第30話 2日目の麹造り
ピーンポーン、ピーンポーン
深夜の暗闇に、蛍光灯の光とチャイムの音。
ピポピポピポピポピーンポーン
扉の外には3人の男。ドアノブの前に立っていた男は、懐から棒状のものを取り出し、錠前に差し込んでカチャカチャといじりはじめた。
くいっと左にひねると、カチャリと音を立てて錠が開く。
男たちは扉を開き、室内に侵入する。
真っ暗な室内には、ベッドの上ですうすうと寝息を立てる人影ひとつ。
部屋に侵入した男が壁際に手を伸ばすと、とたんに室内は白い光に包まれる。男は突然の光にもぞもぞ動き始めたベッドに近寄り、強引に布団をはぎとった!
「いつまで寝てんだ、ギョロメ!!」
「ん……? ぶひゃぁっ!?」
真夜中にたたき起こされたギョロメの前には、肩をいからせた雇い主のトージと、眠そうに目をこすっているノッポとモジャが立っていた。
「トージ様、なんでこんな夜中に」
「真夜中に作業があるから、早めに寝ておきなよって言っただろ?」
「んが、そういやあ……!」
ギョロメの枕元にあるデジタル時計は、1時25分を指していた。
「寝ぼけてる場合じゃないぞー。着替えて作業始めよう」
トージは、まだ若干ふらついている3人を引き連れ、蔵に向かって歩き出した。
――――――――――◇――――――――――
賀茂篠酒造の麹室にやってきたのは、4人の男たち。
昼の作業よりも人数が少ないのは、リタとテルテルがいないからだ。
リタは泊まり込み作業の許可が下りなかったため、自宅で就寝中。
テルテルは夕方に地面に潜ってから姿を見せていない。おねむのようだ。
「さて、昼間の作業で蒸した米に種をまいたわけだけど、12時間たったから、そろそろ芽が出ているはずなんだ」
「もう芽が出るだか? 麦なら2日はかかるだが」
「これを見るかぎり、もう出てると思うよ」
トージが指さしたのは、布に包んだ蒸米のなかに差し込んだ、温度計のデジタル表示板だ。温度は33.7度を示している。
「昼に米を冷ましてから包んだとき、温度は30.5度だった。3度暖かくなっているということは、コウジカビが発芽して成長しはじめた証拠なんだ」
トージはそう説明しながら、米を包み込んだ布を開いていく。
「……なんも変わってねえように見えるだが……」
「これを使って見るといいよ」
「ん? こりゃ、なんだべ?」
「虫眼鏡。小さいものを拡大して見る道具さ」
「おー、でっかくなっただ」
トージから虫眼鏡を受け取ったギョロメが、その大きな目を不思議そうに動かして米をのぞき込む。
「だども、やっぱり変わってねえように見えるだが」
「いやいや、米の表面に、白い点がポツポツとついてるだろ?」
米粒ひとつに1~3個程度ついている小さな点。
それはゴマ粒はおろか、食塩の粒よりも小さかった。
「そのちっちゃな点が、コウジカビの芽なんだよ」
「こんな小さいだか!」
「いや、種が粉みてえに小さいんだから、芽だって粉みたいに小さかろうべよ」
「んだんだ」
「その芽を3日かけて立派に育てるのが、僕ら蔵人の仕事ってわけさ」
そう言ってトージは、得意げに胸を張る。
「それでこれからやるのは“切り返し”って作業だ。この蒸米の塊、外側はすこし冷えて乾いてるんだけど、内側は熱気が籠もって暖かく、湿っているんだよね。コウジカビは暖かくて湿ってるほうが早く育つから、このまま放っておくと成長にムラが出ちゃうわけだ」
「それ、なんかまずいべか?」
「何言うとるだ。麦も、完熟したのと未熟なのが混じってると、収穫がめんどくせえことになっちまうべよ」
「いえてるね。なので温度を均一にするために、この塊をほぐして、よく混ぜて温度を均一にしよう」
トージの号令を受けて、蔵人たちは切り返しの作業を開始する。
