36話 小枝少女は話しかける
「いいかい? 触れた対象、及び自身を浮遊させる能力に制限はないが、触れなければ発動しない。何があっても、どれだけ動揺してもこの手を離してはいけないよ。さもなければ君は岩に挟まれて死ぬ……そのことをよく肝に銘じてね」
「……はい」
これまで柔らかかった浮遊少女の声色が、岩に入ってから厳かな響きを付けて念を押した。力強く握られていた手が、一層固く握りしめられる。私が動転して仮に力を抜いてしまっても、離さないようにするためだろう。
……そう、ここはバーチャルの世界ではない。いくら海の圧力がかからずとも、呼吸が苦も無くできても、本物の海の中なのだ。あの子に関してもそうだけれど、こちらについても気を緩めてはいけない。
はぁぁぁ……と、深く息を吸わせてもらえることが、今はとても嬉しかった。
「――行きましょう。あの子はどこにいるんですか……?」
「動いていなければ、この先だ。進むよ」
そうして浮遊少女は、ゆっくりと前へ浮遊する。小枝少女も引っ張ってもらい、先に進んだ。
光が差さない暗闇――弱音を掻き立てるそのロードを、小枝少女はもう片方の手を胸に引き寄せて待つ。
何を言うべきかは、きっとこれ以上まとまらない。嫌な緊張感も、きっとこのままの方がいい。あとはただ、祈るだけ――上手くいくことを。
――たった一、二分の時が、彼女にはとても長く感じた。
「いたよ」
浮遊少女から、合図がある。
「触って確認した。この子は昨日からずっと動いてないようだ。眠っているかどうかは……君が声をかけてやってくれ」
暗くて何も見えない。けれど、確かにそこにいるのだろう。
最初にかける言葉は……決まってる。
「私のこと、わかる?」
「……っ、な」
この静寂さには――感謝しなければ。
おかげであの子らしき子供が息を呑む音と一音を、漏らさず聞くことができたのだから。
表情は見えないし、一音しか聞けなかったけれど、明らかに私の声に反応した。
――あの子だ。
砂で遊ぶのが好きで、髪が長くて、青い瞳の……大人しくみえて、他人思いでよく喋る女の子。
そう確信して、小枝少女は語気を強めることなく続ける。
「何があったの? あなたのお母さんに訊いても、何も答えてくれなかった……でも、何かあったんだよね? でないとこんなこと……するはずがない」
「……」
「私ね……あなたがいなくなってからずっと探してたんだ。悪いことが起きたんじゃないかって……他の幻想さんから話も聞いたよ。おそらくあなたのお母さんが生み出した幻だろうって……けど、何に悩んでるかはわからないの。お願い、何とかしてあげたいから話して」
「……」
「――っ、な、なにをしたかったの? お母さんの……こと?」
「……」
「……話したくない、事情があるの?」
「……」
暗闇が、邪魔だった。
これじゃ頷いていたとして、身振り手振りで伝えようとしていたとしても、私には見分けがつかない。
表情にしても、ひどく困っているのか、とても怒っているのか、無表情なのか……悲しい顔をしているのか、わからない。
幻想である彼女ならわかるかもしれないと、浮遊少女の方を向きかけたけれど……きっと、彼女も見えないだろう。白衣少女は「長い黒髪で小さい」ということしか確認できなかったと言っていた。もしも見えていたならば、衣服や様子などの細かいことも判明していたはずだ。そして自分の知るあの子と照らし合わせることができたはず。
どんな表情なのかがわかったら、せめて、こちらもどう対応するべきか大まかにでも察せるというのに……。
自分が情けなくなった。どうすればこの無音を変えられるというのだ……?
私の声が暗闇に虚しく響く。何の意味も、価値もない言葉が。
どれだけ彼女が落ち込んでいても、悩んでいても、受け止める準備はできていたはずだった。
けれどまずは……彼女の声を取り戻す必要があるのだ。スタートラインに立たなければいけない。
そのスタートラインに立つ準備を、私は怠っていた。
彼女が深刻に悩んでいることをもっと理解していたならば、気を回せたはずなのに……。
どうしよう……変えられる気がしない。良い方向に流れる気配がまるで感じない。
不安が小枝少女の心を支配する。自分の無能さを実感する。悔しさで歯ぎしりしたくなる。なんで……なんであのお母さんは、この子をこんな所に放って……。
(……小枝ちゃんなら何とかなると思ったのだが、そう都合よくはいかないか)
隣で無言を貫く浮遊少女は、手を固く握りしめて固定していた。彼女の握る力が緩くなっていることを肌で感じる。
心を閉ざした彼女には、もはや閉ざしたきっかけにしか反応することができないだろう。
最初に小枝少女の声でが呟きを漏らしたことから、彼女は鍵になりえるはずなんだ。良い意味でも、悪い意味でも……小枝少女にしか気付けない何かがあるはず。
その何かにさえ気づければ、糸口も自ずと見つかるはずなんだ。事件の経験から、浮遊少女はそう信じていた。
小枝ちゃん……諦めるな。本当に助けたいと思うなら、寄り添うんだ。
君にしか気付けない何かが、きっとある……!
「――はぁぁああ……」
三度目となる深呼吸を、小枝少女は行った。
いけない。この子のお母さんを恨んではいけない。
よく考えろ。あのお母さんはこの子を逃がした。分かりやすいほどに怯えた顔をしていた。
何かに耐えられなければ幻を生み出すことはない。ならば――そんな状況に陥ったとしたら、どんな幻を生み出そうとする……?
思い出せ――この子がどんな性格だったのかを。何を優先していたのかを――。
途轍もなく、人間よりも分かりやすかっただろう?
「……私のお母さんもね、昔はあなたのお母さんみたいに幻を見てたんだ――自分の夫を」
小枝少女は、言葉を紡ぐ。
「でも、今は見てない。私を産んだ後、乗り越えてくれた。きっとお父さんのお陰なんだと思う。だから私は、そういう人も幻も軽蔑しないよ。むしろ救い出したいって思う……だから話して? 何があったの? 私も考えたいから……お願い」
身勝手なことを言っているかもしれない。何ら実績もなく、知恵もない高校生の出過ぎ真似かもしれない。
ずっと話さないでいいよってスタンスだったのに、だからこの子も安心していられたのかもしれないのに。
でも、人幻である自分にしか口出しできないなら、口出ししたい。
ここで口出ししなければ、何もかもが放置されたまま終わる気がするから。
「……たす、けて……」
その声は、掠れていた。
けれど自分にはわかる。あの子の声だ。
二日ぶりに耳にした……幼い声だ。
「お母さんを、助けて……もう、わたしの声は届かないの。わたしじゃ、ダメなの……どうすればいいのか、わからない……」
涙が滲んだその声に、私は頷く。
「わかった。絶対に何とかする」
あなたがお母さんを救いたいというなら。
それが唯一無二の願いならば、手伝うよ。
『絶対』と口にしたからには、後戻りしない。




