1話
教室から、大勢の生徒が出て行く。一斉に椅子が引かれたことで騒がしくなった空間は、すぐさま一転して静寂に包まれた。そんな中でひとつ、パソコンの起動音が鳴る。俺は溜息を置いて立ち上がると、パソコンを起動させた本人の元に歩を進めた。
「先輩、俺もやりますよ」
「えっ……いいの?」
「いいの、も何も、俺もその仕事担当ですよ。忘れちゃいました?」
パソコンの前に座り、恐る恐るこちらに目を向ける先輩は、阿崎 麗亜。俺より一個上の2年生で、話しかけたのは今日が初めてだった。
ズレたメガネを元に戻すと、視線を逸らして曖昧に笑う先輩。覚えてたけど、との言葉は力なく、何故そんなに自信なさげなのだろうかと疑問に思える程だ。
「え、と……伽藍 和衣くん、だよね」
「はい、そうです。先輩、よく俺の名前分かりましたね?」
「うん。担当が一緒だから名前だけは覚えておこうと思って」
「そうなんですね、ありがとうございますっ!」
にっこり笑って見せたけど、相変わらず曖昧な笑顔の先輩はそれ以降喋るのをやめた。
俺と先輩は、西桜川高校の文化祭実行委員。そして、同じ仕事が割り振られた。何度か集会はあったから、先輩の顔を覚えていたけれど、まさか同じ仕事をすることになるとは思わなかった。
そもそも、友達が裏切って俺に嫌な仕事を押し付けたのが悪い。美人な先輩に釣られて、別の仕事を希望しやがった。
あの野郎、と思い返してこっそり憤っている隣で、先輩は黙々と原稿作りを進める。やりますよ、と言っておいて何もしていないのは申し訳ないが、2人でパソコンを扱うのは無理がある。画面を真っ直ぐに見つめる先輩に、暇だった俺は何気なしに話しかけた。
「先輩って、もう進路決めました?」
「……ううん、決めてないよ」
「そうなんですか。俺の周り、早くも決めてる人が多くて、俺どうしよーって焦ってるんですよね」
「うーん、そうなんだ……」
集中しているらしい。応答にラグがある上、聞いているかどうかもイマイチだ。それほど集中してるなら、流石に邪魔は止めようかなぁと悩んでパソコンを一瞥すると、誤字を発見する。
「先輩。ここ、間違ってますよ」
「えっ、あっ、本当だ……!」
慌ててタイピングし直す様子に、つい笑い声を零す。先輩は誤字を訂正すると、また入力作業に戻った。
時計を見ると、作業開始から早30分が経過している。原稿はまだ中盤のようだ。口元を引き締めて画面を見続ける先輩が、ふと息を吐いた。
「先輩、代わりますよ。ここからですよね?」
「うん、ありがとう」
席を交換して、今度は俺がパソコンに集中する。それから数文だけ入力して、隣からの気配に気付く。せっかく休憩できるように交代したのに、先輩は熱烈な視線をパソコンに向けていた。
「先輩って、真面目なんですね」
「そうかな……」
「だって俺、先輩に休んでほしくて交代したのに、ずっとパソコン見続けてるんですもん」
「うーん、人に仕事をさせてるのに私だけ休むなんてできないよ」
「先輩が休めるようにって今俺が仕事してるのに、休んでくれないんですかぁ?」
「……わかったよ。ありがとう」
諦めたようにそう言って先輩が椅子から立ち上がるのを確認すると、入力を再開した。後ろで背伸びでもしているのか、気持ち良さそうな間延びした声が聞こえる。このまま一気に今日の仕事を終わらせて、早く帰ろう。そんな一心で、不慣れなタイピングを続けた。
1時間近くもすれば、原稿はほとんど完成に至った。不明な部分が数カ所あるので、それは後日、先生に確認を取ってからじゃないと入力ができない。
パソコンの電源を落として周辺の片付けを進めていると、先輩がパソコンを抱えた。どうやら職員室に返却しに行ってくれるつもりらしい。
俺は慌てて自分の鞄を背負うと、先輩の後を追う。追ってきた俺に目を見開いた先輩は、どうしたの、と問いかけてくる。
「先輩、なんで俺置いていくんですかっ」
「な、なんでって言われても……。これ返しに行くだけだから」
「俺も一緒に行きますー!」
一緒に行くことに大きな理由は無いが、人の後を追っかけることが好きな性分なので仕方ない。理解できなさそうに首を傾げる先輩だったが、それ以上は問いかけては来ず、俺からの一方的な会話をしたまま返却を終えた。
昇降口で靴を履き替え、校門を出るまでは先輩と一緒だった。先輩はその間、必要最低限の返事しかしてはくれなかったが、特段嫌そうな様子も無く、俺はひたすら話していた。お陰で、話を遮らずに聞いてもらえるのは、中々楽しいものだと気付いた。
「先輩、ばいばーい!」
別れて即座に後ろを向くと、先輩に大きく両手を振る。一瞬、肩を縦に揺らして俺の方に視線をくれると、苦笑いで細やかに手を振ってくれた。
また明日、会えたら話しかけよう。