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第1話 銘酒・賀茂篠

34話目までの予約投稿が完了しました。

第二章完結の第36話までは毎日投稿します。

「……朝……?」


 江戸時代からの歴史を持つ関東某県の酒造会社、株式会社賀茂篠酒造(かもしのしゅぞう)の若社長「鴨志野冬至(かもしのとうじ)」は、緑色の樹脂でコーティングされた冷たい床で目を覚ました。

 ここは賀茂篠酒造の商品、日本酒が保管されている貯蔵庫である。

 スマホで時間を確認すると、デジタル表示は10時5分を指している。


「……やばいっ! 寝坊した!!」


 がばりと起き上がり、細縁のメガネをかけなおすと、蔵とは離れた位置にある事務所へ駆け出すトージ。

 身長は168.5cm。「四捨五入すれば170cm」と強弁するのが常だ。

 短く切りそろえた黒髪に、メガネと顔立ちの影響で、気弱なインテリのような風貌をした、28歳の若者である。


(行政執行に遅れましたじゃ洒落にならない、せめて最後くらいは綺麗に終わりたいのに……!)


 トージがあわてて走っているのは、待ち合わせに遅刻したからだ。

 待ち人の名は「破産管財人」。

 トージが経営する株式会社賀茂篠酒造は、本日10時をもって破産したのだ。


(くそっ、なんで儲かってるのに倒産しなきゃいけないんだ。

 この蔵は! 僕の家で、仕事場で! 人生のすべてだってのに!!)


 黒字企業だった賀茂篠酒造が、倒産の憂き目にあったのには理由がある。

 賀茂篠酒造に地元ならではの低金利で設備投資費を融資してくれていた、メインバンクの信用金庫が破綻してしまったのである。

 借り換え期限直前の破綻で、銀行の融資も間に合わず、親族や取引先にも支援の余力が無く、債務不履行を回避できなかったのだった。


「たいへんお待たせしましたっ!!」


 通路の角を曲がり、事務所の前に声をかける……が、そこに人の姿はない。


「あれ……じゃあ、正門か?」


 大型トラックも通行可能な正門前に向かうが、そこにも人の姿は見られない。


「いない……じゃあ……間違えて裏門に来たとか?」


 賀茂篠酒造の蔵と事務所は、周囲をぐるりと石壁に囲まれている。

 トージは石塀の外周沿いに、小走りで裏門へ向かう。

 だがその途中、トージは不審なことに気がつく。


「……なんでアスファルトがぶった切れてるんだ……?」


 酒造の正門から町へつながる道の舗装が、途中ですっぱりと切れており。その先には下草の生えた土の地面と、広葉樹の林が広がっていたのだ。


(潰れた会社に使わせる道はないって? ……いや確かにこの道はウチしか使ってないけど、それはありえないでしょ昨日の今日で)


 実際に発生した事実は、ごく単純なことだった。

 賀茂篠酒造の蔵と、その周辺の土地が、まるごと異世界に転移していたのだ。

 全社員、職員のなかでただひとり蔵に住んでいるトージも、その転移に巻きこまれたのだが……。

 彼に、ただちにそれを察しろというのは酷な話であった。


(この壁は、間違いなくいつもの賀茂篠酒造の石壁だ。でも、反対側には見慣れない林がある……っていうか、このへんにこんな木生えてたっけ?)


 何がどうなっているのか。トージは混乱し、キョロキョロとあたりを見回す。

 それゆえ彼は、黒い弾丸のように茂みから飛び出してきた、獣の存在に気付くのが遅れてしまった。


「なっ、ぐわっ!?」


 獣の体当たりをかわそうと飛びすさるトージ。だが上着のすそを引っかけられ、トージはなすすべもなく転倒した。

 トージは水たまりに吹き飛ばされ、泥水がはじけて眼鏡にしぶきが降り注ぐ。


 水たまりに仰向けになったトージの上に、体から湯気を発する獣がのしかかった。それはトージ自身よりも重そうな、丸々と太った豚であった。荒い呼吸を繰り返す豚の、大きな鼻輪がついた鼻面を目の前に突きつけられ……


(あはは……たしか豚って、人間を食べるんだよな……)


「やめなさいっ!!!」


 茂みの向こうから叫び声があがる。

 トージにのしかかっていた黒豚は、びくっと身を震わせると、不本意そうにトージの体の上から離れていった。

 それと同時に、茂みの中から人影が駆けだしてくる。


「うちの豚が申し訳ありません……!」


 茂みの中からあらわれたのは、銀色の髪の美少女だった。


 年のころは中学生くらいだろうか?

