第18話 はじめてのお風呂
日曜日2回目の投稿です。
酒造り開始から3日目。
今日も精米所では、縦型精米機がうなりをあげ、酒米の表面をゆっくりと慎重に削り取っている。
その一方でトージとリタは、宿舎兼事務所でミーティングを行っていた。
「さてと。今日から賀茂篠酒蔵は、器具洗浄に入ります」
「お掃除ですね、お任せ下さい、得意です」
リタが自信ありげに、薄い胸を叩いてみせる。
「頼りにしてるよ。けど、酒蔵の掃除は家の掃除とはすこし違うんだ。まずは“なぜ掃除しなきゃいけないのか”から聞いて欲しい」
「はい!」
リタが銀の前髪の隙間から、真剣なまなざしでトージのほうを見上げる。
トージはその真摯さに満足し、ゆっくりと語り始めた。
「リタの家で実験をやったとき、アルコールが……酒ができる基本の仕組みについて話したけど、覚えてるかな?」
「はい。たしか“酵母”という目に見えない生き物が、甘いものを食べると、お酒を吐き出すという話でしたよね」
「そのとおり。でも、甘い物を食べたがってる生き物は酵母だけじゃない。目に見えない生き物は、酵母のほかにもたくさんいて、甘い物を横取りしようと狙っている。こういうお邪魔虫の小さな生き物を、まとめて“雑菌”と呼ぼう。酵母が雑菌に食べ物を横取りされると、酒は腐ってしまう」
「あの3人が飲んだ瓶のように、ですね」
腐造したクワスを飲んで腹を壊した、うわばみ三人組が思い出される。
「そうだね……それじゃ、雑菌に酵母の食べ物を横取りされないために、僕たち人間はどうすればいいと思う?」
「そうですね……」
リタが細いアゴに手を添えて考え込む。
思い浮かんだのは、穀物を貯蔵する倉庫を守る方法だった。
「甘い物を雑菌の手が届かないところに置きます。無理なら……雑菌のほうを追い払いたいです」
「いい方法だね。ほかには?」
「そうですね……ううん、雑菌を殺してしまうことはできますか?」
「うん、できるよ。やるねぇ、どの方法も有効だ」
そう言うとトージは、事務所のホワイトボードにこう書き込んでいく。
―――――――――――――――――――――――――――――――
・雑菌の手が届かないところに置く →
・雑菌を追い払う →
・雑菌を殺す →
―――――――――――――――――――――――――――――――
「まず、食べ物を雑菌の手が届かないところに置く方法は簡単だ。連中は空気中をふわふわと漂ってるから、フタをしてやれば寄って来れない」
トージはそういって、テーブルの湯飲み茶碗の蓋をとる。
「次に、雑菌を追い払うには、雑菌が集まっている場所に水をぶっかけて、ブラシでこすって、水と一緒に流すのが有効だ」
急須の蓋を開き、電気ポットから80度のお湯を入れるトージ。
「最後に、雑菌を殺す方法。まず、雑菌を殺すための専用の薬がある。でもこれは、普段使いするにはちょっと高いのと、この国では手に入らないものが多いと思う。ただ雑菌のほとんどは熱に弱いから、火であぶったり、お湯をかければ死ぬ。こんな感じにね」
トージが急須を傾けると、黄緑色のお茶が湯飲みに注がれていく。
お茶をつぎ終わると、トージはホワイトボードに文字を書き足していく。
―――――――――――――――――――――――――――――――
・雑菌の手が届かないところに置く → 蓋をする
・雑菌を追い払う → 水で洗い流す
・雑菌を殺す → 薬をかけるか熱で殺す
―――――――――――――――――――――――――――――――
「なるほど……対抗する方法はあるんですね」
「そういうことだね。とりあえずお茶を飲みながら話を続けよう」
トージが湯飲みから茶をすすり、リタも真似をして湯飲みに口をつける。「熱っ」と小さな声がかわいらしい。
いつもとくらべて色は悪いが、味はまろやかだ。
それなりのお茶を煎れられたことに、トージは小さく満足する。
「ところでトージさん、雑菌に対抗する方法はわかったのですが、雑菌は酵母と同じで目に見えないのですよね。見えないものにどう対抗すれば?」