わずかに水分を吸った蒸米は、12時間でガチガチに固まっている。これを、米粒を壊さないように慎重に、バラバラになるようほぐさなければいけない。
「ふい~、この仕事、結構きついだな」
「見た目は楽そうに見えるだろ? 実際は水を吸って重くなった米をいじるんだから、けっこう重たいし大変なんだよね」
たっぷり時間をかけて、100kgあまりの蒸米をバラバラにほぐし終わったときには、トージとうわばみたちの額には、たっぷりと汗の粒が浮かんでいた。
「よし、それじゃあ蒸米が冷えないように、また布に包み直そう」
トージは作業前と同じように、芽が出た蒸米をひとまとめにし、布に包み直す。
「また包み直して、放っておくだか?」
「そうだね、次は朝まで放っておくことになる」
「……包み直すと、またくっつくんでねえだか」
「もちろん。またくっつくね」
「……ちゅうことは……」
「朝になったら、また“ほぐす”作業、がんばろう!」
キラキラと良い笑顔を浮かべているトージに、3人のうわばみは、汗を垂らしながら苦笑いを返すことしかできなかった。
――――――――――◇――――――――――
麹造り2日目の朝。まだ日も昇りきっていない午前7時。
麹室の前で作業の準備をしているトージと、眠そうに手伝っているうわばみたちの前に、昨夜は聞かれなかった高い声が響いてきた。
「おはようございます、トージさん!」
「あれ、リタ? ずいぶん早いね?」
「日の出直前から作業だと聞いていましたから、早めに出てきました!」
いつもより若干息が弾んでいるのは、坂道を急いで登ってきたからか。
作業の前の朝風呂をすませたリタの白い肌は、ほんのりと赤みをさしていた。
「まだ暗いんだし、つまづかないように気をつけてね? それじゃあ朝は、この5人で作業をはじめよう」
真冬だというのに、村の周辺には霜すら降りない。賀茂篠酒造の外気温計は8度を指している。しかし、麹室の中は常夏だ。常時室温30度以上、ときに40度近い温度になることもある。
日常生活との気温差に加え、湿気も高い麹室での作業は体力を削り取る。
そんな麹室での作業を経験したうわばみたちの表情は、睡眠不足もあり、げっそりとしたものになっていた。
そんななかでも元気なトージは、全員を麹室に迎え入れて説明を始める。
「さて、昨日の深夜の段階で、蒸米にコウジカビの芽が出たわけだけど、あれから5時間たって、コウジカビの芽はさらに成長している。そしてここから爆発的に成長して、たくさん熱を出して息をするようになるんだ」
「熱を出したり息をするんですか? なんだか家畜みたいですね」
「家畜かぁ、確かにそうかも。じゃあこれからの作業は、この米粒ひとつひとつが家畜のつもりで、面倒を見てもらえるかな? まあ、家畜と違って逃げないけどね」
「任せてください、家畜の世話は得意なんです」
「よろしく頼むよ。それじゃあ、コウジカビの芽がどうなったか見てみよう」
トージは蒸米の塊に差し込んだ温度計の表示が34度を超えているのを確認し、米を包んでいた布を外すと、ギョロメに虫眼鏡を渡した。
「夜と比べてどうだい、ギョロメ?」
「コウジカビの白い芽がちょっとでかくなってるだ。あと、芽がないところがツヤツヤしてる気がするだが……」
「みんなも見てみてくれ。それはどっちも、コウジカビの成長がうまくいっている証拠だよ。温度が低かったり芽が小さいときは、もうちょっと次の作業を遅らせて暖めないといけない」
「これが芽ですか、ずいぶん小さいですけど、昨晩はもっと小さかったんですか?」
深夜の作業に参加できなかったリタは、不思議そうに米の表面を検分する。
米粒の表面にできた白い斑点は、もう虫眼鏡を使わなくても確認できるような大きさになっていた。
