第19話 酒造りは水で決まる
風呂場で湯を浴びたリタの腕は、さいわい火傷になっていなかった。
特に治療の必要もなさそうなので、今は髪と体を拭いて作業着に着替えてもらっている。
(肌に跡が残らなさそうで、本当によかった)
トージは胸をなで下ろしつつ、今日の作業をあらためて確認する。
今日の作業は蔵の掃除である。
蔵の中から雑菌を追い出すために、器具を熱湯消毒し、床を大量の水で洗い流し、壁や床を徹底的に拭き掃除するのだ。
とてもじゃないが、1日で終わる作業ではない。
「明日からは“うわばみ”たちも来るしな。人が増えてからが本番だ」
そう言ってトージは、コップを持って蛇口をひねる。
酒造りをする蔵人には数多くの役得があるが、そのひとつが、蛇口をひねれば銘水をいつでも飲めることだ。
賀茂篠酒蔵の蔵の蛇口は、公共の水道ではなく、井戸からくみ上げた地下水を溜めるタンクにつながっている。
日本酒の仕込みにも使われているこの地域の地下水は、ミネラルウォーターとして東京でも売られている。そんな銘水が、飲み放題使い放題なのだ。
トージはいつものように蛇口をひねり、コップに注いだ水を口に含む。
(……んん!?)
突然、トージの顔がしかめられる。
トージは、口に含んだ水を流しに吐き出すと、口から息を吸い込んだ。
するとトージの鼻腔に、生臭い金属臭が、ほんのかすかに広がった。
「……なんだこりゃぁぁぁぁ!!!」
休憩所に、トージの絶叫がこだました。
「どうしましたか、トージさん!!」
トージの絶叫を聞きつけて、着替えを終えたリタが駆けつけてきた。
リタの服装は、いつもの村娘ルックから、大きく替わっている。
華奢な全身を包むのは、ライトグレーのツナギ服。賀茂篠酒蔵の蔵人たちがみんな着ていた、トージとおそろいのものだ。
そして、くすんだ色に見えていた銀髪は、シャンプーによって艶と透明度を取り戻していた。(なお、トージはリンスの使い方を教えていない)
清潔であるということは、人を魅力的に見せる最低条件である。
もともとの美貌が入浴によって磨き上げられたリタは、街を歩けば誰もが振り向くような美少女に変貌していたのだ。
だがこの瞬間に限っては、そんなことはトージにとって重要ではない。
「リタ! ちょっとこの水を味見してくれないかな!?」
トージが、ずいっとマグカップを差し出す。
再三にわたって鋭さを見せてきたリタの味覚に、トージはすでに一定の信頼を置いているのだ。
「……普通のお水ですよね?」
リタはマグカップの透明な水を不思議そうに見た後、トージが生臭さを感じた蛇口の水を口に含んだ。
「……うーん……村の井戸水と特に違いはないような……」
「村の水と同じ!?」
「そう思います。それでトージさん、この水に何があったんですか?」
「何があったじゃないよ! この水じゃ、酒なんか造れない!!」
「そうなんですか!?」
リタが、銀色の前髪の奥で目を丸くした。
――――――――――◇――――――――――
「これが本来の賀茂篠の水だよ。飲み比べてみて」
トージは、ペットボトルからコップに水を注いで差し出す。
ラベルには「賀茂篠の仕込水」の文字。常連向けに販売しているものだ。
リタはコップに注がれた賀茂篠の仕込み水を口に含み、味わった。
「これは……さっきの水とは、風味がかなり違いますね」
「そうでしょ? そこの蛇口からは、本来この水が出るはずなんだ」
「たしかに……どちらが美味しいかと言われれば、このお水のほうが美味しいと思います。でも、そんなに大きな違いではないですよね?」
リタが率直にそう語ると、トージも顔をしかめながら返す。
「飲み水や料理用ならそうかもしれない。でも酒造りには致命的なんだ。いま蛇口から出てきた水には、鉄が溶けてる」
「鉄、ですか……?」
トージはテーブルの上に持ってきていた小さな木箱を開き、数本の試験管と、小さな薬品の瓶を取り出した。
「この薬品は、水の中に溶けている鉄の量を、色で教えてくれる薬だ。まずは賀茂篠の仕込水に垂らしてみよう」
トージは試験管に定量の水を入れ、透明な試薬を一滴垂らす。
手慣れた様子で試験管を振り、しばらく待つ。
「トージさん、色が変わりませんね」
「色が変わらないってことは、鉄がほとんど溶けてないってことだ。次は、蛇口の水に試薬を垂らしてみよう」
もう一本の試験管に試薬をたらし、振り混ぜる。
するとじわじわと、水がオレンジ色に染まっていく。
試験管の色を、付属のカラーチャートの色と照らし合わせると、蛇口の水の鉄分濃度が計測できた。
「簡易検査だから正確じゃないけど、鉄分濃度は0.2~0.5ppm。水100リットルあたり、0.2~0.5グラムの鉄分が溶けている計算になる」
「……それって、ほんのちょびっとではありませんか?」