 彼女はヨーロッパの絵画に出てくるような、農民風の素朴な衣装を身につけていた。丈の長いマントの中に、淡い朱色に染められた長いスカートと、腰から下にエプロンのような前掛け。そして上半身は、袖のところがふくらんだ白の半袖シャツに包まれている。

 身長はトージよりも頭ひとつ小さそうに見える。手足と体はモデルのように細く、胸もお尻もぺたんとしている。いまにも折れてしまいそうで、はかなげな美少女という印象を受けた。


 一陣の風が吹き、彼女の頭から麦わら帽子を奪い去る。

 帽子の中からこぼれ落ちたのは、くすんだ銀色の髪。腰のあたりまでまっすぐ伸びた髪をなびかせて、その少女は駆け寄ってくる。


「お怪我は、ありませんか?」


 長い前髪の隙間からのぞく青緑色の瞳が、水たまりで泥まみれになったトージを心配そうに見つめている。

 トージは返事をすることも忘れて、彼女の美しい瞳に目を奪われていた。


――――――――――◇――――――――――


「……っくしゅ!」


 黒い毛皮の豚に押し倒されたしばらく後。

 トージは、小川のほとりでパンツ一丁になっていた。


 身長170cmにわずかに届かないトージの腹筋は、うっすらと6つに割れている。

 酒蔵の作業は重労働であり、気温30℃以上の環境で汗だくで作業することも多いため、酒蔵で働く人は自然と「細マッチョ」体型になるのだ。トージの場合は、やや低い身長もあいまって、体操選手のように見えなくもない。


 もっともトージには、筋肉を見せつけて喜ぶたぐいの趣味はない。

 彼が小川のほとりに座り込み、パンツ一丁withメガネという格好で縮こまって途方に暮れているのは、すべて目の前で一心不乱に洗濯をしている、くすんだ銀髪の美少女の手配によるものであった。


「あのさぁ、べつに洗濯くらい自分でできるし……」


「どうか、そんなことをおっしゃらないでください。我が家の豚が、あなた様を危うく害しかけてしまったのです。これくらいはさせていただかないと」


 手際がいいなあ、というのがトージの感想だった。

 細い両腕に精一杯の力を込め、「うーん」と小さくうなりながら、ジャケットとジーパンをぎゅうっと絞り、少しでも水気を切ろうとする姿は、実にいじらしく可愛いらしい。

 ただ、腕があまりに細いのが気にかかる。


 彼女は平らな石の上に服を広げると、トージのところに歩み寄ってきて、白くて小さな手で全身をぺたぺたと触り始めた。


「うひょっ、くすぐったいよ」


「痛いところはありませんか? 外傷はなくても、打ち身があるかも」


 小柄な彼女は上目遣いで、心配そうに訴えてくる。

 やたらと世話を焼いてくるのは、彼女の性質なのだろうか。


「大丈夫、どこも痛くないよ」


「……それは、よかったです」


 銀色の前髪の奥で、彼女の青緑色の瞳が安心したように細められた。


「本当にご迷惑を……よろしければ、お名前をお聞かせくださいませんか」


「ああ、トージっていいます。冬に至るって書いてトージね。そこの賀茂篠酒造の当代なんだけど、知らないかな?」


「……? 当代……つまり……ご当主様ですか!?」


「うん、まあ、そういうことになるのかな」


 トージがそう答えると、彼女の白い肌がサーっと青く染まった気がした。


「つまり……トージ・デ・カモスィノ=シュゾー卿! 貴族の方とはつゆしらず、大変な無礼を……!!」


「貴族!? いやいやぜんぜんそんなんじゃないからさ。姓は賀茂篠で名は冬至。“トージ”って呼んでくれればいいよ」


「貴族ではない……?

 ……ああっ、気が回らず申し訳ございません。【そういうこと】ですね。

 かしこまりました。カモスィノ家のトージ様、あらためてお詫びいたします」


 銀髪の少女リタは深くうなずくと、何やら勝手にトージの事情とやらを納得したようだった。


「なんか調子狂うなぁ……それで、君のほうの名前は?」


「あっ、はい。私はリタ…………農家の娘でございます」


(……農家をやってるリタさん? このあたりに、農業をやってるガイジンさんなんていただろうか?)


 京都のほうで、日本酒に魅了されて酒造職人になったイギリス人の話を聞いたことはある。だが地元で農家になったガイジンの話なんて、トージは聞いたこともなかった。だいいち、そんなの町内会で話題になりそうなものだ。


「お召し物が乾くまで裸にしてしまい、悪疫を呼び込んでは申し訳がございません。すぐ近くですので、我が家までお越し下さい」


 川の水が染み込んだジャケットとジーパンをその場で着る気にもなれず、トージはその提案を受け入れ、リタから借りたマントに身を包んだのであった。


 酒蔵ごと、たったひとりで異世界に転移してしまったトージ。

 トージの挑戦を、最後まで見届けてもらえたら作者冥利に尽きます。

 金土日の三日間で合計8話分を投下予定ですので、引き続きお楽しみください。


 ちなみに「日本酒に魅了されて酒造職人になったイギリス人」とは、京都の酒蔵「木下酒造」で杜氏(とうじ)(酒造指揮官)をつとめるフィリップ・ハーパーさんのことです。

 木下酒造のお酒「玉川」は、酸味のある濃厚な味わいが魅力です。

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