第三話 自由民権運動
第三話です。
なにやら明治大帝が面倒なことを、、、
「ねえ、そろそろ憲法必要ではないか?」
「ああ、、、そろそろ必要ですかね、陛下、、、」
明治大帝と政府の重鎮が集まった会議に、明治大帝はこう発言し、全員が悩みながら頷いた。
と、言うのもこの当時の日本の外交課題は旧幕府が調印してしまった不平等条約の改正実現であった。
しかし欧米列強は、
「日本はまだ近代的な法制度は、”まだ“無いよね? だから今はまだ無理!」(こんな利益手放せるわけないじゃん。)
と、言い張って改正に応じていなかったのである。
そのため条約改正には、理由として挙げられた、近代的な憲法を作成するのを、本気で検討し始めていたのである。
さらに後押しするように、政府を去っていた板垣退助を中心に1874年に民撰議院設立建白書(国民にも政治に参加する権利があるため、国会を開けといった内容が書かれた建白書)を政府に提出。
さらには全国各地で知識人を中心に政治結社が作られ始めており、国民の政治参加や、国会開設を訴える自由民権運動が始まっていたのである。
そのためたびたび政府内でも憲法制定や国会開設について議論されていたときの明治大帝の発言であった。後にこの出来事を明治帝の国会開設の勅諭と言われるようになる。
当時、政府の実権は伊藤博文が握っており、伊藤は国民と明治帝に1890年までに国会開設を約束したのである。
「約束したからには急いで完成させる!」
伊藤博文らは直ちに憲法作成に取り掛かった。
とは言え、流石に憲法作成のノウハウはまだ日本に無かったため、1882年に伊藤らはヨーロッパへ渡った。ヨーロッパの先進的な憲法を学ぶためである。
始めは君主制の強いドイツの憲法を元にしようとしたのだが明治大帝は、
「一応、イギリスとかフランスとかの憲法も参考にお願い〜!」
と、さまざまな要望を伊藤らヨーロッパ派遣組に通達した結果、1883年帰国予定だったのは、結果的に一年遅れ1884年に帰国することとなってしまった。
もちろん時間がなかったため、憲法草案はヨーロッパ滞在中に一部作成する羽目となったが、明治帝からしたら知らないことであった。
伊藤らヨーロッパ派遣組は
「注文多いなぁ、、、」
と呟きながら、涙を浮かべつつヨーロッパで各国の憲法を学んでいたのを目撃されている。
一方で、ヨーロッパへ伊藤らが派遣されている時の日本では、、、
「よし! 邪魔が入らない今のうちに作っておくか!」
「また何かするのですか、陛下、、、」
明治帝と侍従長が話している事。
それは、広島の呉に新たに鎮守府である呉鎮守府を設立し、さらに呉海軍工廠を設立。ついでのように兵庫にも川崎兵庫造船所を設立したのである。
ちなみのこの時に横須賀鎮守府にあった横須賀造船所も横須賀海軍工廠に名称変更されている。
こんなにも造船所を作った理由。
それは、
「鉄鋼船の一斉建造ダァ!」
後の前弩級戦艦一斉建造である。
明治大帝は今後、自国のみで海軍艦艇を補えるようにしようと考えていたのである。
ではなぜ前弩級戦艦なのか。それは、お隣の清が新型艦を発注したという情報をリークしたからである。
当時の清では1880年に李鴻章の提案により、1881年にドイツに大型鉄鋼艦を発注していたのだが、それを恐れて対抗するように建造しようとしたと言われている。
で、対抗するために建造された艦が、富士型戦艦である。
また、大まかな内容(搭載兵装)は明治大帝自らが決め、船体など細かな設計や建造指揮はイギリスからの顧問に頼んだ。
具体的な内容はこうである。
ー“初期”計画ー
富士型戦艦 同型艦 富士、八島
常備排水量:12000トン
最高速力:18ノット
航続距離:4000浬
兵装:
アームストロング社製30.5cm連装砲 2基
アームストロング社製15.2cm単装速射砲 10基
その他小口径砲、魚雷発射管多数
建造費:一隻あたりおよそ1000万円(現在で約380億円)
であった。
ちなみにイギリスでも同時期にロイヤル・サブリン級戦艦が建造開始されているのだが、なぜか内容が似ているところがあり、それは現在でも謎である。
もちろん建造費は国民の血税。と、思うかもしれないがそれは一部であり、ほとんどは別から出ていた。
一部は宮廷費節約と公務員の俸給1割減であり、給与の入った封筒を見た公務員達は涙目であったと言われている。
そして残りはどこから出たかと言うと、朝鮮半島北部の鉱山権益であった。
権益の中には金鉱脈がある鉱山もあり、そこからの資金によって建造が行われたのである。
ちなみにだが、この権益内で行われていることは後にバレるまで秘密であり、ここの収益は国家予算にならず、全て機密費として明治大帝および宮内省が管理していた。
そのため建造にあまり政府から反感を買わずに済んだのである。(ヒラの公務員からの反感は大きかったとされている。)
2隻の起工は1882年だったのだが、やはり技術不足であったため竣工は1890年にまで遅れているが、
「のんびり建造していいよ。 1890年ぐらいまでには完成させてくれ!」
という明治帝の配慮によって建造はスロースピードで建造されていった、、、
ちなみに1883年に帰国した伊藤博文はこの知らせを聞いて、
「は? 明治帝は気が狂ってらっしゃるのか?」
などと愚痴を溢している。
