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第29話 冷ました米に麹を生やす

 酒蔵には「麹室(こうじむろ)」と呼ばれる部屋がある。

 ここは、米にコウジ菌を生やす、そのためだけに使われる部屋。

 部外者の立ち入りを決して許さない、酒造りの聖域(・・)である。


 木製の小さな扉をくぐった先に、麹室はある。

 広さは幅7m、奥行き10mの長方形。おおむね小学校の教室をすこし細長くしたような形と大きさをしている。壁面はすべて(ひのき)の板張りで和風の雰囲気だが、あちこちに並ぶ液晶のデジタル表示板が異彩を放っていた。

 部屋の中央には細長い作業台があり、さきほど蒸した米が積まれている。

 部屋の壁際には、百枚以上ずらりと積み上げられた木製のトレー。

 そんな部屋に、トージ以下、合計6名の蔵人たちが勢揃いしていた。


「あのう、トージ様」


「なんだい」


「この部屋、やたらと暑くねえだか……?」


 トージたち6人の服装も、さきほどまでとは変わっている。

 身を包むのは厚手のつなぎ服ではなく、薄手の長袖作業服。

 頭には髪の毛をすっぽりと覆う薄手の帽子をかぶっている。

 髪の毛や汗など、雑菌の発生源となるものを米に落とさないための服装だ。


「そうだろうね。なんせ暑くしないと麹が育たないからさ」


「火も炊いてねえのになんで暑くなるべか……不思議だべ」


 うわばみたちはそう言いながら、額に浮いた汗をタオルで拭う。

 麹室の現在の気温は40度。外気温よりも30度近く高い。

 壁面に埋め込まれた電熱ヒーターが、部屋全体を加温しているのである。

 そして檜材でつくられた壁面の奥には断熱材が仕込まれていて、外部に熱を逃がさないようになっている。


「さて、それじゃあここからは、コウジ造りの作業を始めよう」


「お米に、コウジという牧草を生やす作業、ということでしたね。トージさん」


「そういうこと。これから、この米粒ひとつひとつに種をまいて、コウジを生やしていくんだけども。そのまえに注意点がある」


「ちゅうい、てん?」


 テルテルが、こてりと首をかしげて疑問をあらわす。


「僕らはこれから米にコウジを生やすんだけど、コウジ以外が生えてしまうと大変困ったことになる。最悪の場合、この麹室を全部ぶっ壊して、新しく建て直さなきゃいけなくなってしまう」


 リタをはじめとする蔵人たちが、ゴクリと唾を飲む。

 トージは目をつぶり、腕を組み、重々しく語る。

 阿吽の般若像もかくやという迫力に、蔵人たちは気圧されていた。


「もちろん、そんなことがあってはならない。だから絶対に、絶対に……!!」


 トージはクワッと目を見開き、ビシッとギョロメを指さした。


「絶対に、あれ(・・)だけは! 食べないように!!」


「もう勘弁してくだせえ、トージ様ぁ!」


――――――――――◇――――――――――


 時間を3日ほどさかのぼる。

 賀茂篠酒造に大精霊ネーロの水が届き、器具の洗浄作業が行われていた日。

 昼食の時間にその事件は起こった。


「トージ様、これ、うちの母ちゃんから。皆で食べてくだせえって」


「いただいちゃっていいのかい? 貴重な食料なのに」


「トージ様が米の粉ぁたくさんくれるから、母ちゃん最近機嫌がええんだ」


 ギョロメがそういって差し出したのは、麦わらの束だった。何かが包まれている。


「ちっとクセが強ええんだけども、慣れるとやみつきになるべ」


「いったいなんだろう……?」


 トージが麦わらの束を開くと、親指に何かが粘りつく感覚。

 それと同時に、独特の香りがトージの鼻を刺激する。

 麦わらの中身は、煮込まれた豆だった。

 表面に白く粉を吹き、糸を引くように粘った……


「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!!??」


 トージは、それまで誰にも聞かせたことのないような奇声をあげ、テーブルの上に、良く発酵した納豆(・・)を放り出した!

