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第一部 過ぎゆく日々

 その後イーデンは、その日の事について一切触れようとしなかったし、それは王子についても同様だった。

 二人は互いの思いを胸に秘めたまま、何事もなかったように日々を紡ぎ、相変わらずイーデンは王子の傍にいた。



 王子は十六になっていた。

 初めて会った時のいとけない面立ちは影を潜め、代わりに憂いを秘めた気怠い美貌が王子の面差しを彩るようになっていた。


 唐突に王子に声を掛けられた従僕が、その美しさに気圧されたように口ごもるのを、イーデンは何度か目にしたことがある。

 それほどに、王子の美貌は際立ち、清雅な気品を咲かせていた。



 とはいえ、王子の周辺は何ら特別な変化も見せていなかった。他の王子、王女らのように宮を訪れる貴子とておらず、宴一つ執り行われる事もない。

 王の寵姫を母に持ちながら、信じられないほどうら寂しい境遇だった。


 現在、アクヴァル王には六人の王子と二人の皇女がいる。

 六人の王子の母親はすべて違う月妃で、次代の王となる陽世継ぎはまだ確定していない。


 一般に、陽世継ぎは王が五寿か六寿の頃に定まるものだが、未だいずれの王子も神の託宣を受けておらず、権力の流れは不透明だった。



 イーデンは貴子の務めとして社交を欠かさなかったが、他の貴子らと交われば、必ずといっていいほど王族の話題が出た。


 内輪の宴などで、月妃や王子王女が一堂に会する事もあるようだが、そんな時、彼らは皆、末王子をあからさまに無視するのだという。


 王子の母妃が、陽の王の寵愛を一身に受けている事への羨望や反発もあっただろう。

 だが何より王子は、同じ陽の王の血を受け継ぐ御子だと、兄姉たちから認められていなかった。


 末王子を貶める噂はそこかしこで口にされていたが、イーデンは少なくとも自分の前では、その話題は避けて欲しいと周囲に告げていた。


 清月妃が悲しまれるような話題は口にしたくないとさらりと告げると、イーデンの家柄を考えた貴子らは、賢明に口を閉ざしてくれるようになった。



 王子は宮中でどんな扱いを受けていたにせよ、それについて恨み言を言ったり、不満や愚痴を零すことは一度もなかった。

 王子は現実を淡々と受け入れて、自分に仕える者たちにも月妃や兄姉の陰口を叩くことを許さなかった。


 王子の宮に仕える者は栄達を望めぬ低い出自の人間ばかりであったが、彼らは皆、そうした王子の誠実な優しさや心根の気高さを理解し、静かな敬愛を王子に注いだ。




 穏やかに凪いでいく日々が、末の王子を優しく包んでいた。


 そしてイーデンもまた、静かな流れに身を任せ、社交以外で自分に許された時間のほとんどを、王子と共に過ごすようになっていた。

誰に命じられたわけでもない。そうすることがイーデンにとって一番自然な事だったのだ。


 イーデンは相変わらず清月妃と会っていたが、以前は心待ちにしていたその謁見を、いつしか気重に感じるようになっていた。


 王子はひと月に一度しか母妃と会っていないのに、自分はそれ以上に回数が多い。

 その事がひどく後ろめたく感じられるからだ。



 清月妃はイーデンと会えるのを心待ちにしている事を、今や隠そうともしなくなっていた。

 宮中での出来事を面白おかしく話したり、イーデンの幼い頃の話を懐かしく口にしたりする。


 不思議な事に、そうした会話の中に王子が登場することは全くなかった。イーデンの方から話を振ってみても、清月妃はすぐに興味を失ったように話を変えてしまう。


 清月妃の中では、王子はまるで最初からいない人間であるようだった。


