5話
「これより、第42回、西桜川高等学校の卒業式を開式致します」
卒業式というものは、在校生に何の関係があるのだろう。卒業生だけで行えば良いのにと、何度思ったことか分からない。俺らが参加して、誰の得になるのか。
眠い目を擦って、ぼやけた意識をどうにか保ち、正面を向く。卒業生の背中は皆、真っ直ぐに伸びていて、卒業への覚悟や意識の高さを感じた。
呼ばれた卒業生、1人1人が返事をしてその場に立つ。中には知ってる先輩もいたけれど、正直どうでも良かった。早く終わってほしい。そう願いながら適当に耳を傾けていた。
「阿崎、麗亜」
知らない先生が呼んだ、先輩の名前が俺の目を覚ます。意識しないようにしていたのに、先輩の卒業が突きつけられた。「はい」と答える先輩の声は、他の誰よりも澄んでいて、やけにはっきりと聴こえた。
途端に瞳の奥が熱くなる。やばい、と思って頬の内側を噛み締めた。目を伏せ、意識を他所にずらす。あぁ、早く終わればいいのに。地面を睨みつけるようにして、俺はまた願った。
全員の名前を呼び、授与式も終えると、学校長の長い話を挟んで卒業生は退場になる。体育館の両サイドに別れた俺らの真ん中を、卒業生は歩いていく。
先輩のこと見えるかなぁと首を伸ばして見ていると、丁度先輩と目が合った。普段よりは優しく手を振ると、先輩も人目をはばかりながらも振り返してくれた。式を終えても、先輩が卒業する実感が湧かない。明日も先輩と、お昼ご飯が食べられる気がしてしまう。
体育館の片付けを終えた在校生は、一旦教室に戻って、先生の合図で帰宅になった。卒業生は最後のホームルームや配布物、記念写真撮影などで俺らよりも帰りが遅くなるらしい。今日に限っては、教室が即座に施錠されてしまうので、昇降口で先輩を待つことにした。
在校生が次々に帰っていく。卒業生は1人2人見かけたけど、それっきりだった。先輩にメッセージを送っても既読がつかない。忙しいだろうし仕方ないかと、端っこの段差に腰を下ろした。
「あれ、和衣。そんなとこで何してんの」
スマホを弄っている時、かけられた声に驚いて前を向く。そこには、滅多に顔を合わせることのなくなった祐樹がいた。靴が上手く履けないのか、俺の横に腰掛けて靴を直し始める。
「久しぶりじゃん! 俺ねぇ、先輩待ってるの」
「先輩って……麗亜先輩? ずっと仲良くしてんの?」
「うんっ、仲良くしてもらってる」
「へぇ、良いじゃん。写真でも撮ってやろうか? 俺、迎え待つしかないし」
「祐樹にしては優しいね……。じゃあ先輩きたら宜しくーっ!」
「余計な一言が聞こえたぞ」
最後の言葉は聞かなかったふりをして、世間話を始める。俺のクラスの話と、祐樹のクラスの話。たまに先輩の話も混じえながら、お互い時間が過ぎるのを待った。
そのまま数十分も談笑していると、階段から騒がしい声が聞こえてきた。続いて、卒業生達が爆笑しながら昇降口に現れる。そろそろ解散の頃合いなら、先輩ももうじき来るはず。人混みの中に先輩がいないかと目を凝らして見てみると、綺麗な黒髪を揺らしてこちらに向かってくる人影が確かに存在した。
「和くん、待たせちゃってごめんね……!」
「大丈夫ですよ。お疲れさまでした、先輩っ!」
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
ありがとう、と表情を和らげる先輩。祐樹が引導して、人の少ない校舎脇で写真を撮ることになった。俺と先輩、並んで写真を撮ってもらう。先輩はこんなときでも、ピースが控えめだ。先輩らしいなと密かに笑いながら、祐樹も引き摺り込んで、3人でも写真を撮った。
「祐樹、ありがとっ!」
「いいってことよ。丁度迎えきたから帰るわ。和衣も先輩も、お気を付けて」
祐樹が颯爽と去っていったのに続き、俺と先輩も歩き出す。いつもと変わらないのに、どこか気まずい。
