第一部 王子の孤独
王子への面会が許されたのは、その五日後の事だった。
自分にどう言い訳を並べ立てようと、イーデンは久しぶりに王子と会えることがどうしようもなく嬉しかった。
部屋に入ると、王子は背にクッションをあてがい、上体を起こしていた。微熱のせいか、翡翠の瞳は僅かに潤んでいたが、その眼差しには確かな強さが戻っている。
「お加減は如何です?」
気遣うように声を掛けるのへ、
「悪くない」
淡々と王子はこれに答えた。
「この程度の熱には慣れてる。案ずるな」
それでもシーツの上に力なく置かれた腕は一回りも細くなっているようで、イーデンには四日間の病魔の激しさを改めて思い知った。
「あの日は朝から具合が悪かったとお聞きしました。気付けずにご無理をさせ、申し訳なく思っております」
イーデンの謝罪に、王子は眉を顰めた。
「無理をしたのは私だ。お前が謝ることはない」
おそらく本心から言っているのだろう。
気怠く言い捨てる王子の横顔には何の感情も浮かんでおらず、そんなところにも一切の甘えを自分に許さぬ王子らしい剛毅さが垣間見えていた。
そんな王子をどこか好ましく見つめながら、イーデンはふと、あの日以来ずっと心に掛かっていたことをこの場で聞いてみる事にした。
「王子はいつも私を剣術の相手に指名して下さいますが、多少なりとも私を気に入って下さっているのでしょうか」
と、その瞬間、それまで穏やかに凪いでいた皇子の翡翠の瞳が、不意に剣呑な光を帯びた。
無遠慮な親しみを不快だと感じ取ったのかもしれない。
「テナーンが何か言ったか?」
「いえ」
王子はすっと視線を外した。元々、イーデンの答えになど微塵も期待していなかったとでもいうように。
「お前は手加減せずに剣の相手をしてくれる。私の前で取り繕う事もしない。気に入っていると言えばその点だろう」
媚びもなく、皮肉もなく、王子はあっさりとそう口にする。
だが、語る眼差しが冴えれば冴えるほど、そこには十三歳の少年の紛れもない孤独が香ってきて、イーデンは我知らず表情を曇らせた。
と、それに気付いた王子の双眸に、苛烈な怒りが浮かび上がる。
「イーデン、同情などするな!私はそのようなものは欲しない」
凛とした口調だった。気位が不遜なほど、声音に現れている。
イーデンは僅かに口元を綻ばせた。
おかしかったからではない。その傲慢さこそがこの方にふさわしい…と、ただそんな風に感じてしまったからだ。
「同情などしておりません」
イーデンは言下に否定したが、王子の表情の固さはとれなかった。
整った秀麗な仮面の下、葛藤が波濤のようにせめぎ合っているのが分かる。
何も感じておられぬわけではない、人一倍激しい方なのだと目の覚める思いでそう思い知った時、王子はふと瞳を上げ、イーデンを射抜くように見つめてきた。
「お前は…」
玲瓏な美声がその唇から零れた時、それを彩る艶やかな笑みもその朱唇に広がった。
「今まで通り私を憎んでいればいい。それ以上の感情を私は望まない」
「…………っ!」
イーデンはその場に凍り付いた。
喉元にいきなり焼け付く酸を流し込まれたように、息をする事もままならない。
王子はイーデンの動揺を嘲笑うかのように、更に辛辣に言葉を重ねた。
「私はお前の母を奪った。お前の父が亡くなったのも、私の誕生が原因だ。お前が私を憎まぬ筈があるまい。
お前は好んで私に仕えている訳ではないだろう。多分清月妃がお前に頼んだ筈だ。あの皇子を哀れんで欲しいとな。
それとも私の言ったことは間違っているか?」
軽侮を含んだ声で断定され、イーデンの頬がかっと熱くなった。
それが事実であることは、何より自分が知っていた。
凍てつく寂しさや哀しみを全て射干玉の闇なす憎悪に変え、そうして自分はただ母の願いを叶えるがために、王子の前に膝を折ったのだ。
父の無念を忘れた訳ではなかった。あの凄惨な死にざまをどうして自分が忘れ得よう。
それでも自分には、母をこれ以上不幸にする事はできなかったのだ。
胸に巣くう怨みを言い当てられたことで、いよいよ憎しみを露わにしていくイーデンを、王子は退屈そうに眺め下ろした。