 般若のように歪んだ表情で、数秒間そのままの姿勢で震えていたトージは、何かを思いだしたように倉庫に向かって駆けだしていく。


「ど、どうしただ、トージ様」


「トージさん、納豆、苦手だったんでしょうか?」


「最初はみんなそうだべ。3日も食えば美味ぇと感じるようになるだが」


 リタとうわばみたちが戸惑っていると、トージは何やら筒のようなものを背負って小走りで食堂に戻ってきた。

 そして卓上の納豆をトングのようなものでつまみ、建物の外に飛び出すと……


「ファイヤーーーーーー!!」


「なにするだーーーッ!?」


 トングごと納豆を地面に放り出し、背中に背負っていた火炎放射器(草焼きバーナー)で、納豆を怒りの焼却刑に処したのであった。


――――――――――◇――――――――――


「3日前にも話したけれど。納豆のなかには納豆菌っていう雑菌が大量に住んでいる。こいつはコウジの天敵なんだ! 納豆菌を中に入れてしまった蔵は滅びる! だから納豆を“食べず、作らず、持ち込まず”の非納豆三原則を必ず守るように!」


「もう食べねえだよ、あんな怖いトージ様見たの初めてだべ」


 トージは麹室に並ぶ蔵人たちに、3日前にも説明したことを繰り返す。

 あの日の賀茂篠酒造は大変だった。

 トージと蔵人たちは全員風呂に入り直すことになり、ギョロメの普段着は3回の徹底的な熱湯消毒が施されることになった。

 納豆菌は熱に強く、100度以上の熱に晒されても、「芽胞(がほう)」という耐熱性のある子供を作って生き延びることができる。そのため時間を空けて何度も熱湯消毒し、芽胞から通常形態に戻った納豆菌を狙い撃ちにして死滅させなければならないのだ。 

 しかも、納豆菌を処理すれば終わりではない。

 ギョロメのご家族に、せっかくの食べ物を駄目にしたお詫びをしなければならないし、今後納豆を食べさせないようお願いが必要だ。

 さらにリタ家はもちろん、ノッポやモジャの家にも、同様のお願いをしなければならないわけで。その日のトージは説明行脚(あんぎゃ)でへとへとになって眠ったのだった。


「さて、気を取り直して……これから僕らがやるのは、米にコウジを生やす作業だ。でもみんなは、コウジってなんなのか見たことがないと思う。なので今日は、冷蔵保存してあったコウジを持ってきた。みんな、近づいて見てみて」


 トージはガラス製のケースを開いて作業台に置き、皆を呼び寄せる。

 リタとうわばみたちがケースの中をのぞき込むと……

 米粒の表面に、白い綿毛のようなものが無数に生えていた。


「と、トージさん」


「なんだい、リタ」


「これ、カビてるじゃないですか!」


 そう。米粒の表面に生えている白い綿。

 それは間違いなく「カビ」だった。


「そのとおり。これはカビだよ。コウジっていうのは、コウジカビというカビを生やした米のことなんだ」


「カビたお米で酒を造るんですか!?」


「あまりカビ、カビというとばっちいイメージがしちゃうなあ。このコウジカビっていうカビは、美味しくて良いものしか作らない、最高のヤツなんだぜ」


「で、ですが……」


「良い物か悪い物か、食べてみれば分かるよ。みんなも、さあ」


 トージはそう言って、ケースのなかの麹をぽりぽりと食べ始める。

 

「うわ、ほんとに食べちゃうんですか、トージさん」


「なんか、うまそうに見えてきたべ」


 相変わらず引いているリタを尻目に、うわばみのノッポが興味を示す。

 トージが作った失敗クワスを飲み、腹を壊したあの男である。

 好奇心旺盛なのかゲテモノ好きなのか、ともかくノッポは、ケースから数粒の麹を手にとって噛み砕く。


「ありゃ、なんだこりゃ、甘ぇべよ」


「……本当ですか?」


「ノッポ、美味いだろう? この麹をお湯で溶かして放っておくと、祭りで子供たちに飲んで貰った甘酒になるんだぜ」


「あのときルーティが飲んでいた……?」


 すでに家族が麹を食べていたことを理解したからか、リタは意を決して麹を口に運び、その味わいを確かめる。


「なんででしょう、ほのかに甘いです。それにお米とは違う香ばしさが……蒸した栗のような」


「さすがだね。そう、うまく出来た麹は栗みたいな香りがするんだ」


 トージはテルテルとモジャ、ギョロメにも麹の味見をさせる。

 うわばみたちは美味しそうに麹を食べていたが、テルテルは一言「ん、甘い」と言っただけで、表情がまるで動かない。

 大地の精霊にとっては、甘いものなど特別ではないのかもしれない。

 ともあれ、トージは麹の存在意義について説明を続けていく。


「酒造りのはじめの日に説明したけれど、酒というのは、酵母っていう生き物に糖分を食べさせることで造るけど、米には糖分は入ってない。コウジカビは、米の栄養を糖分に変える“酵素”っていう成分をたくさん出してくれる。この酵素のおかげで米が甘くなるから、酒にすることができるんだ」