またハワイのカラカウア国王も明治帝に案内されながら建造風景を見学しており、
「この船があればアメリカなんか、ひと蹴りだな!」
と、明治帝と見学中に盛り上がっていたと言われている。
話は戻り憲法作成だが、伊藤らは帰国後、このヨーロッパで作成した草案を元に、夏島(現在の横須賀市)にある別荘にて、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと検討を重ね、夏島草案としてまとめた。
当初編集作業は東京で行われていたものの、伊藤が首相になったため、その業務に時間を割くことになってしまい効率的に編集作業を行うのが出来なくなってしまった。
そのため相州金沢(現在の横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続、しかし作業メンバーが横浜へ外出している際に書類が入ったカバンが盗まれる事件が発生。
この際、知らせを聞いた明治帝は、
「は、は、早く探し出せっ!」
と慌てふためいていたと言われている。
結局草案の入ったカバンは無事発見されたが、危険を感じたため最終的には元いた夏島に移っての作業となったというと逸話が残っている。(ちなみにカバンの中からはお金だけが無くなったそう、、、)
その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年にようやくまとまった。
その直後、伊藤は天皇の情報機関として枢密院を設置。自らが議長となり、この憲法草案の審議が行われた。最終的に枢密院での審議は1889年完了し、1889年2月11日、明治天皇が定める欽定憲法(君主によって定められた憲法)として、大日本帝国連邦憲法が制定された。
この憲法には、天皇を国の統治者として、議会の関与ができない数多くの権利を設けられていた。いわゆる天皇大権である。これは、明治帝自身が要望したものであり、自由に行動したいというと明治帝の考えであった。ただ、天皇大権の中には統帥権もあったため、これが後に問題を起こすことになる。
またハワイ王国との連邦化についても定められており、5年後から連邦として結成されることとなっていた。
ちなみにだが、憲法発布の会場は明治宮殿(皇居の敷地内にある宮殿)で行われ、来賓にはカラカウア国王も出席し、
「やっと報われた、、、」
と、独り言を溢しながら涙を浮かべていたという。
また、国家の運営に最も重要な役職である内閣については責任内閣制度が採用され、軍部が「陸海軍は天皇に直属する」というのを盾にして政府を無視して暴走することなんかが起きないようにされた。
なぜこのようなことを想定して作成されたかは、謎である。
また議会制や大臣責任制・大臣助言制、言論の自由が認められていたため、ここのところは憲法によって守られていると言えた。他にも司法権の独立が組み込まれており、「司法」、「国会」、「内閣(天皇)」による三権分立がなされていた。
また、国家的権限を全て天皇に集中させ、天皇の下にそれぞれの役割を分担した、多くの国家機関が併置された。
一方で、この時代の政治運営は宮中・府中の別を原則としていたが、天皇(特に明治天皇)は原則的に自らの政治的思想を日常的に政治運営に持ち込んでいたため、たびたび問題となったが、それでも明治帝の内閣に対する政治的行動のほとんどは的確であったため、特に問題となることなかった、、、
そして、国会については衆議院と貴族院に分けられ、貴族院は当初は華族(公家や元大名など)と士族たちによって構成されていた。元々は士族は貴族院には入っていなかったのだが、明治帝の、
「士族にはガス抜きが必要だな!」
という一言によって、貴族院に士族用の議席が用意された。
と言いつつも、実際の理由は1874年から1877年ごろに士族が相次いで反乱を起こしており、これ以上士族達から反感を買うのを抑えるためであった。
ちなみに士族はいくつかの地域に分けられた中から議員を選出する様式となっている。人数が圧倒的に多いため、各地に士族たちの議員選出のためだけの選挙が独自に作られたりした。
また、国民の選挙によって議員を選出できる衆議院は、世論を政治に反映させる場となっただけでなく、”衆議院から“連邦大統領や連邦首相などが輩出されることから、実力のある貴族や士族なども衆議院へ出馬した。
ちなみにだが、衆議院への投票は当時は税金を15円以上納める25歳以上の男性に限られたため、有権者が人口比率の1.1%に過ぎなかった。
とはいえ、議会がこれで始動したこともあり、府県制や群制が進められ、地方政治なども確立されるようになる。
また、憲法と並行して刑法や民法、商法などの法典も制定されたため、近代国家の基盤があらから完成した、、、
「疲れた〜、」
憲法発布後、長々しい会食などが終わり、明治大帝は自分の書斎の椅子にもたれかかった。
「お疲れ様です。陛下。」
侍従長が相槌を打っている中、明治帝は口を開いた。
「さて、鬼退治の時間かな?」
「、、、はい?、、、、、、」
さらに次回とその次までは、ハワイのどさくさに隠れていた話が続きそうです、、、
次回、日清戦争
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ちなみにリメイク版では無い方は最終回を現在執筆中。 まだかかりそうですが、、、




