雨のち晴れ
「いってきます。」
そう一言呼びかけ、私は玄関のドアを開けた。その途端、急にポツポツと雨が降り出す。私はいつも通り手に持っていた傘を差す。きっと、普通の人なら「最悪だ」とか「ついてない」と思うのだろう。でも、これは私にとっての日常。たとえ、その日の天気予報で晴れマークがついていたとしても、たとえ、降水確率がゼロパーセントでも、私が外に出ると高確率で雨が降る。そう、私、川原しのりは「極度の雨女」だ。
物心ついたときから、私が外出する時はいつも雨だった。公園で遊ぶ時も、旅行に行った時も、運動会も、遠足も、修学旅行も全部。いつも雨がだった。晴れていたことのほうが少ない。晴天はたぶん見たことがない。でも、そんなことが毎日続いていたせいか、「悲しい」というような気持ちはない。むしろこれが普通だと思うようになった。
いつも通りの通学路を歩き、学校に到着する。傘を閉じて玄関に入り、下駄箱の前で外履きと内履きを履き替えていると、後ろの方から騒がしい声が聞こえてきた。思わず振り返ると、輪の中心で楽しそうに笑う男子生徒がいた。彼の名前は、戸田まさと。私のクラスメイトだ。
彼を一言で説明するならば、「太陽みたいな人」というのが一番しっくり来る。彼の見た目にこれといった特徴はない。平均的な身長、平均的な体つき、平均的な顔……。でも、彼は周りの人々を惹きつける何かがあった。まるで太陽のように、いつもたくさんの人に囲まれて、いつも大声で笑っていて、いつも誰かを笑顔にしていた。「人気者」になって当然だと思う。そして、彼を「太陽みたいな人」という理由はもうひとつある。それは「極度の晴れ男」らしいからだ。
「らしい」というのは直接確かめたわけではないからだ。聞こえた話によれば、(彼は教室でいつも大声で話しているため、いやでも耳に入ってくるのだ。)彼は学校行事で一度も雨が降ったことがないらしい。それどころか曇ったこともないらしい。その証拠に今も彼は傘を持っていない。今日の天気予報は降水確率が八十パーセントだというのに。
「人気者」で「極度の晴れ男」。つまり私と彼は正反対の人間だ。
私は彼を中心に騒ぐ人たちを横目に見つつ教室に向かう。教室に入るとほとんどの人が数人で輪を作るように集まり、ゲラゲラと笑いながらたわいもない話をしていた。私はその人たちを気にも留めず、自分の席に座る。そして、スクールバックから一冊の文庫本を取り出して読む。私がその人たちに気を留めないように、私には誰も気を留めない。
そう、私には友達がいない。だが、人見知りで友達が欲しくても作れないというわけではない。決していじめられているわけでもない。誰かに話しかけられれば普通に話す。でも、友達と呼べるほど親しい人はいない。また、そのような友達と呼べるような親しい人ができることを私自身望んでいない。そんな私にも小学校低学年のころは友達がいた。親友はいなかったが、友達はそこそこ多かったと思う。放課後や休みの日には遊びに行くこともあった。でも、私がどの友達と遊ぶときにも毎回雨が降った。私と遊ぶとき毎回雨が降るものだから、私の友達たちは気づいたのだろう、私が「極度の雨女」だということに。
世の中に、雨が好きな人はあまりいない。雨が降るとたいていの人は憂鬱な気分になったり、不機嫌になったりする。だから雨は嫌われ者だ。
その嫌われ者に好かれる私も嫌われた。しょうがないと思う。進んで雨に降られようという人はいない。
それからというもの、誰も私を遊びに誘わなくなった。そして、私も誰かと仲良くすることを諦めた。嫌われ者である私は、「極度の雨女」である私は、誰とも親しくすることはできないことに気付いたから。それ以来、家族以外の人と親しくすることをやめ、一人で過ごすようになった。