「それじゃあ、酵素をたくさん出してくれるコウジを生やさないといけませんね」


「そういうことだね。だから皆には、さっきここに持ってきた蒸米を、元気なコウジカビが生える米にしてもらうよ。さあ、作業をはじめようか」


 蔵人たちはトージの指示にしたがい、蒸米が盛られた作業台の周囲に陣取る。


「さて、最初にやるのは“床揉(とこも)み”といって、固まってる蒸米をほぐしてバラバラにする作業だ。なんでほぐすかというと、米が固まっていると外側だけ冷えて内側が冷えないから、温度にムラができる。温度を均一にすることが目的だ」


「この米粒をぜんぶ同じ温度にするだか? めんどくさそうだべ……」


「でも必要なんだよ。ほら、麦だって日当たりのいいところと悪いところで育ち具合が違うだろ? 麹の場合、日当たりじゃなくて温度が同じことが大事なんだ」


「確かに、塊の中のほうは、まだお米が熱いですね」


 リタが、こぶし大の塊になっていた蒸米をほぐしながら、そうつぶやく。


「さっきと同じように、米粒を潰さないように気をつけて。さあ、始めよう」


 蔵人たちはおっかなびっくり、米の塊をほぐす作業に没頭していく。

 トージは皆のところを周りながら、ほぐし方を指導する。


「あっ、つぶれた」


「あちゃー、やっちゃったね」


 床揉みの作業にもっとも苦戦していたのはテルテルだった。

 テルテルは、蔵人たちのなかでいちばん力が強いが、力の調整に難がある。

 蒸米のかたまりを割ってほぐそうとして、ぐしゃっと潰してしまったのだ。


「……ごめん、トージ」


 テルテルは、自分の手でつぶしてしまった蒸米を見ながら涙目になっている。


「あんまり気にしないでいいよ。最初はうまくやれないのは当たり前だ。でもテルテルは、失敗したことをちゃんと知らせてくれただろう?」


「ん」


「一番よくないのは、失敗したことを隠してしまうことだ。そうすると、間違いに気がつかないまま酒造りが進んでしまう」


「ん」


「失敗してもいいから、たくさん練習してうまくなろうな。テルテル」


 トージがそう言って、葉っぱのような髪が生えたテルテルの頭をなでると、テルテルは無言のまま、トージのおなかにぎゅーっと抱きつく。


「ちょ、テルテル、苦しいって……!」


 人間重機のようなパワーを持つテルテルの抱きつきは、細身なトージにとっては笑い事ですまない胴締め攻撃となる。

 離して離してとテルテルを揺するトージに、リタの暖かい視線が向けられていた。


 そんなこんなで床揉み作業は続き、作業台に広げられた米は、おおむねばらばらにほぐされたようだった。


「んー、そろそろいいかな」


「何がですか?」


「イイ感じに冷えてきたってこと」


 トージは、ほぐした蒸米を触りながらそう話す。

 するとトージは、背後の台に乗せられていた道具を手にする。

 細い金属棒からコードが伸び、消しゴムよりちょっと大きいくらいの液晶パネルにつながっている。

 これは品温計。塊の内部の温度を測るデジタル温度計だ。

 トージは品温計のテスター部分を蒸米の中に差し込んで温度を測る。


「30.5度。よし、こんなもんでいいだろ」


「ふひー、やっと終わりだか」


 米をほぐす作業は、一見すると大した力はいらないように見える。

 しかし、水を吸って重くなった米を動かし続ける作業は、見た目以上に体力を消耗する重労働だ。しかも室内の気温が30度を超えるのだからなおさらである。

 酒造りをしている人間に、肥満体の人はいないとよくいわれる。その原因がこの麹室なのである。麹室での高気温下重労働は最高のダイエット運動だ。


「それじゃあ麹の種まきをするよ」


 トージは麹室の外に出ると、部屋の外から短く切った茶筒のようなケースを運び込んでくる。


「これがコウジカビの種だ。すごく小さいから、息を止めて見てくれ。鼻息とか出したら、風に巻かれて散らばっちゃうからね」


 トージの説明にこくこくとうなずき、リタたちはトージの手元にある缶を見る。

 中にはサラサラとした濃い黄緑色の粉が入っている。これがコウジカビの種「胞子」である。コウジカビの菌体は真っ白だが、成熟するとこのように、黄緑色の胞子を実らせるのである。

 もちろん、色つきの胞子がたくさんついた麹を酒造りに使うと、酒が胞子の色に染まってしまう。そのため日本酒用の麹は、菌が胞子を作り始める直前で成長を止めなければいけない。