「みんな米粒の表面は確認したね? それじゃあ深夜と同じように、まずはこの米の塊をほぐしていこう」
額に浮かぶ汗を拭き、上着のシャツを着替えながら米をほぐす蔵人たち。
全国の酒蔵のなかには、上半身裸で麹室作業を行う蔵も少なくない。
賀茂篠酒造では、汗や皮膚常在菌が米に混入することを嫌って薄い七分袖シャツを着用しているが、これは全国で決まったやりかたではないのだ。
日本酒のづくりの方法は蔵ごとに細かく違う。酒造業界ではこのことを「酒造萬流」などという言葉で表現することもある。
「ふいー、こんなもんでええだか、トージ様」
「よーし、OKOK。それじゃあさっそく次の作業、“盛り”に入ろうか」
トージと蔵人たちの前の作業台には、ばらばらにほぐされた100kgの蒸米が、小山のようにこんもりと盛りつけられている。
「コウジカビの芽が出た蒸米は、そうだな……家畜に例えるなら、乳離れした若いヤギみたいなもんだ。これから草を食べまくってどんどん体が大きくなって、汗もかくし体温が上がる。こんなふうに密集させて飼っていると、獣舎は熱くてムレムレになるし、息苦しいから弱る子も出てくる。リタ、こんなときどうすればいいだろう」
蒸米の山を指さしながらトージが聞くと、リタの回答は早かった。
「獣舎のなかに何十頭も詰め込むのが、よくないです。何頭か屠殺するか商人に売るかして、獣舎のなかで自由に動けるくらいに減らしませんと」
「お、おう、たしかにそうだね」
美少女の口から唐突に飛び出した「屠殺」ワードに、ひるむトージであった。
ともあれコウジカビは、酸素を吸って熱と二酸化炭素を吐き出す生き物だ。
そのため米粒どうしをあまり密集させると、温度が高くなりすぎたり、酸欠になったりして、コウジカビが弱ってしまう。
かといってあまりバラバラにしておくと、米粒の温度が下がりすぎて、コウジカビの成長が止まってしまう。
酒造りに向いた麹を作るためには、温度と空調を自在に操る必要があるのだ。
「ともかくコウジカビも対策は同じだ。密集しすぎは毒になるから、バラバラにしてやればいい。具体的にはこいつを使う」
トージは、自分の背後にずらりと百枚近く並んでいる木製の容器から、1枚を手に取った。A4の用紙を2枚並べたくらいの長方形をしたその容器は、高さ6~7センチ程度の薄型で、木目がまっすぐに走った杉の柾目板でできている。
「この薄っぺらいのは、麹蓋。蓋というのは名前だけで、実質的にはただの容器だね。この麹蓋に、そこの蒸米を小分けにしていくわけだ」
トージは蒸米の山に片手サイズのスコップをつっこみ、すくい取った蒸米を升のなかに入れていく。
升の容量はちょうど五合。一升瓶の半分である900mlだ。
すり切り3杯、一升五合の蒸米を麹蓋に流し入れると、麹蓋を両手で持ち、フライパンでチャーハンを炒めるように巧みに動かしながら、麹蓋の中の蒸米を中心に寄せて小山のように盛りあげた。
「この真ん中に寄せるのが大事なんだ。みんなもやってみて」
各自麹蓋を渡された蔵人たちは、めいめいにトージの手本を見ながら、麹の芽が出た蒸米を真ん中に寄せはじめる。
「ほら、その隅っこにこぼれている米も真ん中に寄せるんだ。ひとりぼっちにすると、コウジカビが風邪を引いて死んでしまうよ」
「これだと山が高すぎて積み上げられないな。もうすこし低くしてみよう」
トージは米の盛り具合をチェックし、問題のあるものは整形して直していく。
この盛り具合ひとつで麹の成長が変わってくるのが、麹造りの面白いところであり恐ろしいところである。
こうして蔵人たちが米を盛りつけた麹蓋の枚数は50枚を超える。トージは盛りあがった麹蓋を、トントンと手際よく積み重ね、一番上に乾燥防止のための空っぽの麹蓋を並べた。