「僕の故郷だと、飲み水に入っている鉄分は“0.3ppm”以下にしろって法律があった。だから確かに、この水が特別悪いわけじゃないよ」
トージは試験管をホルダーに戻して話し続ける。
「でも、酒造りに使う水は、飲み水よりも、もっともっともーっと鉄分が少ない水じゃなくちゃいけないんだ。具体的には、鉄の含有量が0.02ppmより多い水では、日本酒を造ってはいけないんだ」
「0.02!? 飲み水の……15分の1じゃないですか!」
「そうさ。そして賀茂篠の水は、もっと鉄が少ない。0.005ppm以下……今みたいに“少なすぎて量が測定できません”ってなるはずなんだ」
「……トージさん、なんで日本酒は、そんなに鉄を嫌がるんでしょうか?」
「ふたつの問題がある」
トージはいつものように、二本の指を立てて、一本ずつ折り曲げながら話を進めていく。
「まずひとつ、色だ。水の中に鉄分が入っていると、酒に赤っぽい色がついてしまう。これがお客さんに嫌われるのさ」
語り終わり、2本目の指を折り曲げるトージ。
「そして次は、香りだね。酒のなかに鉄分が入ると、日本酒の香りを打ち消す物質ができてしまう。だから、鉄水で仕込んだ酒は、不味い」
「それは……」
リタは、謝肉祭の日に飲んだ日本酒の、青リンゴを思わせる豊かな香りを思い出していた。
「あの香りが消えたら……ぜんぜん違うものになってしまいますね」
「そうさ。だから、この水じゃないと美味しい酒はできないんだ」
そこまで話しきると、トージはガタリと椅子から立ち上がる。
「ともかく、なんで鉄が増えたのか、原因を調べないと!」
――――――――――◇――――――――――
トージは仕込蔵から出て、焦りを感じさせる早足で、隣の小屋に向かう。
リタはその後ろに小走りでついてきていた。
「水に鉄が混ざる原因は2つある。ひとつは水を配っている管が錆びて、鉄が溶け出してしまうこと。もうひとつは、源泉の水質が変わることだ」
小屋のドアノブに鍵を差し込み、トージが小屋の扉を開く。
「このなかに、賀茂篠の水を汲み上げている深井戸がある。まずは源泉の様子を確かめてみよう」
トージは小屋の扉を開き、すたすたと中に入って行く。
小屋の中には板張りがなく、地面がむき出しになっている。
そのど真ん中にはコンクリート製の井戸があり、そこから伸びたパイプが、大きな機械を経由して、建物の外に伸びていた。
トージは機械を操作し、パイプよりもだいぶ細い蛇口から水を出す。
井戸から貯水タンクに汲み上げられる水を、一部排出するための蛇口だ。
そしてその水で手を洗い、水を手ですくって口に運んだ。
……しばらくして、トージの表情は渋面になり。
無言のまま膝を折って、頭をかかえる。
「トージさん、どうでしたか……?」
問いかけるリタに、トージは無言のまま、ちょいちょいと蛇口を指差す。
リタがトージの動作にならって、水を口に運ぶと……
「……村の井戸水に近い味がしますね。鉄の味、ですか」
「だよねぇ!!!!」
トージは、やけくそ気味に立ち上がった。
ポンプで汲み上げた水に、鉄が混じっている。
それはつまり、源泉に鉄が混じってしまっているということだ。
「配管のせいなら問題なかったんだ。パイプを変えるか人力で運べばいいんだから……でも源泉が汚染されたらどうしようもない! なんでこんなことになっちゃったんだ!」
心配そうに見守っているリタをよそに、トージはぐるぐると井戸の周りを歩き回りながら、必死で頭を回す。
「こっちの世界に来てからそろそろ一ヶ月。それでも水は汲み上げられてるから、井戸の機能そのものは生きてるはずだ。そもそもこの井戸は、深さ80メートルから川の伏流水、地底の帯水層を流れ落ちてきた地下水をくみ上げているものだから……うん? 帯水層?」
何かに気がついたトージが、立ち止まって、はっと顔をあげる。
「そうか! ここは北関東じゃない! 地形が違う! 地層も違う! それなら、水も違って当たり前じゃないか……! つまり、このへんの水は全部、鉄水ってことじゃないのか……!?」
トージは頭を抱えて天を仰ぐ。
「どうすりゃいいんだぁぁ!?」
賀茂篠酒蔵の採水小屋に、トージの絶叫がこだました。
帯水層とは、地下の地層のうち、地下水を大量に含む層のことです。
一般的に、地下深くの帯水層から汲み上げた水は、さまざまな岩石に濾過されているため、不純物が少ない綺麗な水になります。(表層に近い浅井戸の水は、地上の有機物に汚染されているため不純物が多くなります)
ですが、帯水層の地層そのものに鉄が含まれている場合、水への鉄分混入は避けられません。
現在、賀茂篠酒蔵の井戸は、鉄を含んだ水が周辺の地層から流れ込んでしまっている状況というわけです。
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