 リタはトージの近くから離れ、ふうと小さく息を吐く。


「ものすごく細かいんですね。貰っている米粉よりも細かい気がします」


「種っちゅうか粉でねえか。こんなんで、ほんとにカビが生えるだか?」


「それが生えるのさ。生き物って不思議だよね」


 トージは皆の疑問に答えながら、缶の蓋を閉めた。


「これから種まき……酒造業界では“種切り”っていうんだけど、それをやっていく。それで、今見て貰ったとおりコウジカビの種はものすごく小さいんだ」


「そうでしたね」


「だから麹室のなかですこしでも空気が動いてると、種のかかり具合にムラができてしまう。僕が種をまいているあいだは、壁際に立って動かないようにしてくれ。息も極力、鼻呼吸でお願いするよ」


 トージの要請に応え、蔵人たちが壁際に下がったのを見届けて、トージは麹の胞子が入った缶の、さきほどとは反対側の蓋を開く。

 缶の開口部には、非常に目の細かい布がかぶせられている。

 トージは布が被せられた側を下に向けて、蒸し米の真上で缶を振り始めた。

 缶を高く持ち上げて、ゆっくりと振りながら移動させていくトージの動作は、食材のはるか上から塩を振りかけるあの(・・)ポーズを思わせる。

 布からすこしずつ振り出された胞子は、空中にもやのような軌跡をつくりながら、鳥の羽毛のように遅い速度で落下し、蒸米の上に着地した。


(たしかにトージさんの言うとおり、鼻息ひとつで吹き飛んでしまいそうです……!)


 トージの集中力は極限まで研ぎ澄まされ、空中に降り出される胞子の量を見極めている。これが多すぎても少なすぎても、トージが望む麹にはならないのだ。

 均一の量と速度で胞子をふりかけながら、徐々に作業台の奥に進んでいくトージ。

 数分かけて作業台の端まで胞子を振り終えたときには、トージの上着はぐっしょりと汗に濡れてしまっていた。


「ようし、これでOK! みんな、動いてもいいよ」


「お疲れ様です、トージさん」


 リタはすぐにトージに近寄り、玉の汗が浮いているトージの顔をタオルで拭う。


「サンキュー、助かるよ」


「これで作業は終わりだか?」


「ちょっとまって、最後にもうひとつ作業がある。全部の蒸米に胞子がくっつくように、さっきと同じ要領で蒸米を混ぜていこう」


 こんどは蔵人たち総出で、蒸米をよく混ぜ合わせ、全体にコウジカビの胞子を行き渡らせていく。

 総重量100kgの蒸米をよく混ぜ終わったところで、トージはすべての米をひとつの山にまとめ、布でくるんでいく。


「せっかくバラバラにしたのに、またひとつにまとめるんですか?」


「うん、こうしないと、米が乾きすぎたり、温度が下がりすぎたりするからね。布で放湿や放熱を防いで、このまま半日ちょい、放置しておくんだ。

 それじゃあ昼間の作業はここまでだ。みんな、昼飯にしようか!」


――――――――――◇――――――――――


 昼食を済ませ、蔵の掃除を終えたトージと蔵人たちは、全員一時帰宅していた。

 なにせ今日から蔵人たちは、寮に泊まり込みで作業をすることになるのだ。トージは蔵人たちの家を巡って、うわばみたちを蔵に泊まらせることを説明して回らなければいけなかった。

 トージにとっては意外なことに、うわばみの家族の反応は良好だった。

 特に「朝食と夕食は蔵で用意する、給料は今まで通り」と説明すると、目を丸くして驚かれたものだった。


「どの家も食べ物が苦しいですから、食い扶持が1人浮くというのは本当に助かるんですよ」


 不思議そうな顔をしているトージに、リタがしみじみと説明した。

 さっそくうわばみたちは、極少ない私物をまとめて寮の部屋に移ることになった。


 そうして太陽が、あたりをオレンジ色に染め始めるころ。

 トージは最後の目的地で、リタとともに交渉相手と対面していた。


「……駄目です、認められません」

「お母様、どうして!」


 重々しく告げたレルダの言葉に、リタが噛みついた。

 

(まあ、当然そうなるよな……)


 トージは頬をかきながら、内心あきらめていた。

 交渉とは、リタも賀茂篠酒造の蔵に泊まり込むというもの。

 夜間作業がある日は、夕方に帰宅して晩ご飯を作り、家族と一緒に食卓を囲んだあと、蔵の寮で寝るようにする、というプランだった。

 しかし問題となるのはセキュリティである。

 トージはどうしても、独身の男たちが住む場所で、夜中にリタがうろつくことになるのを、安全だとは思えなかった。 


(雇い主の自分が、自信を持って「引き受けます」と言えないのに、親御さんが大事な娘さんを預けてくれるわけがない。当たり前すぎる)