放課後、私は一人美術室で絵を描いていた。私のほかにも美術部の部員はいたはずだが、一度も活動に来たことがない。きっと、絵を描くことよりも楽しいことが他にあるのだろう。顧問の先生は活動している部員が私一人のせいか、あまり顔を出さない。でも、それはかえって一人でいることを望んでいる私には好都合だった。
私は絵を描くことが好きだ。言葉にしなくても、人と関わらなくても、自分が日々感じていること、思っていることを自由に表すことができる。だから、真っ白な紙の前に座るとき、私はどんなときよりも素直になれる。
そんな自分の世界に浸っていると、ふと私の集中力を搔き乱す音が聞こえてきた。ドタドタという数人が走る足音。ゲラゲラ笑う男子生徒たち、興奮してキャーキャーと叫ぶ女子生徒たち。うるさい。頼むから私の絵の邪魔をしないでほしい。騒ぎたいなら外でやってくれ。そう思っていると、ひとつの足音がだんだんと近づいてきた。最初は気のせいかと思ったが、間違いなく足音はこちらに近づいてくる。そして突然、大きな音を立て私のいる美術室の扉が開けられた。思わず振り向くと、そこに立っていたのは、戸田まさとだった。彼は驚いたように、扉を開けたままの体勢でその場に立っていた。私も驚き、パレットと筆を握り締め扉のほうを見たまま動けずにいた。
長い沈黙が美術室を支配した。そんな沈黙を破ったのは、彼だった。
「たのむ、しばらくここに隠れさせてくれ。鬼がすぐそこまで来てるんだ」
手を合わせ、彼が私に頼んでくる。彼らは鬼ごっこでもしているのだろうか。私は少し考えて、
「……邪魔しないでくれるならいいよ」
と答えると、彼は、
「ありがとっ。」
と答えながらすぐさま教室に飛び込み、棚の陰に隠れた。
しばらくすると、誰かがこちらへ走ってくる音が聞こえた。そして、一人の男子生徒がこの教室の前に現れた。その生徒は教室の中を窺い、私の姿を見つけると、
「誰かこっちのほうに走ってこなかった?」
と聞いてきた。私はそっけなく、
「誰も来てないよ」
と答えた。その生徒はお礼を言うと、またどこかへ走り去ってしまった。その足音が聞こえなくなったころ、彼が私の前に姿を現し、
「ありがとう。おかげで助かった」
と軽く笑顔を浮かべて言った。
「まさか、美術部で活動してる人がいるとは思わなかったから驚いたよ。」
彼はヘラヘラと笑った。そして彼は私の絵を覗き込みまじまじと眺めて言った。
「川原、おまえ絵うまいじゃん」
私は彼に自分の絵を見られたことよりも、彼が私の名前を知っていたことに驚き、思わず聞いた。
「何で、私の名前を知ってるの?」
「え、だって俺のクラスメイトだろ?」
彼は当然のように、きょとんとした顔で答えた。あまり人と関わらない私は人の名前をあまり覚えていない。学校内で覚えているのはせいぜいクラスの担任の名前と自分の席の近くの人くらいだ。彼の場合は例外で、クラス内でとても目立っていたので、気がついたら覚えてしまっていた。
「っていうか、私の絵をじろじろ見ないで。」
と私は我に返って言う。すると、彼は目を見開き、
「川原って無口な人だと思ってた」
「でも、本当にうまいと思うよ、その絵」
彼は少年のような笑顔で私の絵を褒めてくれた。褒められることに慣れていない私は、どうしたらいいのかわからずただ俯いていた。彼はそんな私を気にする様子もなく、
「じゃあ、ありがとな。部活がんばれよ。」
と言い残し、美術室を去って行った。
次の日の朝、下駄箱の前で私が靴を履き替えていると、彼が数人の友達と共に玄関に入ってきた。(彼はいつも誰かと一緒にいて大声で話しているのでよく目立つ。)そして、彼は私の横を通り過ぎるとき、
