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第一部 陽王の血脈

 苦い汁が口の中に流し込まれた。

 イーデンは夢現ゆめうつつのままその苦みから逃れようと身動みじろごうとしたが、口を塞ぐ温かな唇はそれを許さなかった。


 痺れるような苦さが更に口の中に流し込まれ、イーデンは咳き込みながらゆっくりと意識を取り戻していく。


「ああ…」

 焼け付く苦さが喉元を滑り落ち、臓腑へと染み込んでくようだ。


 石のように重い瞼を振り絞るようにこじ開けると、誰かが覆い被さるように自分を覗き込んでいる事にようやく気が付いた。

 今まで見た事もないような険しい眼差しで自分をじっと見つめているのは…。


「おう、じ…?」


 驚いて上体を起こそうとするイーデンを、王子はそっと押し留めた。

「まだ動くな。無理をするんじゃない」


 イーデンはぼんやりと王子の顔を見つめ返した。ここがどこなのか、王子が何故ここにいるのか、全くわからない。


「な、ぜ……?」

 必死に言葉を絞り出そうとするのだが、喉の奥がまだ痺れていて、思うように声が出せなかった。


 そんなイーデンを王子は厳しい表情で追っていたが、やがて温もりを確かめるようにイーデンの頬にそっと手を添えてきた。


「死の霧にまかれたんだ。まさかお前が私を追って谷に入り込むなど、考えてもいなかった。

 何故、あんな無茶な真似をした!お前が倒れ込む姿を見た時は、私はもう駄目かと…!」


 その時の恐怖を思い出したのか、王子の声が小さく震える。

 イーデンは手をゆっくりと持ち上げて、頬に触れる王子の手に掌を重ね合わせた。



 これほどに動揺した王子の姿を見るのは初めてだった。それが自分の身を案じて故なのだと思うと、嬉しさと誇らしさに胸が熱くなる。


 大切だと今まで言葉に出して言われた事はなかった。王子の傍らにある事を自分が望み、王子はただ、それを許していたというだけだ。


 このまま穏やかに年を重ねる事が出来ればそれだけでいいと思っていたのに、思いを伝えられる事がこれほどにも魂を揺さぶらせるものであったとは思いもしなかった。


 イーデンは瞳を閉じ、胸に込み上げてくる想いを必死に呑み下した。

 頬に感じる王子の温もりが、ただひとえにいとおしい。



 やがてゆっくりと辺りを見渡したイーデンは、この場所が洞窟の中であることにようやく気が付いた。

 ぽっかりと空いた洞口の向こうに、雨にけぶる木々がぼんやりと霞んでいる。


 いや……。

 イーデンの顔からすっと血の気が引いた。

 雨だけじゃない。白くうっすらと視界を染め上げているあの霧は……。


「霧が…!」

 イーデンは王子の制止も聞かずに跳ね起き、次の瞬間には激しい眩暈を覚えて倒れ込んだ。

 割れるような頭痛にイーデンは呻き、そんなイーデンの頭を慌てて王子は胸に抱き寄せる。


「ここまでは来ない。案ずるな」


 その声音には、全幅の安心を誘う確かな何かがあった。

 イーデンは痛みに息を弾ませたまま、寂然じゃくねんたる谷あいにもう一度目をやり、それから疲れ切ったように瞳を閉じた。



 霧を縫って降りしきる音ともつかぬ雨の気配が、静かな洞窟を満たしている。


 イーデンは王子に頭を抱かれたまま、静かに問い掛けた。


「口の中が苦い。何を飲ませたんです?」

 王子は声もなく笑ったようだった。


「竜飢湯の散薬だ。水嚢と一緒にいつも持たされている。

 水を減らした水嚢にありったけの薬を入れて振り混ぜたら、思った以上に苦い汁ができたようだ」


「ああ、なるほど」

 イーデンはため息をついた。軽い解毒作用のある薬で、その苦さは天下一品だ。


「まだ、口の中が痺れるようです」

「文句を言うな。私も苦かったのだぞ」


 王子の言葉に、イーデンは弾かれたように顔を上げた。

 柔らかな唇が自分の口を塞ぎ、苦い汁を飲ませてくれたことを、今更ながらに思い出したのだ。

 あれは王子だ。膝の上に頭を抱き、口移しで飲ませてくれた……。


 イーデンは波打つ感情を悟られまいと、そっと瞳を伏せた。

 王子の優しさが触れ合う肌先から伝わってくる。こんな風に腕に包み、安らがせたかったのは自分の方なのに、これではまるで立場が反対だ。


 イーデンはそんな自分をおかしく思いながらも、離れがたい思いに駆られて、王子の温もりに黙って頬を埋めた。



 やがてイーデンはぽつんと口を開いた。

「出口は一面霧で覆われていますね。奥に抜けられるでしょうか」


 王子は一瞬言い淀んだ。

「その必要はない。雨が止んだら、すぐにでも出よう」


「雨が止んだら…?」

 イーデンはぼんやりとその言葉を反芻した。

「それはどういう意味です?」


 王子はしばらく無言だった。死を誘い込む白い霧の乱舞を、静かな目で見つめている。


「ここは元々死の霧で覆われた場所だ。今この場に霧がないのは、ここに私がいるからだ」


「え……?」


「死の霧は、私には絶対に近付かない。だから何も案ずることはないんだ」