高さ6~7センチの麹蓋が9段積み上がったタワーが何本も建ったところで、乾燥防止用の布をかけ、早朝の「盛り」作業は終わりを告げたのだった。
――――――――――◇――――――――――
「おーっす、トージさん。なんか良い匂いするな?」
「昼飯時だからね」
「あ、そっか。ここは三食なんだよな」
「はい、これ。トージさんが、ロッシも食べていきなさいって」
「マジで? そりゃありがたいぜ」
早朝に盛り作業を終え、その他の作業も終えた後の昼食時。賀茂篠酒造の食堂に、リタの弟ロッシが顔を出した。彼は午後の作業を手伝うことになっている。
ここまで紹介している酒造りのメイン工程のほかにも、施設の掃除、器具の洗浄、翌日の準備など、人手はいくらあっても足りないのが酒造りだ。
「そしてちびっこ精霊様は、今日もお酒がお好みと」
「テルテルでいい」
大地の大精霊であるテルテルは昼前に起きてきた。食事はあまり必要ないらしく、すこしつまんだあとは、バイトの日当である大吟醸酒を楽しんでいる。
当初は「大精霊」という肩書きに気後れしがちだった蔵人たちだが、テルテルがあまりに普通にふるまっているせいか、それとも感覚がマヒしてきたのか、軽口を叩けるくらいには親密になっているようだった。
にぎやかな昼食が終わると、昼の作業の時間となる。
蒸し暑い麹室のなかに、トージとリタ、ロッシとテルテル、うわばみ3兄弟の合計7名が勢ぞろいしている。
「さて、引き続き麹を育てていこう。蒸米にコウジカビの種を植える“種切り”から25時間が経過した。麹造りはちょうど中盤戦ってところだね。そんなわけでこれからやる作業の名前は「仲仕事」っていうんだ」
トージはそう説明しながら、麹蓋を積み上げたタワーから一枚を取り出す。
麹蓋の真ん中には、小山のように盛り上げられた蒸米がある。
「“盛り”の作業から5時間がたって、コウジカビは蒸米をムシャムシャ食べてだいぶ成長しているはずだよ。どんな感じだい?」
「朝に見たときより、かなり白っぽくなってますね……」
「うん、蒸米のだいたい3~4割がコウジカビで覆われてる感じだね。それじゃリタ、ちょっとこの小山のなかに指を突っ込んでみて?」
「指を、ですか?」
うなずくトージの指示にしたがい、白くなった蒸米に人差し指を差し込む。
「……あれ? 小山の真ん中は、だいぶ暖かくなっているみたいです。それと、朝よりもサラサラしているような?」
「暖かいのは、コウジカビがたくさん米を食べて活発に活動しているから、コウジカビの体温が上がっているんだ。サラサラしてきたのは、コウジカビが米の表面に残っていた水を全部飲んじゃったからだね」
「そういうことですか……やっぱり、この白いものは生き物なんですね」
「そうだね。なのでコウジカビが育ちやすいように環境を整えてやるのが“仲仕事”の目的なんだ」
トージは作業卓に麹蓋を置き、説明をつづける。
「さて、いまリタに確認してもらったように、この蒸し米は真ん中だけ熱が籠もった状態になっている。“盛り”のときにも説明したけど、温度にムラがあると麹のできあがりにもムラができてしまうし、息が出来なくて窒息してしまう。だから」
トージは蒸米の山を崩し、バラバラにほぐしながら均一に混ぜる。
「こうやって均一に混ぜて、温度のムラをなくしてしまおう」
「なんかずいぶん、ほぐれやすくなってるだな?」
「表面がサラサラになってきてるからね。塊も簡単にほぐれるんだよ。そして“盛り”のときと同じように真ん中に寄せるんだけど……」
トージはふたたび麹蓋をフライパンのように操り、朝と同じように真ん中に蒸米の小山をつくりあげる。
「この蒸米に生えているコウジカビは大きくなったから、朝よりたくさん熱を出すようになってる。このまま戻すと、小山の真ん中あたりは熱が籠もりまくって灼熱地獄になっちゃうだろうね。どうすればいいと思う?」
