第一部 王の意
いつの間にか空全体を覆っていた暗雲は薄らいで、周囲は日中の明るさを取り戻し始めていた。
雨も上がり、白い雲の合間から陽も差し始めたようだ。
だがイーデンは、まだこの洞窟から出たくなかった。ここを出てしまえば、自分はまた王子の心を見失ってしまう気がした。
「昨日の…陽の王の使者は何と言ってこられたのです?」
唐突な、けれど確信をついてくるイーデンの問いに、王子は身を固くした。
ふいと視線を逸らせた表情の硬さから、この件には触れて欲しくないと王子が心底望んでいるのが感じられる。
だがイーデンは、このまま事をうやむやにする気はなかった。今でなければ、王子の心を自分に開かせる事はできないとわかっていたからだ。
「王子…」
無意識に逃げを打とうとする王子を、イーデンは無理やり自分の方に振り向かせる。
王子はなおも躊躇うように視線を彷徨わせたが、イーデンの気迫に気圧されたものだろう。渋々と言った面持ちで口を開いた。
「来年になれば、私はムーランと同じ十八になる。十八で時止めをするよう、王が強く望まれたそうだ」
「馬鹿な…」
思いもかけぬ言葉に、イーデンは絶句した。
「無寿の者は、焔の降寿を二度やり過ごしてから洗礼を受けるのが常ではありませんか。
貴方はまだ一度しか降寿をとばしていない。
何故今、時を止める必要があるのです!」
「次の降寿まで待てと言うのか」
王子は乾いた声でこれに答えた。
「次の降寿まで、あと十四年もある。その時には私は三十一だ。お前は私が三十を過ぎた姿を見たいのか?」
思わぬ返答に、イーデンは今度こそ答える言葉を失った。
王子が自分の年を越えて三十一になる…。
考えただけで、イーデンは胸の奥がざわめいてくるのを止められなかった。
そのような姿など見たくなかった。
王子にはいつまでもこのままの姿でいて欲しい。しなやかな若さと魂を魅了する美貌のまま、いつまでも自分の傍らにいて欲しい…。
だがそれを口にすることは、許されなかった。そう願えば、王子の寿命を一年寿、十八年も短くしてしまうことが明らかであったからだ。
イーデンは苦しそうに瞳を逸らし、はぐらかすように別の問いを口にした。
「教えて下さい。王の真意はどこにあるのです。まさか貴方を守陽に望まれておいでなのですか?」
「違う」
王子は言下に否定した。
「皆がどう噂しようと、私は形の上では陽の王の御子だ。
ムーアでは兄妹間の結婚は許されているが、親子で契れば神の怒りを買う。王子の私を守陽に据えるなど、さしもの王にも許されない。
王はただ、ムーランの面影を私の中に見たいだけだろう。私は清月妃よりも色濃く、ムーランの面立ちを引き継いでいるから」
かつてのムーランの姿そのままに、陽の王の傍らに並び立つ王子。
その光景を思い描いただけで、イーデンは自分でもたじろぐほどの激しい妬心に襲われた。
あれほど寵愛し、執着したムーランに酷似するこの王子を、陽の王はいつまで手付かずに放っておけるだろうか。
イーデンは王子を陽の王の下に行かせたくなかった。
もし王子が十八で時を止めるにせよ、それが王の願い故であって欲しくなかった。
「貴方はこのお話をお受けするつもりなのですか?」
イーデンは硬い声で問いかけた。
王子は瞳を落とし、吐息と共に答えを吐き出した。
「多分……」
それから数日もしないうち、王子の美貌に目を止めたのが王だけではなかったことに、イーデンは気付かされる事となる。
今まで王子に目もくれなかった異母兄のヨーザが、唐突に王子の宮を訪れたのだ。
宮に仕える従僕たちは、ヨーザ王子の突然の来訪に慌てふためいた。
母妃の生家の格も高く、陽世継ぎの第一候補とも目されている第二王子に、万が一の非礼があってはならない。
ようやく我が王子にも陽の光が差し始めたと素直に喜ぶ宮人らとは対照的に、兄王子を迎える王子の表情は硬かった。
この華やかな兄王子が何のために自分を訪れたか、その理由を嗅ぎ取っていたせいかもしれない。
「兄上はお帰りになる!門まで送って差し上げろ!」
らしからぬ怒声に急ぎ参上してみると、王子は恥と怒りに身を震わせて、前面に立つ兄王子を睨みつけていた。
