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第一部 王子との生活

 零れるような春のが、柔らかな息吹を緑なす大地に吹き込んでいた。

 日ごとに生い茂っていく鮮やかな木々の緑を見るともなしに眺めながら、イーデンは半年前の王子との出会いをぼんやりと頭の中で反芻していた。


 初めて会った王子の印象は、人形のように美しいという、その一言に尽きた。

 冷たく澄んだ翡翠のごとき瞳に、透き通るような青白い肌。すっと通った鼻梁も、愛らしく整った口元も、全てが貴族的に調和していて、息を呑むほど美しい。


 だが王子には、人間らしい何かが全く欠けていた。

 自身の誕生がトロワイヤ家にどれ程大きな傷を残したか知らぬ筈はないのに、謝罪もなく、気後れする様子もなく、極上の玻璃を思わせる無感動な眼差しでイーデンの挨拶を泰然と受け取った。 


 その寒気さえも覚えさせる虚ろな静けさに、これが本当に十三の少年だろうかと首を傾げたイーデンの疑問は日毎に膨らんで、半年を過ぎる今では、王子に感情というものが存在するのかどうかさえ、イーデンには自信が持てなくなっていた。


 王子は課せられた日課を、毎日黙々とこなしていた。

 定められた時間に起き、出された食事をきちんと食べ、午前中には学問を、午後からは読書、乗馬、剣術の稽古。

 寸分の狂いなく繰り返される日課に不平一つ零すでなく、それが唯一の務めであるかのように、王子は淡々と一日を過ごしていた。


 まるで馬車馬のようだと、イーデンなどは意地悪く考えを巡らせもしたが、それ程に王子の生活は単調で、子どもらしい隙が全くなかった。


 イーデンはその出自と清月妃の口利きから、王子と食事を共にする栄誉を特別に許されていた。


 有寿となり、貴族としての社交を始めたイーデンは、月の三分の一ほどは宮を空けたが、それ以外の日は昼食や夕食を王子と共にした。

 

 そんな時王子は、当たり障りのない話題を選んで、決して会話を途切らせる事はしなかったが、食事が済むや否やさっと席を立ち、自分の居室に閉じこもるのが常だった。


 イーデンはせっかく自由になる夜の時間まで王子と一緒に過ごしたいとは微塵も思わなかったが、こうもあっさりと無関心を貫かれると、かえって奇妙な物足りなさを覚えてしまうのも事実だった。


 こうして時間があれば、いつの間にか王子の事を考えている自分に気付くのは不快だったし、先日会ったばかりの清月妃に思いを戻そうとするのに、そうすると、王子の遊び相手となる無寿の子をわざと宮から遠ざけたのは清月妃だと宮人から聞いた話が思い出され、イーデンは形容しがたい苛立ちに眉を顰めた。


