表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消えない傷跡  作者: 桜雪月
1/10

1

赤い液体がじわりと広がる。それを見ることで、生を実感する。手にしたカッターは使い古されていて、刃がガタガタだ。切っ先に赤黒い塊が付着している。腕を天井に突き上げると、ぽたぽた血が流れ落ちる。

少し舐めてみた。ほろ苦い味が口の中に広がり、味見をしたことを後悔した。部屋の中に転がっている、いつ購入したのかも分からないミネラルウォーターを流し込む。飲み干して、空のペットボトルをゴミ山へ投げ込む。

ゴミ山には衣服、カップラーメンの容器、割り箸など、ありとあらゆるゴミが積まれていた。夏ということもあって、異臭が発生して、ゴキブリの温床となっていた。

空腹でお腹が鳴った。わざわざ知らせてくれなくても、お腹が空いているかどうかくらい、自分で判断できるのに。冷蔵庫を探しても食べられる物は何一つない。

ああ、くそったれ。

唯一の肉親である母を二日は見ていない。日常茶飯事なので、特に心配することはない。大方男の人の家に泊まっているのだろう。

母は十七歳で私を産んだ。相手は分かっていない。避妊すれば良かった、母はたまに口にする。それを聞く度に、避妊してくれれば良かった、そう思う。そうすればこの世界で生きることも無かったのに。

母、古谷希の職業はホステスだ。ホステスと言っても、高価なお酒を扱っている高級店とは違い、小さなスナックで細々と働いている。しょっちゅうお店のお客さんを家に連れて帰っている。一度隠れて、様子を伺ってみたことがある。お客さんが衣服を全て脱ぎ去って真っ裸になっていた。下半身には、自分の体には無いものが付いている。それは大きく膨れ上がって、ぴんと跳ね上がっていた。初めて見たそれに、私は嫌悪感を抱いた。気持ち悪くなって、襖を閉じた。それから、今まで聞いたことの無い声が響き渡った。呻き声というよりかは、喜びを凝縮した感じだ。母の声は男の人とは違い、嘘が混じっていた。何故かは分からないけれど、私には確信があった。

三十分程経過して、襖の向こうは静寂に包まれた。その日は、母と男の人の声が鼓膜にこびりついて、眠れなかった。それ以来、母が男性を連れてくる時は、こっそり家から抜け出している。

腕の血は止まっていた。無数に刻まれた横線は、黒かったり茶色かったり、まちまちだ。指先でなぞってみると、ざわざわする。

袖の長い服を掘り出して、頭から被る。周りの人は腕の傷跡を見ると、詮索したがる。それが鬱陶しかった。

ランドセルを背負った。おさがりでもらった赤いランドセルは、光沢を失い、色も禿げ上がっていた。



相模小学校、それが私の通う学校だ。朝のホームルーム前の教室内は、動物園みたいだ。理性を持たない猿達が、檻の中で騒ぎ立てている。することもないので、机に突っ伏して時間を潰す。木の机はひんやりしていて、気持ちが良い。但しずっと顔をくっつけていると、自分の体温でぬるくなってしまう。だから時折顔を上げることで、温度管理しなくてはいけない。

外の蝉がじりじり鳴いている。蝉は外に出たら、七日ほどで死んでしまう、と聞いたことがある。もし自分の余命が七日だったら、悲しい、もっと生きたいと思うだろうか。

どんっ、ふざけていた男子の一人が机にぶつかって来た。埋めていた顔と机が擦れて痛い。自然と舌打ちしていた。

「何だよ、文句あんのか」

佐々木が睨んでくる。馬鹿な奴は、相手をするだけ無駄だ。再び顔を机に埋める。

「無視してんじゃねえよ!」

叫び声と共に、拳骨が後頭部に直撃した。机に面していたので衝撃を逃す場所が無く、鼻が机に押し潰された。意図せず、声が漏れ出た。

「潰されたカエルの声みてえ」

そばかすだらけの佐々木は、意地の悪い声で、鼻を抑えている私を嘲笑った。取り巻きの松井と小林は、佐々木のご機嫌を取ろうと、佐々木に倣って高笑いしている。

「はい、みんな席に着いて。出席を取ります」

担任の児玉先生が入って来て、クラス中が静かになった。佐々木達も、渋々自分たちの席へ戻って行った。

先生は覇気の無い声で、毎日点呼を取る。定年間際の児玉先生は、髪は殆ど生えておらず、少ない白髪が頭頂部に散在している。ぼけているのか、たまに生徒の名前を間違って呼ぶことがある。そういう時、敢えて訂正することも面倒だから、生徒達は黙っている。

