第2話 農婦リタの生活
リタが「すぐ近く」だと言った彼女の家。
具体的には、山の斜面を下ること徒歩10分のところにあった。
不思議なことに、トージが朝10時過ぎに目覚めてからまだ1時間もたっていないのに、あたりはすっかり夕日に染まっていた。
(丸太の家だな、なんだかログハウスっぽい)
出迎えた家長レルダはリタの母親。父親は数年前に亡くなっているそうだ。
トージよりやや小柄で、くすんだ赤毛を編んでまとめている。童話に出てきそうな典型的な農婦の服装である。
美少女リタの母親だといわれれば納得できる整った顔立ち。だが顔には長年の苦労を思わせる皺が刻まれており、年齢は40代くらいに見える。大きなお尻とくたびれた肌が目立つ未亡人だった。
(若い頃は、さぞ美人だったんだろう。もっと若くて、あとはお尻と同じくらい胸のボリュームがあれば、なお良かった)
リタは長女で16歳。1歳年下の弟と、9歳の妹を加えた4人家族だという。
家長のレルダのみならず、弟と妹からも折り目正しい謝罪を受けたトージは、リタの手で男物の農夫服に着替えさせられ、テーブルについている。
「せめて晩餐くらいは振る舞わせてください」
そう訴えるリタの熱意に押され、夕食をごちそうになることにしたのだ。
リタは、トージの椅子にだけ敷物を敷いたり、暖めたヤギのミルクを持ってきたりと、至れり尽くせりの応対だった。
トージに一礼して台所に入るリタを見送った後、トージはガラスのない木製の窓から、家の外の風景をながめる。
一面の平らな土地に、緑色の草がチョンチョンと生えた土地が広がり、この家と同じようなつくりの家が点々と建っている。見たところ、発芽したての麦畑と、それを育てる農家の家だろう。
(いったい何がどうなってるんだ。こんな村なんてなかったはずだぞ? この家の人たちも完璧ガイジンだし、わけがわからん)
そこにはアスファルトの舗装も、信号も、電線も電柱もない。
……どう見ても、地元の農村風景ではありえなかった。
(だいたい管財人はどうなってるんだ。管財人がこないと資産の引き渡しができないじゃないか……いや引き渡しなんてしたくない、しないですむなら絶対したくないけど、引き渡さないと債権者が困るだろうし。どういう扱いになるんだ……引き渡し拒否で逮捕? このうえ前科者になったらご先祖様に申し訳が……!)
トージがほおづえをつきながら思考の迷路でのたうっていると、子供たちが声をかけてきた。
「トージさん、姉ちゃんの料理は村一番だぜ」
そう訴えるのは、トージより拳ひとつぶん小柄な、弟のロッシ、15歳。運動部っぽい雰囲気を持つ元気者で、狩りの腕前は相当なものらしい。
「おまつりでねー、みんな「おいしー」って食べるんだよー!」
こちらは妹のルーティ。身長はトージのみぞおちくらい。にこにこと笑顔を浮かべているのが印象的だ。
年齢を考えると、ふたりとも同年代の日本の子供より、だいぶ小柄に感じる。
どちらも、くすんだ赤毛と青い瞳でいかにも「ガイジン」風の外見なので、「ガイジンは背がデカイ」という偏見を持っているトージは少々驚いていた。
(正直、食事どころじゃないんだけどな……)
トージがリアクションに困っていると、台所に引っ込んでいたリタが、両手に椀を持って居間に入ってくる。
「お待たせしました、できあがりました。貧しい田舎料理ですが、どうぞお召し上がり下さい」
そう言ってリタは、トージの前に、ご飯茶碗くらいの大きさの木椀を置いた。
椀の中には白濁したスープが入っており、緑色の香草が散らされている。
濃厚な乳の香りの奥に、香草で隠された若干の獣臭さ。
地元の猟友会でなじみのある香りだった。
家族全員分の椀が配膳され、リタたち4人は食前の祈りを捧げる。
すると、トージの隣に座っていたリタは、椀の中身を匙ですくってフーフーと吹き冷まし始めた。
だが、その椀はリタの椀ではなく、トージの前に置かれている椀であり……
「はい、あーん、です」
「えっ」
吹き冷ました匙を、トージの口に近づけてそう告げたのだ。
固まるトージ。
「……姉ちゃん何やってんだよ、病人じゃあるまいし」
「えっ……? あっ!!」
リタはあわてて、トージの椀に匙を戻す。
「た、大変失礼いたしました……」
うつむくリタの青緑色の瞳が、銀色の前髪に隠れる。
その下では、白い頬がどんどん朱色に染まっていく。
「その、家族が病気や怪我の時は、いつもこうしていたので……つい」
「はは、怪我もないし、風邪も引いてなさそうだから安心してよ」
真っ赤になるリタを横目に、気を取り直して椀に向き直る。
