第6話 商人オラシオ
日曜日は3話更新です。朝、12時台、20時台に投下します。
本話は日曜日1回目の投稿です。
「リタさん、酸っぱいのとしょっぱいのと甘じょっぱいの、どれがいい?」
「あ……はい、それでは……甘じょっぱいのでお願いします」
「はい、どーぞ」
カーニバルの会場で、リタは青緑色の瞳をゆらめかせ、困惑していた。
というのも、トージに手渡された「おにぎり」という白い塊が、リタにはどうしても食べ物に見えなかったのである。
水分が抜けないように炊き上げられた米粒は、いまだ若干の透明度を保ち、夕日を吸い込んでほんのりオレンジ色に染まっている。
その表面には傷ひとつなく、宝石のようにつやつやと輝いているのだ。
オパールの小粒をまとめ上げたようなその塊は、小さなシャンデリアだと言われても納得できるように、リタには思えた。
「ほらほら、食べなきゃお腹はふくれないよ。ガブっといっちゃって」
「あ、はい、わかりました」
リタが小さな口で、大きなおにぎりの角の部分にかぶりつく。
(あっ……)
最初に感じたのはぴりっとした水塩の塩味。
次いで、炊いたお米から発せられる独特の香りが鼻腔に抜けていく。
米の粒には粘りと弾力があり、噛み潰すとむにゅりと潰れて口の中に広がる。
米粒に含まれるアミノ酸が舌を刺激し、数秒後、唾液が米粒のデンプンを分解して生まれた糖類の甘みが、じんわりと広がっていく。
「お、おい、姉ちゃん? どうしたんだよ……」
弟の呼びかける声は、リタの耳に入っていない。
瞳からあふれ出した自分の涙にも、気付いていない。
誘われるように2口めをほおばる。リタの口がおにぎりの中心部に到達し、米と一緒に具材の海苔佃煮が、彼女の口内に運ばれていく。
ツンとかぐわしい初体験の刺激は、磯の香りだ。岩海苔が甘辛く煮込まれ、淡泊な白米と混ざり合って、一体感のある味わいをもたらしてくる。
「おい、姉ちゃん、返事しろって!」
弟に肩を揺らされ、リタはようやく現世に帰還する。
「とても……とても……美味しいです……」
「……うん、満足してもらえたなら何よりだよ」
トージの顔に、暖かく穏やかな笑みが浮かぶ。
リタの反応に集中していたトージがあたりを見回すと、何十人という村人が集まって、生唾を飲み込んでいた。
皆、異邦人のトージが繰り出した料理に注目し、最初にそれを口にしたリタの感想を、固唾を呑んで見守っていたのであった。
「お、俺もそれをくれ!」
「っざけんな、並んでたのは俺が先だ!」
「アタシも頼むよ、旦那のぶんとふたつね!」
「ちょっと待って、並んで、並んで下さい!!」
未知の食べ物おにぎりを求めて、秩序なく押し寄せる村人たちに圧倒されるトージ。メガネがずれて落ちそうになり、あわてて受け止める。
「あーもうダメだこりゃ。トージさん、ここは俺と母さんに任せてくれ」
リタの弟ロッシがそう言い、お盆の正面に陣取って場を仕切り始める。
そしてリタの母レルダは、順番を無視して脇から伸びてくる手を押しのけるのに余念がない。
「いいかー? ひとり一個だぞ! 二個以上取ったら村長に報告するからな!」
「おいてめえ! さっき一個食っただろ! しれっと並んでんじゃねえ!」
喧騒を離れて一息つく、トージとリタと妹ルーティ。お盆の前ではロッシが、大のオトナを相手に丁々発止のやりとりを繰り広げている。
「いやー、凄い迫力だなぁ。僕にはちょっとできそうにないよ」
「えへへー。ロッシ兄ちゃんはすごい狩人だからね、コラーッ、って怒ると、ワルガキたちも逃げてくんだよー?」
「へぇ、やるなぁ、ロッシ君」
リタの妹ルーティは、家族をほめられて嬉しそうだ。