「王子…?」
怒りに身を震わせる王子とは裏腹に、見返すヨーザの眼差しには、捕まえた獲物をいたぶるような陰湿な残忍さが透けていた。
「お前は少し、自分の立場を弁える事だ」
ことさらゆっくりと顎をしゃくり、ヨーザは言葉を続ける。
「今はまだ形ばかりでも王族を名乗っているからいいようなものの、只人ともなれば、お前が内心見下しているような輩にも気安く声をかけられるようになろうぞ。
私の手を取れ、ユーディス。お前の美貌にふさわしい財と権力を私が与えてやろう。
王家の血が流れずとも、お前は十分に………」
「出自の卑しい弟に、憐れみをかけて下さるおつもりか?」
ヨーザの言葉を、王子は切りつけるような声で遮った。
「私は王の御子だ!誰が信じまいと、神だけは真実をご存じだろう!」
その烈しさにイーデンが息を呑む間に、王子はヨーザを押し退けるように回廊に走り出ていた。
イーデンは呆然とその後姿を見送り、やがて呻くように声を絞り出した。
「何という事を………」
ようやく声が出せるようになった時、憤怒の余り立場さえも忘れて、イーデンは第二王子に詰め寄った。
「王も認める実の弟君を、ご自身の主連に望まれる気か!」
「おい、勘違いするなよ、トロワイヤ」
イーデンの怒りを、ヨーザはむしろ面白がった。
「ユーディスを王族から外し、臣下に降ろすとお決めになったのは他ならぬ王ぞ」
「まさかそのような事が…!」
「後ろ盾のない宮家がどれほど困窮を極めるか、お前とて聞き知っておろう。
形ばかりの宮家を名乗らせるより、臣下に下って仕えた方が余程まともな暮らしができる。王の御決意は、いわば、それを願う故の親心さ。
つい数日前、王からの使者が宮を訪れた筈だ。十八で時を止めて臣下に下れとな。
そしてそれは、清月妃たっての願いだとも聞いた。
それともお前、清月妃から何も聞いていないのか?」
棘を含んだ最後の一言に、イーデンの顔からみるみる血の気が引いていく。
三日前に会った清月妃は、翳り一つない笑みで自分を嬉しそうに宮に迎え入れた。
その日の清月妃の関心は、専ら、来月開かれる花曇り(はなぐもり)の宴にあり、常のごとく皇子については一切触れようとしなかった。
だが、有寿の儀と共に臣下に下れなどと…。
これほど大事な事を、清月妃は何故、直接王子に会ってその意を確かめようとしないのか。
王子にもたらされたのは、王の意を伝える口上の使者だけだった。
それが子を思う故の究極の選択であったとしても、せめて自分の口で伝えてやる事こそが、親として最低限の愛情と誠意である筈なのに。
言葉もなく立ち竦むイーデンを嘲笑うように、ヨーザは自分の顎の辺りを撫ぜた。
「まあいい。立場が分かれば考えも変わるだろう。
また来ると伝えておいてくれ」
ヨーザは王子に圧力をかけてくるつもりだ。
理由もなく、イーデンはそう確信した。
どれほど血筋を疑われようと、王族であればこそ品位や面目を保ってこられたという事実が、そこには紛れもなく存在する。
だが、臣下に落ちてしまえば、王子は身を守る術を一切持たなくなるだろう。
……只人ともなれば、お前が内心見下しているような輩にも気安く声をかけられるようになろうぞ。
王子に向かって投げ付けられたヨーザの言葉が、今更のようにイーデンの胸を深く抉る。
単なる脅しではなく、それが真実であることをイーデンは知っていたからだ。
あの方の矜持をこれ以上貶めてはならないと、イーデンは心に呟く。
胸に凝った哀しみを静かに湛え、尚も誠実に面を上げ続けてこられたあの方を、これ以上汚し、貶めるような真似は決して……。
それは一つの決意だった。
もしかすると、それはすでに揺るぎない覚悟として、イーデンの心に根付いていたのかもしれないが。
「お待ち下さい!」
気付いた時、イーデンはヨーザを呼び止めていた。
「ヨーザ王子。王子は臣下には降りられないでしょう」
「何……?」
ヨーザがぎろりとイーデンを睨みつける。
その眼差しを傲然と受け止めて、イーデンは静かに言葉を返した。
「王子の後見は、トロワイヤ家が致します。
このトロワイヤが後ろ盾に着く限り、六の王子に不自由な思いなど一切させは致しません」