 初めの頃こそ、そんな清月妃の態度に優越感を覚えていたイーデンだが、王子の人柄を知るにつれ、母のそうした態度に苦痛にも似た苛立ちを感じるようになってきた。



 その苛立ちは、王が公務で都を離れる事が急に決まった時、機会を待ち侘びていたように清月妃が誘いの使者をイーデンに寄越した事で、頂点に達した。


 五日前、王子は十七の誕生日を迎えていた。

 だがその喜ばしき日に、祝いに訪れる貴子は無論のこと、父王や清月妃からも祝いの言葉一つ届く事はなかったのだ。


 イーデンはその時初めて、清月妃に対して苦い怒りを覚えた。

 その顔を見て、一日過ごす事には耐えられないと思った。


「その日は王子と遠乗りの予定がある」

 イーデンは素っ気なく、清月妃の女官に告げた。


 拒絶されるとは夢にも思っていなかった女官は、怒りに頬を紅潮させた。

「王子に従う者ならいくらでもいるでしょう。貴方一人が抜けられても、何ら支障はないと存じますが」


 出過ぎた言葉だ…とイーデンは思った。

「とにかくその日は行かれない。清月妃にはそう申し上げてくれ」




 翌日、イーデンは朝一番に王子の居室に呼び出された。

「イーデン、明後日の遠乗りは中止だ」


 あり得ない言葉に、イーデンは驚いて王子の顔を仰ぎ見た。

 誘いを断る口実に鷹狩りを口にしたものの、元よりそんな予定はなく、今日あたり王子を誘ってみようと漠然と思っていたところだったからだ。


「誰からお聞きになったのです?」

 イーデンは瞳を眇め、探るように王子を見つめた。

 清月妃付きの女官が、わざわざ王子のところまで注進に及んだという事なのだろうか。


「お前は……」

 イーデンが本気で驚いている様子を見て、王子は困ったように微苦笑した。


「王宮の事は何も知らないんだな。

 このような事、教えてくれる者はいくらでもいる」


 イーデンは自分の顔色が変わるのを感じた。

 最初から何もかも知っていたのだと……、王子はそう言うつもりなのだろうか。


 と、そんなイーデンの動揺を、王子はむしろ不思議そうに眺めやった。

「私が知っていたというのが、そんなに大層な事なのか?この宮に住まう者ならば、誰でも知っている事だ」


「誰でも……」


「清月妃はお前と会いたがっているし、お前もそうだろう。別段悪い事ではないんだ。

 今までそれを止めた事はないし、これからも止めようとは思わない」


 イーデンは王子の真意が理解できなかった。


 動揺を刷く眼差しを床に落とし、イーデンは乱れる心のままにその問いを口にする。

「貴方は……それで平気なのですか?」


 それは口にしてはならない問いであったが、イーデンはそう尋ねずにはいられなかった。

 途端に王子は、不快そうに唇を引き結んだ。


「同情は要らぬ。私は以前お前にそう言った筈だ」


 いつにない剣呑な口調にイーデンははっと体を強張らせたが、王子もまた自分の言葉が過ぎたとすぐに気付いたのだろう。

 軽い吐息を一つ漏らすと、穏やかな口調で言い添えた。


「お前はよくやってくれている。変な気は回さぬ事だ。

 清月妃に会ってやるがいい」






 その日イーデンは朝から不機嫌だった。

 王子が供人の一人も連れず、朝から遠乗りに出掛けてしまったからだ。


 こんな風に行先さえ告げず、ふいといなくなることが王子には往々にあった。その日の気分次第で、朝露の抜けきらぬ早朝から一人で馬を駆って出かけてしまう。


 これが普通の時なら、イーデンもこれほど心配しないだろう。

 だが昨日、王の使者が王子を宮に訪れてから、王子の様子は明らかにおかしかった。深い物思いに沈み込み、イーデンが何を聞いても答えようとしない。


 今日こそ訳を聞いてみようと強く決意して来てみれば、王子はすでに出かけてしまった後だったのだ。