一方でリタは、大きなおにぎりを食べ終えて恍惚の表情を浮かべていた。
「とても……とてもおいしかったです、トージさん」
「うん、ありがとう」
「トージさん、あの……家族にも“おにぎり”を食べさせたいのですが」
リタはそう言って、お盆のほうに心配そうな目線を送る。
すさまじい勢いでおにぎりが配られ、いまにも売り切れてしまいそうだ。
「心配いらないよ。みんなと村長さんのぶんは、別の包みに入れてあるんだ」
トージはいたずらっぽい笑顔を浮かべ、台車の上に置かれている包みをチラリとめくってみせる。そこには20個ばかりのおにぎりが包まれていた。
「まあ」
「みんなには3つずつ用意してあるから。村のひとたちには内緒だよ?」
「あんな大きなものを3つも……!? あ、ありがとうございます」
一家そろって発育不良気味なリタの家族を心配していたトージは、せめてお腹いっぱい食べてもらおうと、たっぷりのにぎりめしを用意してきたのだ。
トージにとっては何ということもないが、リタの価値観から見れば、これはかなりの大盤振る舞いである。
リタが恐縮しているところに、脇合いから声が掛かった。
「おい! あんたがこの米料理を作ったトージさんか!?」
「はい、そうですが」
トージが振り返ると、そこには20歳そこそこに見える男が立っていた。
緑色に染め抜かれた、村人よりも上等な服を身につけたその男は、トージよりすこし大柄な身長175cm程度。くすんだ金髪を左右に分けている。
髭を生やした細いアゴは、これでもかとばかりにしゃくれていた。
さきほど村長のスピーチのとき、つまらなそうに座っていた商人オラシオだ。
だが今は、その表情は何かに追い詰められたように必死なものになっている。
「トージさんよぉ! この米はいったい何だ! あんなに艶があって、もちもちとして、うま味がぎっしり詰まって臭いも少ねぇ米なんざ、生まれてこのかた、俺ぁお目に掛かったためしがねぇ!」
「そんなものですか」
「そんなものだとも! 俺の実家ぁ穀物商だぞ!」
そう叫ぶと、オラシオはトージの肩をガシッと両手でつかみ、血走った目で必死に訴えかける。尋常ではない雰囲気である。
「トージさん、このオラシオ一生の頼みだ。あの米がどこで作られたシロモノか、教えちゃあくれねぇか!? タダでとは言わねぇ、相応の礼はする!」
これが、あのつまらなさそうに祭の会場を見ていた男と同一人物だろうか?
違和感を持ちながらも、トージは言葉を返す。
「いえ、あの米なら、うちの田んぼで作ったやつですよ」
「なんと!? あんたんところで作ってんのかい!」
トージにとっては隠すような話でもない。それに米作りに携わる者として、これほどまでに自分の米をベタ誉めされるのは嬉しいことだった。
「じゃあ……それじゃあ、その米を売ってくれ! 値段は港町の米の2倍、いや3倍出そう」
「ありがたい話ですが、あれは自家消費用で……あんまり量がないんですよ」
「……ああ、なんてこった!」
ガイジンさんなら「オーマイガッ!」と言っていそうなリアクションで頭を抱えるオラシオ。鋭いアゴが天を向いている。
「袋ひとつでもかまわない」と粘るオラシオに、トージは明日の商談を約束して会話を打ち切った。
「オラシオさんがあんなに興奮しているところ、はじめて見ました」
リタが意外そうな顔でトージに語りかける。
「まあ、不景気な顔で祭をシラケさせるよりは余程いいよ。ともかく、これからが本番だ。張り切らなくっちゃね」
今日のトージは商売をしにきたのではない。祭りを盛り上げに来たのである。
トージが初めて会う人たちに、はじめて賀茂篠の日本酒を飲んでもらう。
酒蔵の当主として、一番大事な時がやってきたのだった。