第一部 溢れ出る想い
形相を変えるヨーザを尻目に、イーデンは慇懃に礼を返し、そのまま王子の後を追った。
血筋を疑われたまま兄王子から主連となるよう求められ、王子はどれほど傷ついたことだろう。
無念に身を慄かせ、逃げるように去って行った王子の心中を思うと、やり切れぬ口惜しさに王子を追う足取りは自然と早くなる。
だが、求める王子の姿は、宮のどこにも見当たらなかった。
焦慮を抑え、近くにいた馬丁を問い質すと、王子はいつになく興奮した面持ちで馬を駆っていかれたと、尋常ならざる答えが返ってくる。
それを聞いた瞬間、自分の顔色が変わるのがイーデンにはわかった。
それは一つの予感だった。
王の行為に傷付き、乱れた心のまま馬を駆ったムーランの姿が、傷付いて宮を飛び出した王子の姿と交錯する。
イーデンは鞍を付けるのももどかしく、一頭の牡馬に跨った。そのまま鞭をしならせて、一心に王子の後を追う。
王子はどこに向かったのか。
一人になれるイーズの森か、あるいは……。
林をもう少しで抜けるという辺りで、イーデンはようやく望む王子の姿を見つけた。
「王子……!」
思わず呼びかけた己の軽挙さを、次の瞬間、イーデンは痛いほどに思い知る。
声に振り向いた王子が顔を強張らせ、いきなり鞭を一閃させたからだ。
「王子……ッ!」
一瞬の事だったが、王子の頬が涙で濡れていたのをイーデンは見てとった。
無様に泣く姿を、おそらく王子は見られたくないのだろう。
だが、その行為は余りにも危険だった。
足場の悪い林の中を、王子は闇雲に馬を疾走らせていく。
イーデンは形相を変え、声高に王子を呼んだ。
「なりませぬ!お待ちください、王子……ッ!」
鋭い声を放った時、足を縺れさせた王子の馬が大きく傾いだ。
魂を裂く苦痛の叫び声が、はからずもイーデンの喉から迸り出た。
イーデンの目の前で王子は落馬した。
大きく弧を描き、頭から地面に叩きつけられて……。
悪夢のような光景だった。
まるで十八年前の悲劇を再現させるかのように、乗り手を失った馬が鋭い嘶きを空に響き渡らせる。
イーデンは馬から飛び降り、夢中で王子に駆け寄った。
「王子……ッ!」
傍らに跪き、ぐったりした王子の体を膝の上に抱いた。
震える手で頬をまさぐり、何度も何度も王子を呼ぶ。そうすれば、黄泉から魂がさまよい戻ると信じているかのように。
「王子…!王子……ッ!」
と、不意にその瞼が開かれた。
宝玉を思わせる稀有な双眸が、真っ直ぐにイーデンを捉え込む。
「お、うじ……?」
肩で喘ぎ、迷うように呼び掛けたまま、イーデンは絶句する。
死人のように青ざめたイーデンの様子に驚いたのはむしろ王子の方で、王子は澄んだ翠玉の瞳を和らげると、激しく取り乱すイーデンの頬にそっと手を伸ばしてきた。
「大丈夫だ、イーデン…」
細く冷たい指先が、イーデンの頬を静かに撫で上げていく。
「私は無事だから…」
その瞬間、イーデンの心を雷のごとくうち貫いたものは何であったのか。
「ああ……」
愛おしさと激情がもの狂おしく心を突き上げる。
惑い、乱れる心の内で、この方にもしものことがあれば生きてはいられないと、ひたすらにイーデンは思い詰めた。
溢れ出る想いに耐えかねて、イーデンはそっと上体を傾ける。
「イーデ…」
言葉はイーデンの唇に塞がれた。
息も止まるほどに驚き、王子は呆然とその行為を受け止める。
…やがて触れ合わせただけの唇がそっと離れた時、王子は夢とも現ともつかぬあやふやな眼差しで、視界から遠ざかる艶やかな銀髪の向こう、ただ高く、無辺際に広がる澄み渡った空の青さだけを追っていた。
自分の身に何が起きたのか思い巡らす余裕もない物慣れぬ王子の様子に、イーデンは雄の本能を掻き立てられる。
