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幼稚園に少年を迎えに行った時、なんだか様子が変だなと思った。
いつもならお日さまのような笑みを浮かべて、元気な子犬のように一目散に駆けてくる。なのに今日は、なにか怒っているようなぶうたくれた顔をしていた。
もしかしてまた、あの性悪ないじめっ子たちにいじめられたのか? はたまたケンカをしたのかと、少年のクラスを受け持つ先生に話を聞く。彼女はのほほんとした人好きのいい笑顔で「今日は平和な一日でしたよ」と答えた。
実際彼の体には傷ひとつないし、本人も「なかった」ときっぱり言い切っている。それでも違和感を拭えなかった。
家に帰りつき、手洗いとうがいを済ませるように言い、彼が洗面所へ向かうのをひっそりと後ろからついていき、死角か様子を覗き込む。
なにやら首を左右に動かして周りに人がいないかどうかを確認しているようだ。
ズボンのポケットから四つ折りにした紙をこっそりと取り出して開いているのを「なにをするんだろう?」と注目していると、彼はいきなりそれを破りはじめた。びりびりになった紙を、蓋のついたゴミ箱の中に手を突っ込んで捨てた。
その後、通常通り石鹸を使って手を洗いだしたところで、少女は物音を立てないよう静かに、リビングへと向かう。
台所に立ち夕食を作り、彼が食べて一服したのを見計らい「今日はお風呂にひとりで入れる練習をしてみましょう」と促す。服が脱げるかどうを見てやり、彼が風呂場へと入るとすぐに少女は、ゴミ箱の中身を回収した。自室の勉強机の引き出しからセロハンテープを取り出し、急いでつなぎ合わる作業へと取りかかる。
すると「夕涼み会のお知らせ」と書いてある浴衣姿の幼児のイラストが描かれたフライヤーが、姿を現した。彼女は溜め息を吐きながら、またかと呟いた。
少年が、父兄参加の催しについて書かれた紙を破る捨てるのは、今回が初めてではなかったからだ。
こんなものを破り捨てても、連絡帳を見れば先生からの言葉が書いてある。また、それを確認しない親のことを考慮して、メールで連絡が回ってくるようになっているのだ。
そのことを少年も知っているはずなのに、それでも嫌なのか……と彼女は溜め息を吐いた。
親だけでなく祖父母や兄弟、親戚もやってきて楽しそうにしている子だっている。なのに、自分の両親は一度も姿を現してはくれない。参加してくれない。そういう子どもたちが他にもいたりするのだが、彼の場合はそれを毎度いじめっ子に指摘されるというのがお決まりだった。
――愛し合って結婚し、幸せな家庭を築こうと誓いあった二人が、仕事が忙しいことを理由に子どもの催しに参加しようとしないことになんだか悲しくなった。
だが、大人には大人の事情というものがある。仕事をしなければ生活が成り立たなくなり、大切な我が子を養っていくことができなくなってしまうのだ。汗水流して時には、命を削るような無理をしてまで働いてしまう。
その意味を、まだ大人になりきれていない未熟な子どもには、到底理解することができなかった。むしろそんな両親に憤りやすら感じていたぐらいだ。
自分さえいなければ、目の前の少年はもっと幸せになれたのじゃないかと悪魔の囁きが聞こえ、頭を振ってその考えを外へと追い出す。少年が「お姉ちゃん出たよー!」と声を上げているのに返事をし、階段を下りながらどう話を切り出そうか、考える。
濡れ鼠のようにびしょびしょのまま出てきた弟に「そんなんじゃ、風邪引いちゃうわよ? ちゃんと拭かなきゃ駄目でしょ」と口を酸っぱくして言い聞かせてがら、ふわふわと柔らかいタオルで拭いてやった。くすぐったそうに身を捩るのを軽く注意して、ドライヤーの温風を当て手櫛で髪を梳いてやる。
完全に乾いたところで電源を切り、単刀直入にフライヤーの件を尋ねてみた。そして話は冒頭へと至る。
※
『……剣路くんがね、麻衣子先生が大ちゃん家のママとお話してる時に、パパもママも来ないのは変だ。お前は嫌われてるんだって言ってきたの……嘘吐いてごめんなさい』
やっぱり。また、あのガキがいらないことを吹きこんだのか。
意地悪そうな目つきをした憎らしい子どもの顔が浮かんできて、少女のこめかみがひくひくと引きつった。それを理性で無理矢理抑えつけながら、極力優しい口調でしゃべるように心がける。
『良い子。ごめんなさいが言えて、えらいわ。でも剣路くんったら嫌ね!』
『……どうして?』
『だって、なにも知らないのに夏樹がパパやママから嫌われてるなんて言うんだもの。あのね、パパもママも赤ちゃんがほしいなって、ずーっと願ってたのよ。そして産まれたのが夏樹、あなたなの。せっかく我が家にやってきてくれた子を、嫌うわけがないじゃない!』
『そう、なの……?』
『もちろん、そうよ。お姉ちゃんはあなたが産まれた時パパとママが大喜びしてる姿を、ちゃんとこの目で見てるもの。それに、私があなたに嘘吐いたことなんて、あったかしら?』