椀には、さきほどリタが吹き冷ました匙がそのまま入っている。
(銀髪美少女のフーフー済みスープ……とっても事案な気分)
若干の羞恥を感じながら、中身を匙ですくいあげると……。長辺1cmくらいの楕円形の白い粒に混じって、みじん切りの肉の断片があらわれた。
それらを口に運んでみると、まず酸味のあるミルクの風味と、さきほども感じた若干の獣の風味が口の中に広がった。
だがそこに十分な塩気と、乳とは異なるうま味があり、実にうまいダシ汁だ。
白い粒を奥歯でプチリと噛み砕く。表皮と芯が砕ける“ぼそり”とした食感のあとに、炭水化物のかすかな甘み。これは、学校給食の麦飯に入っていた大麦の粒と同じものだろう。みじん切りの塩漬け肉、推定ベーコンのうま味もいいアクセントになっている。
“大麦とベーコンのミルク粥”そんなメニュー名がトージの頭に浮かんできた。
トージは知らないが、これは現実世界のヨーロッパでは「ポリッジ」と呼ばれている、麦のおかゆの一種である。
「うん、これは旨いね! 実にいいダシが出ているし、ハーブの加減も塩気も絶妙だ。きっと誰でも旨いと言うに違いないよ」
「……その、お口に合って、よかったです……」
トージの言葉を聞いて、リタもおずおずと自分の椀を口に運び始めた。
だが、茶碗一杯ぶんのお粥である。肉体労働者でもあるトージは、あっというまに粥を食べきってしまった。
(思いがけず旨いものを頂いちゃったな。さて、メインはなんだろう?)
トージが口の中に残ったミルクスープの風味に浸っていると、リタの家族たちもお粥を食べ終わったようだった。
4人はテーブルに匙を置いて……
「「「「今宵の糧を与えてくださった、母なる女神に感謝いたします」」」」
一糸乱れずこう唱えたのだった。
(えっ……これで晩メシ終わり!?)
トージもあわてて手をあわせ「ごちそうさまでした」ととなえる。
「それじゃあ、片付けはおねがいね」
「はーい! おかたづけするよ~!」
妹のルーティが、5人の椀と匙をまとめて、奥へ持って行くのを見ながら、トージはあっけにとられている。
お椀半分の麦とミルクの粥で、十分なカロリーが得られるだろうか?
もしかしたら、晩ご飯が少ないだけで、朝はしっかり食べるのかも……そんな希望的観測を脳内に持ち出しつつも、トージは、この三兄弟が年齢の割に体格が小さい理由がわかった気がしていた。
気付いたことはほかにもある。
(やっぱりおかしいよな……食事の量もそうだけど、大麦粥メインだし、乳の風味も牛乳じゃ無いよね、これ……普通同じメニューでもオートミールでしょ、日本なら。日本なら……ほんとどうなってるんだこれ)
トージが再び悩んでいると、リタの弟ロッシから声が掛かる。
「ところでさートージさん、明日からのカーニバルどうすんの?」
「カーニバル?」
「おまつりー!」
ロッシとルーティの一言で、弱々しかったトージの目に、意志の灯がともる。
「お祭りかい!? 出る出る!! もちろん出るよ!!!」
鴨志野冬至は酒蔵の若社長である。
酒蔵は地域の名士であり、地元の祭りでは主導的役割を果たすことが多い。
トージも例に漏れず、祭りでは実行委員をつとめていたし、仕事と同等の情熱を、お祭り騒ぎに注ぎ込んできたのである。
祭りと言われれば血がたぎるのは、もはや職業病だといってよい。
(なんせ祭りがあれば役所も休むのは田舎の常識! 管財人さんも休みだ休み、めでたい祭りに無粋な仕事を持ち込んだら村八分! ややこしいことは祭りが終わってから考えよう!!)
こうしてトージは、目の前に襲いかかっている不思議な現象から全力で目を逸らし、お祭り男の本能そのままに、祭りを楽しむ事に決めたのだった。
「ふむふむ、祭りですか、カーニバルですか、それはいいことを聞いたよ。レルダさん、参加するとき、何か決まりとかしきたりはありますか?」
「ええ、そうですわね……禁忌は特にありません。ただ、祭りに参加する者は、皆に振る舞う料理を持ち寄ることになっています」
リタの母親、レルダがそう答えると、トージは腕を組んで深くうなずく。
「なるほどなるほど……それでレルダさん、食べ物だけじゃなくて、飲み物も持ち込んでいいんでしょうか?」
「飲み物……ですか? ええ、問題はないと思いますが……」
それを聞いて、トージはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
(古今東西、祭りといえばこいつの独壇場だ。
振る舞わなくちゃな、賀茂篠の日本酒というものを!)
土曜日は3話更新です。朝、20時台、23時台に投下します。