「先輩。今日、ちょこっとだけ遠回りしませんか?」
「……いいよ、しよっか」
理由を聞かずに許可してくれた。ほんの15分程度、時間が増える遠回りだ。気持ち遅めに足を進める。
やっぱり、先輩が卒業する実感が湧かない。明日から先輩のいない学校になることが信じられない。適当な会話で場を繋ぎながら、頭の中ではそんなことを考えていた。先輩は今、何を思っているんだろう。
何となしに先輩の顔を覗き込んで、俺はすかさず声をかけていた。
「先輩っ!? な、なんで泣いてるんですかっ……!?」
「あ、ごめんね……。なんか、卒業しちゃうんだぁって、考えたら……いまさら涙出てきちゃった」
「卒業するのは寂しい、ですか……?」
「うん……。最初は退屈で仕方なかったけど、2年生から和くんと関わるようになって、毎日楽しかったから…………寂しい、かな」
心臓が大きく脈を打つ。喜びか、驚きか、はたまた別の、感情か。静かに泣き続ける先輩。俺は、丁度いい慰めの言葉が見つからない中、道の端で立ち尽くす。
ぽろぽろ落ちていく涙に手を伸ばし、そっと拭った。いくら拭おうと、際限なく溢れてくる。ごめんね。掠れた声でそう言い、曖昧に笑う先輩は、少しだけ幼く思えた。
無性に抱き締めたくなる。それで、我慢せずに泣いてほしい。謝ることも、無理に笑うこともしないでほしかった。そうさせてしまっている壁を、取り除きたい。だけどそれは勿論、行動に移すことはなく、胸の奥に隠した。
それから泣いていたのは、ものの数分だった。涙を止め、小さな深呼吸を繰り返すと、俺に笑いかけてくる。
「ごめんね、もう大丈夫。帰ろっか」
「…………先輩。俺、先輩と同じ大学に行きます」
ずっと隠していたことを告げる。今の学力じゃ合格は程遠い。せめて模試でA判定を貰ってから言おうと思っていた。だけど、伝えることでほんの僅かでも、もし涙の代わりになってくれたら。
そんな希望で口にした。先輩は無言で目を合わせて、次第に顔を綻ばせた。引っ込んだ筈の涙が、瞳に浮かんでいる。
「わかった。楽しみに待ってるね」
はい、と元気に返事をして歩き出す。先輩のために勉強を頑張ろうという意識が強まる。待ってるねと言われたからには、尚更だった。
遠回りの道のりは、案の定あっという間で。これまでの話、これからの話をしていれば、家への到着は目前まで来ていた。
「そういえば、先輩。前に、どうして関わってくれるのか、って聞いてきましたよね」
「うん。聞いたけど、よく覚えてるね」
「俺、先輩といて気付きました。先輩と一緒にいると、誰よりも安心するからです」
話していて、次は俺が泣きそうになる。震える声を抑えて、涙が落ちないように長く瞬きをした。外灯に照らされる先輩が、夢のようにぼんやりと揺れる。
前の質問に答えてるだけなのに、こんなにも胸が締め付けられるのは、先輩が卒業するからなのだろうか。とはいえ、泣くのは絶対に嫌だ。格好悪い姿を見られたくない。
先輩は、くすぐったいような表情をして、俺を真っ直ぐに見据える。
「ありがとう。私も、和くんと一緒にいると楽しくて安心できるよ。またカフェとか、誘ってね」
今声を出したら同時に涙が膨らんでしまいそうで、少しばかり頷くことが精一杯だった。
家の前で別れを告げ、玄関の扉に手をかける先輩。詰まっていた言葉を吐き出すには今しかない。若干空いた距離で涙がバレないことを祈り、伝える。
「っ先輩! 卒業、おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。待ってるからね」
玄関を開け、先輩が中に姿を消すと、みっともないくらいに流れていた涙をぐいと拭う。先輩が待っているのは、遊びの誘いか、俺の大学進学か。もしかして他の何かなのか、さっぱり分からなかったけど、とにかく今は勉強を頑張っていこう。そう、思えた。