「うーん、熱いならあおいでやったらどうだべ?」
「朝は熱くなるから小分けにしたなら……さらに細かく分けたらどうでしょう」
「なるほどね、どれも確かに温度が下がりそうだけど、ちょっと大変そうだ。僕らはこうするんだよ」
トージは、麹蓋の真ん中に盛られた蒸米の小山を一瞥すると、その頂上に三本指をつっこみ、ぐるりと一回しした。
小山の山頂にすり鉢状の大穴が空き、その形はカルデラ湖のようだ。
「そんなもんでええだか?」
「今はこれで十分さ。真ん中が熱くなるなら、真ん中をなくせばいいんだよ」
「なんか、狐に化かされたみたいな気分だなー」
ロッシは不思議そうに、トージの手つきをながめていた。
――――――――――◇――――――――――
トージに指揮された蔵人たちは、おぼつかない手つきで「仲仕事」を終え、麹蓋を積み直した。
明日使う米の洗米作業をこなしながら、コウジカビのさらなる成長を待つこと5時間。夕方5時に「仕舞仕事」の時間がやってきた。トージとリタとロッシとテルテル、そしてうわばみブラザーズの合計7人が、薄手の作業着を着て麹室に集まっている。
「さあて、どれくらい育ったかなと」
トージが麹蓋のタワーから一枚取り出し、作業台に置いてみせた。
「白い部分が増えましたね。もう白くない場所のほうが少ないくらいです」
「温度と手触りはどうだい?」
リタは昼間に「仲仕事」でやったのと同じように、蒸米でできた噴火口のなかに指を差し入れる。
「あっ、かなり暖かくなっています。ルーティの口の中みたい」
「コウジカビがどんどんご飯を食べている証拠だね。手触りもかなりサラサラになっているはずだ。そしてもうひとつ、こうやって匂いを嗅いでみて?」
トージは白くなった蒸し米を両手ですくい取り、そこに鼻を近づけてみせる。
蔵人たちがそれを真似して匂いをかいでみると……
「ありゃ、なんだか甘い香りがするべよ」
「何の匂いに感じる?」
「これは……トージさん。ゆでた栗、ですね」
「そのとおり。うまく成長している麹は、栗みたいな香りがするんだ」
「不思議なものですねぇ」
蔵人たちができかけの麹の独特な香りを認識できたところで、トージは新しい作業の指示を出してゆく。
「さて、これからやる“仕舞仕事”は何かって言うと、やりたいことは基本的に“仲仕事”と同じだ。コウジカビの成長にあわせて、ムラが出た温度を均一化して、窒息しないように空気を供給したり、熱がこもらない環境をつくってやることが目的になる。まずはほぐして混ぜて……」
トージが白い蒸米で出来た山の火口を両手で触ると、それだけで蒸米はほろほろとほぐれていく。表面がサラサラに乾いてきている証拠だ。
それをチャッチャと手早く混ぜ合わせて熱ムラをとると、トージは米を麹蓋の奥のほうに寄せていく。
「さっきまでみたいに小山に盛ると、たとえ真ん中に穴をあけても熱がこもってしまう。だからさらに熱を発散できるように、こうするんだ」
トージは両手で1つずつ「3」のサインを作ると、それを米のなかに突っ込み、手前に向かって真っ直ぐ引いていく。
奥に寄せられていた白い蒸米が手前に薄く広げられるとともに、蒸米には6本の深い溝がつけられた。現代日本人がこれを見れば、枯山水の石庭で、無数の筋が付けられた砂利を連想するであろうことは間違いない。
「薄く広げるだけでは駄目なんですね」
「そうすると箱の底に熱が籠もるからね。暖かい空気は上に昇る性質があるから、こうやって溝をつけて空気の抜け道をつくれば、熱気が籠もらない」
「なるほど……」
「トージ、かしこい」
テルテルはトージの頭に手を伸ばそうとするが、手が届かないようだ。
トージがテルテルを抱き上げると、テルテルはトージの頭をなでながら、満足げに「かしこい、かしこい」とつぶやいた。