 イーデンは王子の言葉が理解できなかった。の王に、そう言う特異な御力があることは聞き知っているが…。


 あ……。

 不意に思い当たる節に気付き、イーデンは大きく目を見開いた。


「お前も思い出したか。王家には稀にこういう変わり種が生まれるらしい。尤も有寿になれば跡形もなく消え失せる微弱な力らしいがな」


 淡々と言葉を紡ぐ王子の冷めた横顔を、イーデンは呆然と見つめるしかなかった。


 確かに王子の言う通りだった。王家直系の無寿には、時折、神の気紛れのように神秘の御業みわざを与えられし者がいる。


「いつ頃お気づきになったのです?」

 平静に問い掛けたつもりなのに、我知らずイーデンの声が上ずった。


 王子は吐息を零し、霧の向こうを静かに眺めやった。

「お前が来る、少し前かな。ムーランが眠っている谷が見たくて、こっそりここに来たんだ」


 おそらく、王子は逆らい難い死の誘惑に駆られ、この地に足を踏み入れたのだろう。だが、王子の思惑は外れ、ついの谷は王子に安らかな終焉をもたらせはしなかった。


「…初めて会った時から、貴方はご自分が正しく王の血筋を引く者だと知っておられたのだ」


 イーデンの脳裏に、初めて王子と口論したあの日の事がまざまざと蘇る。

 不当な非難で心を傷つけられた王子は、清月妃を貶める言葉をわざとイーデンに叩きつけた。清月妃は王の寵姫でありながら、不義の子を産んだ、と。


 あの惨い言葉を言わせたのは自分だった。あれはご自身をも傷つける諸刃もろはの刃であったのだから。


 イーデンが後悔に唇を噛んだ時、王子がふっと顔を上げた。

 王子もまた、当時の事を思い出したらしい。


「ずっと前に、お前の前でわざと清月妃を侮辱したことがあったな。

 あの時は済まなかった。少し感情的になっていたんだ」


 先に謝罪されて、イーデンは弱り切ったように首を振った。

「謝るのは私の方です。あの場ですぐに頭を下げるべきだとは思ったのですが」


「そんなことをしたら、私は絶対にお前を許さなかっただろう」


「私も…そう思いました」

 情けなさそうにそう白状すると、王子は低く笑い出した。


 楽しげに細められた瞳が、過去を懐かしむように深い色合いを帯びる。

 そんな王子を心から愛おしく思いながら、イーデンはやや表情を改めて、聞くべき問いを唇に乗せた。


「ご自身の血筋に疚しいところはないと、何故皆にあかしされないのです?」

 イーデンの問いに、王子は笑みを陰らせ、一瞬言い淀んだ。


「…どのようにあかししろと?

 時々、終の谷を彷徨さまよっているとでも…?


 ここは清浄の地だ。用なく入り込む自体、許されていない」


「では、清月妃には?

 あの方にはお知らせになったのですか?」

 王子は小さく首を振った。


「そうする必要がどこにある。あの方はとうにご自身の潔白を知っておられるのに」

「けれど…」


「私が何を言おうと、あの方の心は救えない。かえってあの方の心の傷を深めるだけだ」

 反駁はんばくしようとするイーデンを、王子は悲しそうにそっと制した。


「イーデン、私がどれほど清月妃の力になりたくても、私ではだめなんだ。倦んだ清月妃の心をどうして差し上げる事もできない。

 王ですら、あの方の貞節を信じておられぬのだから」


「まさか」

 イーデンはあり得ないと首を振った。

「王は信じておられる筈です!でなければ、あれほどの寵愛を清月妃にお与えになる筈がない!」


「分からないのか、イーデン」

 もどかしげに、皇子は瞳を眇めた。


「清月妃が不貞を働いたと信じる方が、王には楽なんだ。

 むしろ信じたがっていると言ってもいいだろう。

 何故なら王は、誰よりも大切な守陽しゅようを自らの不貞で死に追いやったのだから。


 戯れの恋を繰り返し、徒に守陽を苦しめた事を、今も王はあの時と同じ強さで悔やんでおられる。

 守陽の魂を黄泉から呼び戻せぬのならばせめて、同じ苦しみを味わい、同じ煉獄れんごくに身を置きたいのだ。

 そうすれば少しでも、罪の呵責かしゃくから逃れられるから」


「しかし、それでは…」

 イーデンは辛そうに言葉を切った。

「清月妃はそれをご存じなのですか?」


「ああ」

 王子は寂しげに頷いた。

「だからこそあの方は、深い闇のような孤独から必死に抜け出そうとしておられる」


 イーデンは返す言葉を知らなかった。


 すべてはムーランの死から始まったのだ。守陽を失った王は心の平衡を失い、人としての道を外してでもその妹の身柄を欲した。


 だがイーデンは、そんな清月妃の事をもはや一方的な被害者だとは思えなくなっていた。

 清月妃は確かに不幸な方なのかもしれない。だが一方で、眩いばかりの王の寵愛を受け、ムーアの輝ける寵姫となっている事もまた事実なのだ。


 父王から我が子と認められない王子の寂しさを、清月妃は何故思いやろうとしないのだろう。

 すべてを知ってなお母を赦し、守ろうとする王子の心根の方が、イーデンにはもっと辛く哀しいものに思えた。



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