよ。それよりものり子、このこと電話した方がいいんじゃないの? 須崎さんに」
「そうね、ちょっと掛けてくるわ」
と言い、のり子は廊下に出た。
開封した遺言状を片手に、のり子は夫の須崎に電話を掛けた。
少し時間がしてから相手が出た。
「もしもし、須崎さん? 私よ、のり子。今何処にいるの?」
「ーーー」
「外出中だったのね。今ちょっといいかしら?」
「ーーー?」
「そう言わないでよ、大事な話なの」
「ーーー」
「実はね、今日の昼間ママがパパの部屋で遺品のを整理をしていたとき、書斎から遺言状が見付かったらしいのよ。それで、ママが家庭裁判所に持って行って代表として遺言の中身を確認してもらったの」
「ーーー」
「関係があるから電話したのよ、最後まで聞いてちょうだい。それで遺言の中身なんだけど、簡潔に伝えると父親でK病院院長の中村雄太郎は、新しい院長として息子の中村雄二郎ではなく、長年病院に尽くしてくれた信頼出来る部下である須崎一郎に譲りたい所存だと書かれていたわ」
「ーーーっ」
「正真正銘、間違いなくパパの筆跡ね、これは」
「ーーー?」
「からかってなんかいないわよ。実際、遺言状には病院を須崎さんを時期院長として任せ、残りの財産は私と弟の雄二郎、そしてママに分配するって書いてあるわ。いわゆる特定遺贈というやつね」
「ーーー」
「えぇ、それは私も覚えてる。パパは確かに雄二郎に任せるみたいなことを言ってたわ。けど、昔から優柔不断なところがパパの短所でもあったから、最終的に須崎さんに任せようと思い直したんじゃないかしら?」
「ーーー?」
「さっきママから聞いたわ。雄二郎は納得がいかないみたいだけど、遺言に書かれてある以上はそれを守らないといけないし…。弟には悪いけど分配される財産で我慢してもらうしかないわ」
「ーーー」
「え、自分の目で確かめたい? それは構わないけど、なにか用事があって出掛けてるんじゃないの?」
「ーーー」
「そう…なら早く済ませることね。けど、慌てて事故とか起こさないでよ。これから病院を支えるという大事な役割があるんだから。…それじゃあ気を付けて帰ってきてよ、未来のK病院院長の須崎一郎さん」
おだてるように言ってから、のり子は電話を切った。