 朝のうちは晴れ渡っていた西の空が、だんだんと暗くなり始めている。重なる雲に光が遮られ、新緑に色づく庭園の木々が暗く染め上げられた。


 おそらく雨が来るのだろう。


 イーデンは手持ち無沙汰に書簡の整理をしていたが、昼前にはとうとう我慢も切れ、雨を口実に王子を捜しに行く事にした。

 この時期なら少々濡れたくらいで風邪を引く事もあるまいが、何より王子の様子が気にかかる。


 北に続く小径を抜け、シーズの林を半ば過ぎた頃、風がひんやりと湿り気を帯び始めた事にイーデンは気付いた。


 王子の姿はまだどこにもない。

 見る間に暗雲のたち込めていく西の空を険しく眺め渡しながら、イーデンは先程から心をざわめかせる不吉な予感に表情を暗くした。


 ここよりももっと遠いところだとすると、王子はついの谷へ向かったのだろうか。


 雨がぱらぱらと地面に降りかかり、谷へと急ぐ足元に無数の黒い斑点をつけ始めた。

 谷はすぐ間近だった。


 ようやく谷を見渡せる場所まで来ると、大きく枝を広げた青々とした木立の下に、イーデンは王子の馬を見つけた。

 生い茂った枝葉のせいで、馬は全く濡れていない。


 同じ木立に自分の愛馬の手綱を結わえ付けると、イーデンは眼前に広がる荒涼たる終の浄地を静かに眺め下ろした。



 終の谷は、一度だけ見た寒々しい記憶と少しもたがうことなく、うっすらと辺り一面を白い霧に覆わせていた。

 生きとし生けるものを永久とわの眠りに誘い込む、静けき死の御使いだ。


 十八年に一度、霧が晴れ渡るうるうの欠け月に、九寿の人々は自ら望んでこの谷を下る。

 谷が開かれるのは、夕暮れが西の空を染めてから闇に沈むまでのほんのひと時…。谷は突如、視界を開き、終焉を願う人々をその安らぎの御手の中に迎え入れるのだ。


 谷に下った民達がその後どうなるのか、それを知る者は誰もいない。

 十八年後の欠け月、再び谷がその荒漠たる大地を現す時、人々はそこに白骨化した遺体はおろか、人が足を踏み入れた形跡すらもない静かな谷を見る事になるからだ。


 一説では終なす大地が大きく割れて、木々もろとも死した民たちを飲み込むのだと言う。


 真実は誰にもわからない。卑小な人間が知るべきことでもないのだろう。それは神の領域に踏み入る真実であるのだから。


 イーデンは死と静寂が降り積もる白い浄地を見下ろして、ぞくりと身を震わせた。

 ここは面白半分に来るところではない。王子はおそらく、谷とは反対の岩山の方へ向かったのだろう。


 そのまま踵を返そうとして、イーデンはふと、逸らせた視線の端に何か赤いものを認めたような気がした。


 イーデンはじっと目を凝らした。

 木立の陰に隠れて良く見えないが、あれは…。


 次の瞬間、イーデンは鋭く息を呑んだ。あれは王子だ!死の霧にまかれて、意識を失ったのだ!


「王子…!」


 イーデンは尖った叫び声を上げ、霧に霞む勾配をまっしぐらに駆け下りた。

 足場の悪い岩肌を石を蹴り散らすように走り下りる体を、瞬く間に死を呼ぶ霧が包み込んでいく。


 なるべく息を止めてはいたがそれにも限界がある。まだいくらも駆けていないのに、視界が見る間にぼやけていき、胸苦しさに襲われた。


 イーデンはよろめき、突き出た岩に足を取られてそのまま転倒した。白い霧がいよいよ密度を濃くして、その周囲を取り囲んでいく。


「イーデン……!」

 意識を失う最後の瞬間、悲鳴のような王子の叫び声を確かに耳にした気がした。


 イーデンは瞼を開こうと僅かに抗い、力尽きてそのまま意識を手放した。




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