 

「わかっているのでしょうリタ。あなただけの体ではないのですよ」

「……っ!! そんなことはわかっています!」


 本来なら、雇用者であるトージ自身が、理と情を駆使してリタの家族の説得にあたらなければならないのだ。しかし、そうするだけの自信が持てない。

 しかし、このままリタを昼間作業だけのパートタイマーとして雇っていれば、リタが酒造りの核心に触れることはできないだろう。


(彼女は、蔵人たちのなかで一番高い熱意をもって酒造りに取り組んでいる。そんな彼女をはじき出してしまうのが、本当に正しいことなのか?)


 リタとレルダの口論を前にしながら、トージは結局、自分はどうするべきなのか、答えを見つけられずにいた。

 そんななか、いつ終わるとも知れない口論は「パシン!」という小さな破裂音と共に終わりを告げた。リタの母親レルダが、娘の頬を張ったのだ。


「おい、母さん!」


 これまで渋い顔で母と姉の口論を見守っていたロッシが、母の手をつかむ。

 息子に止められて、レルダは力が抜けたようにため息をついた。


「リタ」


 呼びかける母の声に、リタは応えない。

 レルダは困りながらも言葉を継いでいく。


「あなたは家のために、ロッシとルーティのために頑張っているわ」


 それは、さきほどまでの口論とはまったく違う、いたわりの思いを乗せた、穏やかな母の声だった。


「あなたのやりたいことくらい、やらせてあげたいわ。でも、家長として認められない一線があるの。リタ、あなたはそれをわかっているはずよ」


 レルダは、無言でうつむく娘にそれだけ言い残すと、トージに一礼し、台所へと退いていった。

 あとに残されたのは、リタとロッシ、そしてトージの3人だ。


「ったく、母さんも姉ちゃんも頑固なんだからよ」


 ロッシは腰に手をあてて、そうため息をつく。

 無言のまま顔を伏せているリタの白い頬は、うっすらと赤くなっている。

 トージは、思わずその頬に手を伸ばしそうになり、あわてて手を引っ込めた。


「ごめんよ、リタさん。僕のせいで痛い思いさせちゃったね」


「トージさんのせいじゃありません……」


「いや、完全に僕のせいだよ」


 そう言ってトージは、丸太の椅子から立ち上がる。


「正直なことを言うと、僕はレルダさんの言うことは非常によくわかるんだ。女の子があの寮でひとり暮らしをして、しかも深夜に出歩くのは危ないよ」


「そう、ですか」


「でも、僕もさ、リタさんと一緒に酒造りがしたいと思ってる」


 その言葉に、伏せたままだったリタの顔が上げられる。


「だから、きみに安全に働いてもらえる環境を作るのが、僕の役目だ」


「トージさん……!」


「なんとかいい方法を考えてみるよ。だから、もうすこし待っていてほしい」


「はい……! よろしくお願いします!」


 リタは立ち上がってトージの手を取り、少し赤くなったエメラルドグリーンの瞳でトージを熱っぽく見つめていた。


「あのさあ、ちょっといいか?」


「なんだい、ロッシ君」


「結婚式はいつあげんの?」


 ニヤニヤとした表情でふたりをながめるロッシ。

 リタはあわててトージから手を離すと、


「ロッシの馬鹿っ!!」


「うおぉっ!?」


 リタは足を振り上げ、靴飛ばしの要領で履いていた木靴を飛ばす。

 あわてて逃げ出すロッシと、裸足で彼を追いかけるリタ。仲の良い姉弟を、トージはほほえましく感じていた。

 ようやくNATTOUを出せました!!!


 酒造りの天敵である納豆菌の最適な生育条件は、40度前後で高湿度という条件で、これはコウジカビを育成する温度と近いものになっています。なので麹室に納豆菌が入ってしまうと、米の表面でヌルヌルの納豆菌が繁殖し、「すべり麹」という最悪の出来になってしまいます。当然、こんなものは酒造りに使えません。


 なお、謝肉祭の回でも紹介しましたが、この世界には大豆があります。

 大豆は「根粒菌」という窒素固定細菌と共生して成長します。現実世界のヨーロッパには大豆と共生できる根粒菌がいないところが結構あったそうで、アジアから大豆を持ち込んでも栽培失敗が多かったのだそうです。ですがこの酒のない世界の土壌には、根粒菌が住み着いているようですね。


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