「さあ、今回もみんなでやってみよう!」
蔵人たちはふたたび、おぼつかない手つきで「仕舞仕事」を進めていく。
できあがりの形が繊細だからか、トージのチェックは「盛り」と「仲仕事」のときよりも格段に厳しかった。溝の深さや畝の高さのひとつひとつがわずかにずれるだけで、米の温度を大きく変えてしまうのだ。
怒濤のように繰り出されるトージのダメ出しに、蔵人たちは大混乱している。
「これ、むつかしい……」
「トージさん、いくらなんでも細かすぎじゃね? 何がマズイのか、ほとんどわかんねーのもあるんだけど」
「盛りと仲仕事は5時間後に混ぜ直すからごまかしが効くけど、仕舞仕事が終わったら、丸一日、そのままの形で崩さず夜を越すことになるからね。本当は、麹造りのプロ中のプロしか、仕舞仕事はできないんだよ」
「そんな繊細な作業だったんですか?」
リタが驚きの声をあげ、うわばみたちは露骨に「何でオラたちがそんな難しい仕事を……」と言いたげな表情をしている。
「まあ本当は、もっとゆっくり酒造りを学んでもらったほうがいいんだろうけどね。みんなに一年でも二年でも早く仕事が出来るようになってもらわないと、蔵の仕事が回らないんだよ。もともとこの蔵は、僕よりよっぽど経験豊富な大先輩が5人も6人もいて、みんなで手分けしながら仕事をしていたんだからね」
「トージさんより経験豊富? トージさんって何年くらい酒造りやってるんだ?」
「酒造りは8年、麹造りは13年かな」
「13年!? なんだよそれ、ベテラン職人じゃねえか!」
「オラたちにできるべか……」
「あの……」
リタがトージを見上げながら訴える。
「どうすれば、はやく一人前になれますか?」
「そうだね、ふたつある」
リタの問いかけにトージは腕を組もうとして、「おっと」と声を上げて、手をぶるぶると震わせる。せっかく清潔にした手を、服の雑菌で汚すわけにはいかない。
「うまくなるために一番大事なのは、酒ができる仕組みをよく理解することだね。麹や酵母が、どうやって米を酒に変えているのか。その仕組みをくわしく理解できていれば、麹や酵母が体調を崩したときに的確にフォローしてやることができる」
「わかりました。もうひとつは?」
「あとはひたすら場数を踏むことだね。だから何度も何度も麹を作っていれば、だんだん麹の機嫌や具合がわかるようになっていく。みんなにはしばらくのあいだ、毎日毎日ひたすら麹を作ってもらうからそのつもりで」
「ひえぇ、これを毎日だか?」
うわばみブラザーズのひとり、モジャは、げんなりとした表情でそう言った。
コウジカビが活発に呼吸を繰り返し、熱を放散している麹室は、気温が30度台の後半にまで達している。重さ2kgの麹蓋を積み替えたり、米の表面を整えたりで、麹室での作業時間は仕舞仕事を始めてから1時間に達していた。
蔵人たちの作業服は身体に張り付き、額には玉の汗が浮いている状況だ。
「やめたかったら言えばええ。モジャの分の酒はオラが飲んでやるだ」
「誰も、んなこといっとらん!」
仕事1日ごとに1合の日本酒を支給されているうわばみたちは、萎えかけた士気を酒の魅力で立て直したようだった。
「トージさん」
「はいよ」
「一刻も早く一人前になれるよう、厳しく指導してください。お願いします」
リタがぺこりと頭を下げる。
「よしわかった。それじゃ、次の麹蓋はリタに盛ってもらおう」
「はい!」
トージとリタは、麹蓋のタワーから新しい1枚を取り、作業と指導を再開する。
ほかの蔵人たちを置いてけぼりにしてしまった師弟を、リタの弟、ロッシが苦笑いしながら見守っていた。
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