プロローグ
台所から溢れ出た朝ごはんの香りが部屋に満ちる。
炊飯器が炊きあがりを知らせる電子音を鳴らしている。フライパンで焼かれているのは、昨日買った塩鮭だろうか。その隣にある鍋には、味噌が溶けたお湯に豆腐とワカメが浮いている。
食卓の上には、箸とお茶碗、味噌汁椀が用意されおり、近くに昨日の夜のおひたしとこの前、お土産で貰った漬物がちょこんと乗っている。
「おはよう、姉さん」
部屋に入ってきた韓紅花は、台所の中でくるくる動く姉に声をかけた。
「おはよう、韓紅花。髪に寝癖が着いてるよ。まだ、鮭が焼き上がらないから先に寝癖とっておいで」
忙しい手を止めつつ、ゆっくりと振り返った姉が微笑みながら自分の髪を指す。
韓紅花が同じ部分をさすると確かにぴょこっと髪の一部が跳ねている。
「今日は、久しぶりにみんなで買い物に行くんだから綺麗にしないとダメだよ」
「はーい」
欠伸をしながら返事をして洗面所に足を向ける。
朝の冷たいフローリングの床を素足でぺたぺたと音を立てながら歩く。
やっぱりスリッパを履いてくれば良かったかなと思いつつ、昨日、どこに脱いだのか忘れたことを思い出す。
脱衣所かな? それともトイレの前かな?
と考えながら歩いているとふと人の気配を感じて顔を上げた。
「あ、おはよう萱兄」
韓紅花は眠そうに目をこすりながら歩いてきた一番上の兄に声をかける。
「ん、おはよう。から」
ふぁあと大きな欠伸をしてポンっと韓紅花の頭に手を乗っける。
「朝ごはんできてた?」
「まだだったよ。赭兄たちは、起きてた?」
「さっきリーベが起こしに行ってたよ。だからもうすぐ……」
カンっカンっカンと金属と金属がぶつかり合う甲高い音が聞こえた。
耳を塞いでも音は頭の中で響く。
「ほら、起きてください!! 昨日、あれほどゲームはそこそこにと注意したではありませんか!! 起きなければ本日は家で留守番してもらいますよ!!」
甲高い音に混じっておかん口調の中性的なリーベの声が聞こえる。
「あの音……うるさい」
あきらかに不機嫌そうな顔をして兄はリビングの方へ去っていく。
顔を洗い終えリビングに戻ると韓紅花以外全員揃っていた。
長方形のテーブルに三人の兄と姉の旦那が座り、姉とリーベは台所で作業をしている。
兄たちと挨拶を交わしながら韓紅花は自分の席に着いた。
熱々の味噌汁と緑茶からは湯気が立っている。
コトっとリーベが焼きたての塩鮭がのったお皿を置く。
それを合図に萱兄がお茶碗を持って立ち上がる。続いて他のみんなも席をたちお茶碗にご飯を盛っていく。
これといった決まりはないがみんなスムーズに動く。
「さあ、食べようか」
最後に席に着いた姉がいただきますの合図をかける。
萱兄がいただきます、と言ってからみんながいただきますという。
これが、美濃羽家の一日の始まり。
今日は、珍しく家族全員休みの日なので久しぶりにショッピングに出かけることになっている。
男性陣は、とっくに支度を終えテレビゲームをしている。
「男の人ってどうしてあんなに支度が早いのかな?」
隣で服を着替えている姉に韓紅花は心に浮かんだ疑問を投げかけた。
「私たちより整えるものが少ないからじゃないか? 髪は短いからとくだけでいいし、服もズボンとシャツを合わせるだけでいい。
それに比べて私たちは、髪も整えなくちゃならないし、服だってスカート、ワンピース、ズボン、シャツから選ばなくちゃならないだろ?」
たしかに。それにメイクもしなくちゃならないから男の人より時間がかかるのは当たり前のことなんだ、と韓紅花は心の中で納得する。
「さて、から、今日はどんな髪にしたらいい?」
「うーん、編み込みカチューシャにして欲しいな」
「いいよ。リボンを一緒に編み込んでも可愛いかもね」
なんてお喋りをしながら姉は手際よく髪を赤いリボンと共に編んでいく。
「からのこの白い髪には赤が映えるね」
出来上がった髪を見ながら惚れ惚れした様子でため息をつく。
「ありがとう。だけど、私、姉さんみたいな黒髪が好きだよ。あと、その青い瞳も」
韓紅花は、自分とは真逆の髪と瞳を持つ姉が羨ましかった。
日本人らしい黒髪と母方の祖先の血を引く青い瞳がとても綺麗で小さい頃、いつか自分もそんな風になれると韓紅花は思っていた。
「そうかい? 私的には瞳は、黒がよかったな」
「兄さんみたいに?」
「そ。ダークブラウンじゃなくて真っ黒なあの瞳に私は憧れるんだ。夜みたいで綺麗だろ?」
所詮ないものねだりの話だ。
瞳の色を完全に変えることが出来なくても今のご時世カラーコンタクトを入れればいいのに姉がそうしないのは、あの瞳を気に入っている他に理由はない。
韓紅花も同じ理由で血のような赤い瞳を隠したりしないし、コンプレックスの一つである白い髪を染めたりしたことは一度もない。
「準備も整ったことだし、私、声をかけてくるね」
一人になった部屋で韓紅花は、最後の身支度を整える。
(襟は折れてない。リボンも……解けてない。髪は完璧だし、メイクもバッチリ。靴下も履いたし、ああ! バッグ忘れるところだった! よし、お財布も入ってるし、ハンカチ、ティッシュもある)
鏡の中の自分に笑顔を見せる。
「いってきます!」
鏡に手を振り部屋の外に出た。
まだ少し冷たいフローリングの床。待ちくたびれた様子の兄たち。優しく迎え入れてくれる姉。
その先には、大好きな家族がいるはずだった。
いるはずだった。
ガクンっと床が消え落ちる感覚に襲われた。
悲鳴をあげる暇もなく体と意識は暗く深い闇の底へ落ちていった。
目をあけると見しならぬ部屋が広がっていた。
“目を開けた”ということは、眠っていたらしい。その証拠に韓紅花はベッドの上で目を覚ました。
「ここはどこ?」
混乱しつつ口にした言葉はありふれたものだった。
どこかのホテルのスイートルームを思わせる広々とした部屋に高そうな調度品。
寝かされていた天蓋付きベッドはあきらかに一人用ではないサイズ。
バルコニーへと続くガラス張りの扉からきらきら輝く陽の光が差し込んでいる。
不審に思い部屋を見渡すが誰もいない。
どうやらこのだだっ広い部屋には韓紅花しかいないようだ。
ベッドから抜け出し、韓紅花は、ガラス張りの扉を開けた。
涼しい風が韓紅花の薄い桃色の頬を撫でる。
「え?」
韓紅花は、自分の目を疑った。バルコニーの上、青い大空にはぽこぽこ浮かぶ雲に混ざってドラゴンらしき生き物が群れを為して飛んでいる。
遠近法のせいなのかさほど大きくないように思われるが、鳥とは違うシルエットからドラゴンだと分かる。
「どこ? ここは…………どこ?」
だが、その問いに答えてくれるものはいない。
「リーベ? アスラン? 兄さん? 姉さん?」
家族の名前を呼んでみるが、誰一人答えてはくれない。
「どこ? どこにいるの?」
まさか、自分が異世界転移をしたとは思うはずがなかった。