「たしかに雑菌は目に見えないね。しかも空気中だろうがどこにでもいるから始末が悪い。でも、“雑菌が大量に溜まっている”場所なら目で見えるよ。たとえばそこ」
トージが窓の外を指差す。
「土や泥、動物の死骸や排泄物は雑菌の塊だ。だから絶対に蔵に持ち込んじゃいけない」
「土もダメなんですか。それじゃあ履き物は?」
「うん、作業用の清潔な靴に履き替えてもらうよ」
トージは満足げにうなずいた後、さらに語り始める。
「次、食べカスや、こぼれた汁なんかも、数時間ほうっておくと雑菌の巣窟になる。部屋の隅に溜まっているホコリとかもおんなじだ」
「すみずみまで綺麗に拭かないといけませんね……」
「そうだね。そして最後、一番汚いのがこれだ」
そう言ってトージは、自分自身を指差した。
「……人間、ということですか?」
「そのとおり。人間は汗をかくし、垢が溜まるでしょ? 雑菌は甘い物だけじゃなくて、汗や垢、フケなんかも大好物なんだ。そして人間の皮膚だけじゃなく、汗や垢が染み込んだ衣服も、雑菌のすみかになっている」
「そんな……雑菌を追い出すために掃除をするのに、掃除をする私自身が雑菌のすみかだったら、掃除にならないじゃないですか?」
「まったくそのとおりだね。だから最初にやるのは、掃除をする自分自身から、雑菌を追い出して綺麗になることなんだ。さあ、実践してみよう」
トージは立ち上がり、リタについてくるようにうながした。
――――――――――◇――――――――――
所変わって、発酵蔵に併設されている支度棟。
そこに水着の短パン一丁で、上半身を裸にしたトージの姿があった。
リタは、村で着ていた普段着のままである。
「あの……トージさん、なにをなさるんでしょうか?」
「これから、体の洗い方を見て学んでもらうよ」
トージの言葉に、リタがけげんそうな顔をする。
当然だ。体の洗い方を知らない16歳など、世の中にはいない。
だがそれは「村の常識における」体の洗い方だ。
「この小さな部屋は、風呂場っていうんだ。風呂に入ったことは?」
「ありますが……ずいぶん形が違います。私が入った風呂は、もっと蒸し暑いものでしたし、そんなにたくさんお湯は使いませんでした」
リタが湯船に張られたお湯を見てそう答える。おそらくリタの言う風呂とは、サウナに近いものだろう。トージはそう理解した。
トージは浴室に入ると、入浴の作法をリタに教えていく。
まず体をお湯で流し、体洗い用のタオルで体を洗うこと。
ボディソープの使い方。シャンプーとリンスの使い方。
湯船につかると、毛穴が開いて汚れが落ちやすくなること。
歯ブラシを使った歯磨きの方法。
爪の隙間の汚れやすさと、ブラシで汚れを落とす方法。
カランとシャワーの使い方。温度調整のやりかた。
ここまで抜群の物覚えのよさを発揮してきたリタだが、次から次へと説明される、生まれてはじめての作法の数々に、若干目を回していた。
(ほんとならもっとゆっくり教えてあげたいけど、まさか一緒に入るわけにもいかないしな……)
トージはそう心配しながらも湯から上がり、体を拭いて真新しい作業ズボンに着替える。そしてドライヤーで髪を乾かし、Tシャツを着て、髪をタオルで包み込む。
その姿は、どこかのラーメン屋の厨房スタッフに見えなくもない。
「頭をタオルで包むのは、髪や汗が蔵に落ちないようにするためだね。
これで準備は完了、体の雑菌がほとんどいなくなっているはずだ。
毎朝作業を始める前に、この入浴と着替えをやってもらうよ」
「毎朝お風呂に入るのですか……贅沢すぎないでしょうか? 村では、週に1~2回、川で水浴びをするのが精々なのですが」
「贅沢だろうがなんだろうが、清潔にしなきゃ、いい酒はできないんだ。ほら、リタも風呂に入ってきて。僕は隣の部屋で待ってるから!」
トージはそう言って、リタを隣の風呂場へ送り出す。賀茂篠酒蔵には女性の蔵人もいたので、2つある風呂場の片方は女湯になっているのだ。
「それでは、行ってきます」
タオルを持されたリタは、不安げに、女湯ののれんをくぐっていった。