「古屋さん、古屋南さん」

いつの間にか自分の名前を呼ばれていた。しっかり手を挙げて返事した。

「古屋さん、鼻血でてる」

先生に指摘されて、挙げていた手を見ると、指に血が付着していた。

「大丈夫?」

佐々木達が、戸惑いの表情を浮かべていた。チクられることを恐れるならば、そんなことしなきゃ良い。

「ああ、平気です。水道で洗いに行ってきます」

席を立って、教室を出た。佐々木達が怒られる姿を見る事が出来るのは、面白そうだったが、色々説明しなければいけないのは、煩わしかった。

蛇口を捻って水を出す。初め出てくる水は、生ぬるくて嫌いだ。徐々に冷たくなっていく過程を楽しむ。両手で小さな貯水池を作って、水を溜める。すぐにいっぱいになるので、それで鼻をすすぐ。二、三回続けると、鼻に水が入ってむせてしまった。もう血は止まっていた。腕の傷と同様に、私の体は傷ついて血が出ても、すぐそれを治してしまう。

学校の授業はつまらな過ぎて、半分以上寝てしまう。

唯一の楽しみは図工だ。絵を描くことも、工作も好きだ。私は大抵、猫の絵を描く。人間を含めた生物の中で、この愛くるしい生き物が一番好きだ。くりくりしている目、細長い髭、ふわふわしている耳、するんと長い尻尾全てが愛おしい。

昔空き地に捨てられていた子猫を拾ったことがある。その子は泥や土で汚れていて、鳴き声も嗄れていた。放っておけず、家へ連れて帰って、お風呂場で洗ってあげた。タオルで優しく拭いてあげると、空き地にいた時とは別の生き物の様に、可愛かった。お腹が空いているみたいだったので、牛乳を皿に入れて、飲ませようとした。子猫は一口飲むと、それ以上飲もうとしなかった。何がいけないのか分からなかった。でも、何とかしないといけないと思って、近所の猫を飼っているお姉さんに助けを求めた。その人は私の質問に、温めてみたら、とアドバイスしてくれた。半信半疑であったが、試してみた。レンジに皿を入れて、三十秒温めてみた。加熱した皿に指を突っ込むと、程良い温度だった。それを子猫にあげてみると、瞬く間に飲み干した。その時、自分がこの猫の命に関われた気がして、嬉しかった。

その猫をミケと呼ぶことにした。ミケは私をお母さんと勘違いして、擦り寄って来た。膝の上で丸まって眠るミケを見て、守ってあげたくなった。多分あれを母性と呼ぶのだろう。

夕方になると、いつもより早く母が帰って来た。母はミケを見た瞬間、悲鳴を上げた。どうやら私と違って、猫が嫌いだったらしい。すぐに元の場所に捨てて来いと、命令して来た。基本的に母には逆らわないけれども、その時ばかりは歯向かった。

怒り狂った母が、ミケを強引に奪おうとした。私はミケに覆いかぶさって、何度も蹴られ、何度も殴られた。小学校低学年が、大の大人に勝てる訳も無く、ミケは連れ去られて、私は痛みで立ち上がれなかった。その日は一日中泣き喚いた。ミケを捨て帰った母は、そんな私の姿に怒って、声を出さなくなるまで殴打した。

次の日、空き地に行くと、ミケはダンボールの中で息絶えていた。膝で眠っていた時は暖かかったミケは、すっかり冷え切っていた。

その日泣きながら、初めて自傷行為を行った。本当は死のうと思っていた。だけど九歳の私は、どうすれば人間が死ぬのか、分からなかった。カッターを右手に持ち、刃を出す。かちゃかちゃかちゃ、加減が分からず、大分長くなってしまったので、微調整した。

取り敢えず、左手首付近を切ってみる。ちょっと刃が肌に入り込むだけで、痛い。目から自然と涙が出て来る。ミケが味わった苦しみ、痛さはこの程度では無い、自分を奮い立たせて、更に切り込む。歯を食いしばり、痛みに耐える。カッターを離すと、手首に一文字線が出来ていた。血で彩られた、真一文字。そこからは、血がどんどん出て来る。自分の命が削り取られている感じがして、私は興奮した。ミケにまた会えるんだ!

結局その日は三回手首を切ってみたが、死ぬことは無かった。後日、その行為を「リストカット」と呼ぶことを知った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