同時に、この方を一生間近に仰ぎ、守りかしずきたいという、鮮烈な覚悟にも似た思いにも…。
魅入られていく魂の迸りを、イーデンは隠そうともしなかった。
熱の籠った眼差しで皇子を強く絡めとり、自分が何を望んでいるかを殊更見せつけるように、ゆっくりと王子の唇に親指を這わせる。
眼差しが絡み合い、やがって苦し気な吐息が王子の唇をか細く割り開いた時、イーデンはゆっくりと体を沈めていった。
拒もうと思えば、拒めるだけの余裕を王子に与えて。
王子は怯えたように身を強張らせたが、それも一瞬の事だった。
さざめく想いを刹那の躊躇いに変え、王子はゆっくりと瞳を閉じた。
静かな静寂が木立を満たした。
どこか遠くで、百舌鳥が鋭く舞い立つ音がする。
僅かな時間であったのか、それとも長い時が流れたのか。
林をざわめかせる人の気配にイーデンは夢から覚めたように身を起こした。
瞳を彷徨わせ、息を乱して髪をかき上げる端正な面には、日頃の冷静さの欠片もない。
イーデンは焼けつくような鼓動の熱さを抑えきれぬまま、木立の向こうに目を凝らした。
自分を探しに来た従者だろうと王子は思った。
馬を駆る重い地響きの音を、風の気配で皇子は捉えていた。
「釦を嵌めてくれ」
天を仰いだまま、皇子は静かに命じた。
襟元から覗く柔肌は薫るほどに上気して、忘我の爪痕を残しているのに、王子は声音に露ほどの乱れも許さない。
それでも、無防備に介添えを許す姿はひどく頼りなく、イーデンは震える指をそっと釦に伸ばした。
緩やかに瞳を伏せた王子の息を呑む美しさに、今更ながらに鼓動が跳ね上がる。
濃厚な情事なら腐るほど経験している筈なのに、何故か今ばかりは弾む息を抑えられなかった。
乱れた心のまま、王子の服に着いた枯れ草を払い、その間にも木立を駆けてくる蹄の音は見る間に近づいてくる。
「申し訳ありませんでした」
助け起こした時にそう言葉をかけたのは、イーデンにとって格別の意味を成すものではなかった。
強いて言えば、劣情のままに上衣の釦に手をかけ、その肌に口づけたことへの後ろめたさと言えるだろうか。
だが、それを口にした途端、王子の空気ががらりと変わった。
驚愕に瞠られた瞳に一瞬の悲痛が揺らぎ、やがてそれは剣呑な冷笑へと染め上げられる。
「謝るな。謝罪など要らぬ」
イーデンは自分の不用意な発言が王子に誤解を与えた事を知り、慌てて腕を掴み寄せた。
「私は今の行為を後悔してはおりません」
「放せ、イーデン!」
王子の言葉には怒気があった。
「もし貴方が誰かの主連になるのを見るくらいなら……」
命に応じ、王子の腕を解きながら、イーデンは静かに言葉を継いだ。
「いっそ貴方を誰の目にも触れさせぬ場所に監禁してしまおうか…」
「な……」
不穏を孕む言葉に、王子はぎょっと目を剥いた。
「あんな男に汚されるなど、許せる筈がない」
イーデンは低い声で言い切り、劣情の混じるその凄絶な笑みに、王子は言葉を失った。
何か答えようとするのに、思う言葉が見つからない。
狼狽するまま言葉を探していると、その頃になってようやく追いついた従者らが、息を切らして二人の元にやってきた。
「王子、お怪我は……!」
イーデンは黙って王子から目を逸らせ、その様子を目で追っていた王子は小さな吐息をついた。
どこか不貞腐れたようなイーデンの表情に何故か心が凪ぎ、従者を見返す王子の口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「案ずるな。怪我はない」
従者の一人が、近くで草を食んでいた王子の馬を引いてきた。
王子は愛馬の鼻先をいたわるように一撫ですると、しなやかに騎乗した。
「宮に戻る」
王子はイーデンの方を一顧だにしなかった。
その姿がみるみる遠ざかり、小さくなっていくのを、イーデンは黙って見送った。