「おはよっ川原。」
とさりげなく声をかけてきた。普段誰からも挨拶されず、ほとんど誰とも話さずに毎日を過ごしている私にとって、私が「人気者」に挨拶されたという状況が理解できず頭の中が真っ白になった。我に返り、挨拶を返さなければと思ったときにはすでに彼は私の視界からいなくなっていた。どうやら私がオロオロしている間に、友達たちとともに行ってしまったようだ。私は挨拶すらまともに返せない自分自身にあきれ、ため息をついた。
その日の放課後、私はいつものように一人美術室で絵を描いていた。
キャンパスに向かい、パレットを持ち、筆を黙々と進める。やっぱり私はこの時間が好きだ。
自分が絵を好きなことを改めて実感しながら、自分の世界に浸っていると、ガラッという扉を開ける音とともに私は一気に現実に引き戻された。顧問の先生でも来たのかと思い扉の方向を見ると、そこには戸田まさとが立っていた。彼は私の姿を見つけると、軽く手を挙げ、
「よっ、川原。」
といいながら教室に入ってきた。私は、
「どうしたの?」
と彼に質問する。
「なんとなく。」
と彼はニヒッと笑いながらそう言い、私の絵を覗き込む。彼にジロジロ見られ、落ち着かなくなった私はさらに質問する。
「なに?」
「なんとなく。」
と彼はさらにニヒッと笑い答えた。私は諦めて筆を進めることにした。
「そういえばさ。」
彼が唐突に切り出した。
「まだ自己紹介してなかったよな。俺の名前は戸田まさとだ。よろしくな。」
そう言って、彼は私に右手を差し出す。私は迷った。今まで長い間一人で過ごしてきたのに、私は「極度の雨女」だからいつか嫌われてしまうことはわかっているのに。ましてやこんな自分と正反対の人と。でも、気が付いたら私の右手は彼の右手を握っていた。
「私は、川原しのり。よろしく。」
こうして私たちは友達になった。
この日以来、私たちは朝の挨拶を交わしたり、放課後美術室で話したりするようになった。話の内容はどれもたわいもないものだったけれど、なぜか彼と話す時間はとても楽しかった。
戸田と友達になってから一ヶ月ほど経ったある日の放課後、日誌を提出するために職員室に向かっていると、
「……好きです。……付き合ってください……」
女子生徒の小さな声が聞こえてきた。見ないほうが良いとわかっていながら、私は好奇心に駆られ、こっそり覗き込んだ。すると、そこには顔を赤らめ俯くかわいい女の子と、驚いたように目を見開いた戸田がいた。それを見た私は思わず隠れていた。
彼が人気者で一部の女子たちから特別な感情を持たれていることくらい知っていたはずだ。ゆえに彼がこれまでたくさんの女子から告白されていることも知っていたはずだ。私と彼はただのクラスメイトで彼が誰と何をしようと自分には関係ないはずだ。なのに、なぜ、こんなにも胸がモヤモヤしているのだろう。私は逃げるようにその場を立ち去った。この日は結局、部活に行かなかった。下校の時も、ご飯を食べている時も、寝る時も、あの光景は私の頭から離れてくれなかった。
次の日の朝、いつも通り雨が降った。朝になっても心のモヤモヤは消えず、いつも通りのはずの雨がなぜか悲しく見えた。何度もため息をつきながら、重い足を無理やり動かし私は学校に向かった。
学校に着くと、珍しいことに彼が一人でいた。そして誰かを待つように下駄箱の前に立っていた。彼は私を見つけると、
「昨日、なんかあったのか?」
と心配そうに聞いてきた。
「……なんでもない」
一応彼の質問に答えたものの、なぜか彼と目を合わせることができなかった。彼はそんな私の様子を見て、さらに心配そうに聞いてくる。
「なあ、ほんとになんかあったのか?」
