【3】ある田舎領主の回顧録(七篠狐)
〇〇年の初秋。森の木々が僅かに赤く色付き始めた頃のことだった。その日は、定例の領主会議も兼ねた交流会が開かれていた。
午前中は貴族の大人たちが円卓を囲んで座り込み、夜になれば今度は皆で食卓を囲む。長らく大きな争いとは無縁な、長閑な田舎領主たちが追われる政務から逃れるための体の良い言い訳の一つでもあった。
その間、連れてこられた子どもたちは、別の場所で大人たちを待つことになる。
『貴族の嫡子たる同士、親交を深めておくように』などと言われていたが、今にして思えば会議をしている間の世話を面倒くさがっただけかもしれない。
いずれにせよ、私たちはただ待つだけの退屈な時間を共有する仲間として意識し合うようになったのは、結果的に見れば大人たちの思惑通りだったのだろう。
最初は自分の故郷の話を語り合う程度の大人しいものだったが、それだけで満足することが無いのが子どもの無尽蔵とも言える活力のなすところであり──そして同時に今の私が心から求めてやまないものでもあるのだが!──今では何かしら理由をつけて屋敷中を遊び回るようになっていた。
今日も今日とて、皆は思い思いに退屈な一時を過ごしていた。訓練場に行く者。応接間で談笑に耽る者。
私は友人と遊戯室でカードゲームに興じていた。父から教えてもらったポーカーゲーム。今年の誕生日祝いに父から貰った特注のトランプの自慢も少しばかり兼ねていた。
「──また負けた……お前イカサマしてるんじゃねえだろうな?」
「まさか。偶然だよ、偶然」
数回のゲームで全負けし、思いっきりこちらを睨めつける友人。咄嗟に慰めの言葉をかけるが、あまり効果はなかったらしい。
「いいよ、もう飽きた。それより玉突きやろうぜ」
そう言って彼らは向こうの玉突き台に行ってしまった。後に彼は玉突きの名手としてその手の界隈では有名になったのだが、それについてはまた別の機会に記すことにする。
──ともかく、早々にして暇つぶしの相手がいなくなった私は、仕方が無いので屋敷の中を散策することにした。
侯爵夫人の好みだという白い百合の花畑。風に揺れるそれらを眺めていると、ふと向こうの東屋に人影が座っているのが見えた。
──誰だろう。
妙な好奇心が湧いた私は、一切の躊躇なく東屋の中に入っていった。
「こんにちは」
「……ああ、こんにちは」
見るからに気品のある少女だった。フリルの付いた若草色のドレスを身に纏うその姿。顔には少しだけ化粧が施されており、目尻と頬がわずかに赤く塗られたその顔は、さながら精巧な蝋人形のようだと、私は思った。
「君は誰なんだい?」
「私? 見てわからないの?」
分かるわけがないだろう。そんな言葉が思わず口から出そうになった。見たところどこかの貴族令嬢であることは分かるが、今まで出会った同年代の知り合いに、女性は一人もいなかったのだ。
「まあ良いわ。少し私に付き合いなさいな」
「なんで?」
「暇なんでしょう?」
見た目の印象より随分と気の強い少女だった。まるで端から私に拒否権が無いかのように彼女は対面の空席に視線を向けた。
彼女の手元には
「……せめてお茶でも用意してくれないの?」
「貴方が用意すればいいでしょう?」
「そんな……」
渋々と席につくと、彼女は満足げにカップに口をつけた。妙に香りの強い紅茶の匂いが鼻をつく。やがて彼女は一息吐くと碧色の瞳をまっすぐ私に向けた。
「──ここの執事長が前節に亡くなられてから、私と話ができる人がいなくなったから。久しぶりよ」
「……ふぅん?」
彼女の言葉に何か違和感を覚えた。しかし、彼女は気にすることなく話を続けた。
「──こういう身になってから思うようになったのだけど、この世界の人間は形而上学的な存在に対して理解が浅いどころか理解すること自体を拒絶する傾向が非常に強いわよね」
──何を言っているのだろう。
「パパもママも死んだ人間にいつまでも思いを馳せるなら、もう少し世界の見方を改めた方が良いと思うのよね。泣かなくったって私は今もここにいるわけなんだし」
「……へぇ?」
適当に相槌を打つ。当時の私に彼女の話はよく分からなかったが、それでも彼女は満足げな表情を崩さなかった。どうやらただ話を聞いてくれるだけでも十分らしい。
他愛のない話は暫く続いた。最近入ってきた侍女の話。中庭の花畑の手入れが少し雑になっている話、等々……ひどく退屈なものだった。
「──ねえ、何してるの?」
いつの間にか、私はポケットにしまっていたトランプを弄っていたらしい。怪訝な表情で、彼女はこちらを見ていた。
「……だって話が退屈だったし」
「そういうの、本心でも言わない方が良いって先生に教わらなかった?」
「──君に処世術を使えっていうの?」
思わず声を荒らげてしまった。女性には優しくあるべき、などという礼儀を先生から聞いたことはあるものの、今目の前にいるこの少女に対しては、その礼儀は適用されないのではないか、などと私は勝手に思いこんでいた。
「まあ良いわ。それじゃ、そのカードで遊びましょう。生憎と賭けるものはあまり無いのだけど……」
「子どもが賭けで遊びをしてはいけないって父に言われてるんだけど」
「馬鹿ね。こういうのは、賭けでやるから面白いのよ。私の先生もよく言っていたわ」
そういうと彼女はそばに置かれていた焼き菓子の皿に目を向けた。
「仕方ない。今回はこの焼き菓子で手を打ちましょう。勝てば一つ焼き菓子を食べられるってことで、良いかしら?」
「……いいよ」
あまり乗り気ではなかったが、この少し生意気な子を思いっきり打ち負かしてみるのも悪く無い。私はそう思った。
──だが、結果は私の惨敗だった。まるで私の手の内が透けて見えているかというほど、彼女は一切負けることがなかった。
「……イカサマ、してない?」
悔し紛れに吐いた私の言葉に「どうかしらねぇ」と素知らぬ顔で答える少女。
「それとも、もう一回勝負してみる? なんだったら今度は手加減して──」
得意げな彼女の言葉を遮るように、昼の告げるからくり時計の鐘の音が中庭に響いた。
「おーい、何やってんだー?」
中庭の入り口で、友人がこちらに声をかけているのが目に入った。
「父上たちの会議が終わったから、食堂に集まれってさ。お前も早く来いよ」
言うだけ言うと、友人はそそくさと屋敷に戻っていった。
「もう行かないと。君も戻るんだろう?」
そう言って少女の方を振り向くと、彼女は何か浮かない表情をして、カップを見つめていた。
「私はいいよ。後で、行くから」
俯きがちに、彼女は呟いた。先程までの自信に満ちた姿とはまるで違うその姿に、私は何も言えず、その場を後にした。
結局、あの少女と再び出会うことはなかった。そのことに妙な寂しさを覚えながら、私は友人や父と残りの一日を過ごした。
あの若草色の令嬢について父に尋ねてみたものの、「知らない」の一点張りだった。彼女は一体何者だったのか。今となっては分からない。父も、屋敷の主人も件の少女については口を揃えて「知らない」と答えた。
領主として父の跡を継いだ今も、あの屋敷には時折通っている。その度に私は中庭の誰もいない四阿を覗くのだ。
あまり使われていない、少し古ぼけた四阿の中には、あの時の紅茶の香りが僅かに残っているような気がした。