――――――――――◇――――――――――
シャワーヘッドから吐き出された湯の雫が、リタの真っ白な肌に浴びせられ、細くなだらかな肢体に沿って流れ落ちていく。
小さな肩。細い首筋。
胸元には女性らしいふくらみはわずかで、鎖骨を滑り落ちた滴は、女性特有のふくらみによって勢いを削がれることなく、そのまま滑り降りていく。
脇腹から薄い腰回り、内ももから細い足首へ。
湯の通り道がほんのりと紅色に染まってゆく。
「はふ……」
水音の中で、リタの口から恍惚のため息がもれる。
それはリタにとって、生まれて初めての感覚だった。
沸かしたてのお湯を頭から浴び、浴びた先から捨ててしまう。
なんと贅沢な湯の使い方であろうか。
われわれ現代人は忘れてしまった感覚だが、お湯は高価なものである。
なぜなら、湯を沸かすには燃料がいるからだ。
村の燃料は「薪」だが、村の近くに自生する木材は貴重な資源である。
薪用木材の割り当て量は家単位で決まっており、薪が足りないからといって無尽蔵に切り倒していいものではない。
よって、料理以外のために湯を沸かした場合、湧かした湯は鍋やタライなどに溜めて、温かいうちに徹底的に使い倒す。
決して、体に浴びせたお湯を床に垂れ流したり、背後にある湯船のように、体全体を浸せるほど大量の湯を沸かしたりはしないのだ。
そんな贅沢を許されるのは……
(国王陛下か、大聖堂の枢機卿様くらいなのでは……)
そんなふうに想像してしまうリタであった。
貧しい農婦としての生活が身に染みついているリタには、どうしてもこのお湯の使い方が「もったいない」と思えてしまう。
「でも、トージさんが必要だと言うなら、やらなければいけませんよね」
リタはそうつぶやいて、シャワーの操作レバーに手を伸ばした。
――――――――――◇――――――――――
リタの入浴を待ちながら、トージは休憩室で寝転がっていた。
清潔な身支度は、うまい酒を造るための大前提。
トージは酒蔵の常識どおり、最低限なすべきこととして入浴を指示したのだったが……
「16歳の女の子と二人きり、しかも女の子は入浴中……これはひょっとしてアカンやつなのでは……?」
ふと現実に帰ってみると、トージは自分が、そうとう危ない橋を渡っていることを自覚せざるをえない。事案的な意味で。
トージは謝肉祭で、この村に住む100人近くの人々と顔をあわせたが、リタの美少女ぶりは、そのなかでもきわだっていた。
小柄ながら、すらりと伸びた細い手足。
農家の娘らしく日々の仕事で荒れてはいるが、目を引くほどの白い肌。
そして、くすんだ銀髪を長めに切りそろえた前髪の、奥に隠れた青緑色の瞳が、ミステリアスな雰囲気を生み出している。
そんな女の子が、たったひとりで自分の蔵に来て、いま浴室でシャワーを浴びているのだ。
(……いかんいかん! そもそも守備範囲外だし!)
脳裏にイメージしてしまった、リタの裸身を振り払うトージ。
そもそもトージには、小柄でぺったんな女の子を尊ぶ性癖はない。
道でお胸の豊かな女性とすれちがえば、思わず視線を貼り付けてしまう程度の、清く正しいおっぱい星人である。
(もしかして溜まってるのか? なんか嫌だなそういうの……)
そのようにトージが男の本能に翻弄されていると……
『きゃあぁぁっ!!!』
浴室のほうから、リタの悲鳴が響き渡った。
――――――――――◇――――――――――
「どうした! 大丈夫!?」
「お湯が……! お湯が急に熱く!!」
浴室のすりガラス越しに、駆けつけたトージが声をかける。
浴室からはリタの声と一緒に、シャワーがタイルの床を叩くサーッという音が響いてくる。
「シャワーの湯温か……! いいかいリタさん、蛇口の横にあるレバーを、青い方に向かってひねるんだ」
「近づけないです! 熱くてっ!」
普段のリタからは聞けないような、切羽詰まった声色。
彼女がパニックに陥っていることが容易に把握できた。
(でも、入浴中の女湯に男が入るのはさすがに……!?)