「……なんでもないって」
さっきまでモヤモヤしていたのに今度はムカムカしてきた。
「河原、ほんとに大丈夫か?」
「なんでもないってば!」
私に伸ばしてきた彼の戸を払いのけ、私は思わず叫んでいた。
ハッと我に返り彼の顔を見ると、これまでに見たこともないような悲しそうな顔をしていた。それを見た瞬間、私は彼に背を向け駆け出していた。
その日は、授業の内容も文庫本の文字も頭に入ってこなかった。どうして彼に向かってあんなことをしてしまったのかそればかりを考えていた。窓の外を見ると、まるで私の心を移したかのように、土砂降りの雨が降っていた。
気がつくと放課後になっていた。私はまたモヤモヤし始めた気持ちを引きずりながら美術室へと向かった。
美術室の扉を開けると、そこには彼がいた。彼は何も言わず窓際に腰掛けていた。何か言わなければと思うのに言葉が何も出てこない。彼も何も言わず、長い沈黙が美術室を支配した。秒針が一周したころ彼が口を開いた。
「俺、お前になんかした?」
私は黙って首を振る。
「じゃあ、何で朝怒ってたんだよ。何で今日一日元気なかったんだよ。」
「それは……」
「何でか教えてくれなきゃわかんないんだよ……!」
そういう彼はとても悲しそうだった。
「……私もよくわかんない。」
本当にわからなかった。なぜこんなにも心がモヤモヤするのか。なぜこんなにもイライラするのか。なぜ悲しそうな彼を見ると、こんなにも悲しくなるのか。私はなんと言ったらいいのかわからず、俯いた。私は居心地が悪くなり、彼の様子をチラリと伺うと、彼は何かを考えているように見えた。
「……もしかして、昨日俺が告白されてるところ見た?」
彼が突然聞いてきた。私は彼に原因を言い当てられ、恥ずかしくなり俯きながら答えた。
「覗いてしまってごめんなさい」
「あの子とは付き合わなかったよ。あの子とはただの友達。少なくとも俺はそう思ってる」
その言葉を聴いた瞬間、さっきまでの時間が嘘のように、心のモヤモヤやイライラが瞬く間に消えていった。
「そっか」
なぜか笑みがこぼれた。
「……ふふ、ふふふ、ふははははははははははははははは」
彼はおなかを抱えて笑っていた。これまで見たことのないくらい大声で。
「あー、心配して損した」
「何で笑うの?」
私が不機嫌そうな顔をして聞くと、
「やー、てっきり嫌われたのか何かあったのかと思って」
「そんなわけないじゃん」
私は慌てて答えた。これから先、私が彼を嫌いになることはきっとないと思う。私は、彼ほど楽しそうに笑う人を他に見たことがない。彼ほど私を笑顔にしてくれる人は他にいない。
「ていうか、朝は怒鳴ってしまってごめんなさい」
私が頭を下げると、彼は、
「いや、いいよいいよ。たいしたことじゃなくて良かった」
「わ、私にとってはたいしたことだったんだから!」
口では不満を言いながらも、彼とまたこうして笑いあえる喜びが隠せない。
彼の笑顔がたまらなく嬉しかった。彼の笑顔で私も笑顔になった。そんなふうに彼と二人で笑い会えることが幸せだと思えた。
いつの間にか、彼の存在が私にとってなくてはならないものになっていた。一ヶ月ほど前まで、一人でいることを望んでいたのに、今は彼と一緒にいたいと思うようになっていた。彼は、人と関わることを諦めていた私を変えてくれた。そう、まるで太陽のように。雲の下いつも雨に降られていた私に、光と温かさを教え、私を照らしてくれた。彼は私の太陽だ。
不意に彼が窓の外を見て呟いた。
「あ、虹」
つられて私も窓の外を見て呟く。
「ほんとだ」
ずっと降っていた雨はいつの間にか止み、空一面に大きな虹が輝いていた。
二人で空を見ながら笑い合った。