 気が付けば、王子と約束していた剣術の時間がかなり過ぎている。

 叱責を覚悟で足早に王子の居室を訪ねると、いつもなら防具を身に着けて待っている筈の王子が、どこか気だるそうに長椅子に身を横たえていた。

 珍しい事だ…と眺めていると、イーデンの姿を認めた王子が僅かに瞠目どうもくした。


「もうそんな時間か…」

 王子は小卓の上の水時計に目をやり、ゆるりと椅子から立ち上がる。


 物憂げに髪をかき上げた王子の横顔が、この時ばかりはほんのりと紅を指していたように見えたのは、イーデンの気のせいだっただろうか。

 従者に防具を持ってこさせた王子は、手早く身支度を整えると、いつものようにイーデンを中庭へと誘った。


 イーデンは礼に従って七歩の間合いを取ると、木刀の剣先をゆっくりと王子の喉元に向けていった。

 もしこの剣が真剣であれば、僅か一突きで、十五年間自分を縛り続けていた暗い悪夢を終わらせる事ができる。


 そんな甘い誘惑をイーデンは意識的に頭から払い、わざと体の右に隙を作ってみせた。

 誘いに乗じて王子が突きかかってきたところを軽くいなし、返す刃で脇腹を突く。


 剣技の相手をする時、イーデンは決して王子に手加減はしなかった。

 本来ならば、多少手心を加えるのが血筋に対する礼儀と言えるのだが、イーデンはそこまで王子に譲歩してやるつもりはない。


 気に入らなければ、別の者に相手をさせれば良いだけの事だ。

 イーデンには王子の不興を恐れる理由はなかったし、それ程礼を尽くすべき相手でもないと心では見下していた。


 貴子の一人として温和しやかに仕えているように見せながら、時には唾を吐きかけてやりたいと思う程の憎悪を身に堪えている事を、この王子は果たして気付いているだろうか。


 そんな暗い愉悦を一人温めながら、いつものように王子の剣を乱暴に払った時、バランスを崩した王子がよろめくように地面に転がった。


 よくある事だと気にも留めずにいたイーデンだが、常ならばすぐに身を起こす王子が何時まで経っても起き上がらない事に気付き、不審を覚えて歩み寄る。


「王子…?」

 傍らに膝をついて覗き込むと、王子は苦し気に息をつきながら、防具をつけたままの頭を起こそうとした。


「何でもない。少し…、疲れただけだ」

 その声音の弱々しさにイーデンは息を呑み、血相を変えて王子の頭から防具をむしり取った。


「王子…!」

 抱き起こした王子の顔は蒼白だった。

 青ざめて紙のように白い額に、脂汗が滲んでいる。


「何故、こんな無茶をされた!」

 イーデンは思わず王子を怒鳴りつけた。平静を装う気力さえないのか、王子はぐったりと翆玉の瞳を閉じたままだ。


 イーデンは王子の体を抱き上げた。

 その体は不吉なほどに軽く、イーデンはふと王子が蒲柳ほりゅうの質で、洗礼を受ける年齢まで到底もたないだろうと噂されていたことを思い出した。


 元々、洗礼を受ける前のムーアの民は、有寿に比べて極端に体が弱い。

 風邪をこじらせてそのままという例も少なくなかった。


 異変に気付いて駆け寄ってくる従僕らを押しのけるように、イーデンは王子を寝所へと抱き運んだ。


 寝台に降ろそうとした時、腕に抱く体がふっと重みを増した。おそらく気を失ったのだろう。

 イーデンは不安に揺れる心を抑え、声高に侍医の名を呼んだ。




 侍医のテナーンが呼ばれてから、既に小半時が経とうとしていた。

 駆け付けたテナーンの横顔の厳しさが何時までも瞼の裏から消えず、イーデンは待つだけの無力さを痛いほどに噛みしめながら、ただじっと暗い回廊に立ち尽くしていた。


 やがて扉がきしむ音がして、侍女に先導されたテナーンが姿を現した。

「王子のご容態は?」


 急き込むように問い掛けると、テナーンは驚いたようにイーデンの方を見た。

 部屋を訪れてかなりの時間が経っている。まさか外で待っていようとは思ってもいなかったのだろう。


「今は薬で眠っておられます。しばらく安静が必要ですが、ご心配には及びません」

 柔らかく落とされた言葉に、イーデンはほっと安堵の吐息をついた。


「私が迂闊だったのです。稽古を始める前から、ご様子がどことなくおかしかったことは気付いていたのですが」

 軽挙さを恥じるようにイーデンが項垂うなだれると、テナーンは困ったように微笑み掛けた。


「貴方のせいではありませんよ。朝から体調が優れなかったのに、それをわざと隠されたのはあの方です。

 よほど貴方に病気だと知られたくなかったのでしょう」


 どこか微笑ましさを堪えたようなテナーンの言葉にイーデンは訝し気に眉宇を寄せた。

「おっしゃる…意味が、わかりませんが」


「つまり、貴方との剣術の稽古を取りやめにしたくなかったのでしょう。王子は殊の外、貴方を気に入っておいでですから」


 イーデンは狼狽し、すぐには言葉も出てこなかった。

「……お言葉を返すようですが、私は別に王子のお気に入りではありません」


 四角張った口調で否定するイーデンに、テナーンはひょいと片眉を上げてみせた。


「気に入っておいでですよ。

 今まで誰に対しても執着をお見せにならなかったあの方が、貴方にだけは理由をつけて手元に置こうとなされる。

 お気づきではありませんでしたか?」


「確かに傍に侍る機会が多いのは事実ですが」

 イーデンは困惑したように言葉を落とした。

「お考え違いです。第一、王子は私といても、楽しそうなご様子をされた事は一度もありません」


 その言葉に、テナーンは何とも言えない顔をした。

「あの方は誰と一緒であっても笑顔をお見せになる事はありません」


「え……?」

「この宮の誰も、あの方の笑顔を見た方はいないと思いますよ」


 口早に言い捨て、背を向けようとするテナーンをイーデンは慌てて呼び止めた。

「王子にはいつ頃お会いできますか?」


 テナーンはちょっと考えた。

「四、五日で熱もひきますから、起き上がれるようになったら、王子の方から呼ばれるでしょう。

 相手が誰であろうと、あの方は寝ている姿を見下ろされる事を好みませんから」


「清月妃はいつお越しに?」


「清月妃さまは、陽の君のお傍におわします。この程度のご病状では、お下がりになりません」

 イーデンは一瞬、耳を疑った。


「四、五日も寝込まなければならないご病状なのに、見舞いにすら来られないのですか?」

 微妙な領域に踏み込む質問に、テナーンははっきりと困惑の笑みを浮かべた。


「月妃さまが王子にお会いになるのは、月に一度、決まった会食の時だけです」

「しかし、それでは…」


「王子は納得しておいでです」

 テナーンは、それ以上の言葉を封じるように、いくぶん強い語調で遮った。


「幼い頃からずっとそうでした。

 少々の熱なら知らせるには及ばぬと、清月妃さまよりのお言葉もいただいております」




 軽く一礼してテナーンが退がった後も、イーデンは今聞いた言葉が信じられず、呆然とその場に立ち尽くしていた。


 母と別れたのは六つの時だったから、大した思い出がある訳ではなかった。それでも病に寝付いた時、寝食を忘れて看病してくれた優しい手の温もりは覚えている。


 無寿は体が弱いから。

 そう口癖のように囁いて、髪や指に祈るような口づけをちりばめられた。


 その母が、同じく血を分けた王子にここまで冷淡な仕打ちをするというのが、イーデンにはどうしても解せなかった。


 高貴な血筋をひく子供だからといって、母を慕うひたむきさは変わらぬ筈だ。

 今まで誰にも笑顔を見せた事がないと言ったテナーンの言葉が重く心にのしかかり、イーデンはやりきれない思いで首を振った。


 気にすることはない。


 イーデンはざわめく心を抑え込み、無理やり自分にそう言い聞かせた。

 姉や自分から母を永遠に奪い取ったのはあの王子だ。父を死に追いやったのも。

 清月妃が少しばかり王子に冷淡だからといって、誰がそれを咎められようか。



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