「お前の同情は要らぬ。父王がいる限り私に不自由はないし、ましてや王の死後など無用の心配だ。
王が命を終える時、私も共に命を絶つ所存でいる。
イーデン、憎しみなど馬鹿げた事だ。清月妃の側にいたいと言うならそれを止める気は毛頭ないが…」
王子はそこで言葉を止め、挑むような眼差しを改めて正面からイーデンに突き付けた。
「私にお前は必要ない。
お前が私の側付きを辞めたいなら今すぐ辞するがいい」
イーデンは呆然と目を瞠り、信じがたい思いで皇子の言葉を受け取った。
私にお前は必要ない。
数多に降り注がれた言葉の中で、何故かその言葉だけが狂ったようにイーデンの脳裏にこだました。
甘い自惚れは微塵もなく打ち砕かれ、言い知れぬ怒りと恥に塗れた惨めさが虚ろな心を塗り込める。
何故…とイーデンは心に呟いた。
何故、絆を分かつ言葉を口にするのが、王子でなければならないのだろう。
十五年間温め続けてきた憤怒や慟哭を、まるで路傍の石の如くあっさりと捨て去ろうとする王子を、この瞬間イーデンは、堪らなく憎いと感じた。
「王と共に命を絶つだと?」
イーデンは荒ぶる怒りをそのまま王子に叩きつけた。
「貴方はただの愚かしい甘えっ子だ!そうやって死を振りかざせば、何もかも自分の思い通りになると思っておられる。
清月妃がお聞きになれば、どんなに嘆かれる事か!清月妃は貴方のために、臣下に過ぎぬ私に頭を下げられたのだぞ!」
どす黒い感情のままに言い募るイーデンに、王子は今度こそ、嫌悪のこもった笑い声を響かせた。
「私のため?
お前はまだ、そんなおめでたいことを信じているのか!清月妃が本当に、私のためにお前を呼び寄せたと?
わかっていないのはお前の方だ!
私の心も清月妃の心も、お前は何もわかっていない!」
不当な罵倒に、イーデンの中でなけなしの理性が吹っ飛んだ。
母を生きながら地獄に突き落としたのはお前だと、身を焼き尽くすような憎悪が体を駆け巡る。
イーデンはもはや感情を抑える事はできなかった。
「清月妃が不幸なのは、貴方のせいだ!貴方が生まれた事で、清月妃はどれほど苦しまれたか!
貴方さえ生まれなければ…!」
その瞬間、王子の瞳を染め上げた紛れもない哀しみを、イーデンは一生忘れる事ができないだろう。
決して口にしてはいけない言葉だった。これほどに煽られなければ、イーデンとて口が裂けても言う筈のない言葉であったのだが。
イーデンは悔恨に顔を歪めたが、それに対する王子の答えは毒を孕んだ冷ややかな嘲笑だった。
王子もまた、感情を制御できなかったのだろう。
「確かに清月妃にとっては、私という王子を身籠った事こそが何よりの恥辱であっただろうな。
王は子を授かる年寿をとうに過ぎておられるのに、その后が懐妊なさるとは。
国中の誰もがおかしく噂しているぞ。清月妃は王の寵姫でありながら、不義の子供を身籠ったとな」
「………ッ!」
体中の血が沸騰するほどの激憤に、イーデンは堪らず王子の頬を打ち据えた。容赦ない平手打ちに、王子の体が寝台に沈み込む。
「清月妃を侮辱するな!」
イーデンは大きく肩を喘がせたまま、王子を見下ろした。
ひと時の激昂がおさまると、イーデンには自分のした行為が到底信じられなかった。
王子は打たれた頬を上にして、ぐったりと寝台に伏していた。
瞳を緩く伏せた幼い横顔には、寄る辺ない悲しみに耐え続けた闇よりも深い孤独が垣間見える。
この時イーデンの偽らざる心情は、床に這い蹲っても王子の許しを得たいという切実なものだった。
だが、謝罪を口にすれば最後、誇り高い王子は二度と自分を傍におこうとしなくなるだろう。
イーデンは感情を抑えるように拳を握りしめ、わざと乾いた口調で寝台の王子に声を掛けた。
「私は清月妃の望みに背こうとは思いません。
今まで通り、貴方にお仕え致します」
イーデンはそのまま背を向けた。
王子は何も言わなかった。
ただ、部屋を辞する瞬間、閉じかけた扉の向こうで、王子が堪え切れなくなったように両手で顔を覆うのが、イーデンの目の端に映った。