トージの現代日本人としての常識が、決断をためらわせる。だが……
「助けてください! トージさん!!」
(……えぇい、しょうがない!!)
助けを求める彼女の声が、トージに心の壁を破らせた。
意を決したトージが、すりガラスの戸を開ける。
すると、浴室の状況があきらかになる。
壁面に掛けられたシャワーヘッドからは、もくもくと蒸気を吐き出す湯の雨が降り注いでいる。
リタはタオルで体を隠しつつ、湯船の隅に……そこだけはシャワーがかからない、わずかなスペースに追い込まれていた。
トージが蛇口に目を向けると、湯温設定レバーが安全ストッパーを超えて、50度のお湯が出る設定になっているのが見える。
「熱っ!」
湯の雨が描くアーチの下へ、くぐるようにしゃがみ込み、蛇口をひねる。
頭と背中に熱いお湯がかかるが、今は湯を止める事が先決だ。
トージが蛇口をひねりきると湯は止まり、浴室に静寂が戻った。
ちゃぽん、という音とともに、リタが湯船に座り込む。
「……助かりました……」
それを聞いたトージは、すぐに振り向いてリタに呼びかける。
「お湯、どこにかかった?」
「はい、すぐに離れたので……右手だけです」
トージはすぐにシャワーを冷水に戻し、リタの上半身を検分する。
右手の外側、肩から下の部分が、薄紅色に染まっていた。
「冷たいけれど、我慢してね。痛かったら教えて」
リタの右手をとり、冷水のシャワーをかけていくトージ。
トージも蒸した米や蒸気で、何度も熱い思いをしてきたから、熱傷への対処は体に刷り込まれている。
火傷の治療には、まず冷やすことが肝心だ。
症状によっては、1時間くらい冷やしたほうがいい場合もあるが……
「腕、触ってるけど、痛かったりしびれるところはない?」
「いえ、大丈夫です。少しヒリヒリするくらいで……」
「よかった。湯温50度だから大丈夫だろうとは思ってたけど、この程度なら、肌がびっくりしただけだ。冷やせばすぐになんともなくなるよ」
そう言いつつも、トージはリタの右手に水をかけつづける。
軽度のやけどでも、5~10分くらいは冷やし続けたほうがいい。
やがて沈黙がおとずれ、浴室にはシャワーの音だけがこだまする。
「あの……すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
右手に水をかけられながら、リタが申し訳なさそうに切り出す。
「いや、悪いのはシャワーの使い方をちゃんと教えなかった僕のほうだよ。熱い思いをさせちゃって、本当に申し訳ない」
トージにとっては完全に自分の過失、使用者責任である。
酒蔵での作業は、一般に知られている以上に危険だったりする。
入浴の段階で怪我をさせていては、先が思いやられるというものだ。
そう考えていたトージが答えると、リタはまた黙り込んでしまった。
気になったトージが、ふと彼女のほうに目を向ける。
トージが冷水をかけている右肩の下、リタの右脇腹に視線が留まる。
そこには、リタの真っ白な肌と、胸を隠すタオル。
そして、くっきりと浮き上がったアバラ骨。
さきほどトージが妄想した裸身とは、似ても似つかない。
それは、誰の目にも明らかな、栄養失調の症状であった。
そう強く認識し、リタの右腕を持つ手に、思わず力をこめてしまう。
「? どうかされましたか?」
「……いや、なんでもない。気にしないで」
そう言ってトージはお茶を濁す。
(わかっていたつもりだった。でも、全然だ。言葉だけだった)
数字は残酷に現実を映しだす。
だが、映像は、数字以上に雄弁なのだ。
いつのまにか、やましい気持ちはどこかに吹き飛んでいた。
(こんなに良い子がご飯も満足に食べられないなんて、おかしすぎる)
(リタさんや家族のみんなに、できるだけたくさん仕事を振ろう)
(労賃を払って、たくさん食べて健康になってもらうぞ)
この日以来、トージがリタを見る目は。
「年下の女の子とのつきあい方に戸惑う青年」のものから。
「健気な姪っ子を慈しむ叔父」の目線に近づいていた。
えっちなこと考えている場合では無いです(真顔
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