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第二部 時のあなたに

 荒れ果てたキサーロの地に、今また長い冬が訪れようとしていた。

 崩れかけた家々や枯れた田畑に粉雪が音もなく舞い落ちて、哀愁に満ちたもの寂しさを醸し出す。


 政変から間がない時期に未来夢さきむを受け取っていたこの土地は、領主夫妻が民にいち早く越山を奨励した事もあり、民のほとんどがムーアを去っていた。

 今はユリアナの長男家族と数十人の仕え人だけが、領主ムーロスの館にひっそりと暮らしている状態だ。



 その若者がキサーロを訪れた時、館はすっかり沈みゆく時の流れに埋没していた。

 彼らは滅びゆく運命を己に受け入れており、ただ厨房から立ち上る細長い煙筋だけが、唯一館の活気を表わすように白い軌跡を濁った空に残していた。


 ユリアナも今年ですでに、(よわい)六十になる。

 長男以外の子どもたちはとうにムーアを遠ざかり、夫も数年前、キサーロの地で病没していた。


 父の死を一つの区切りにムーアを離れようとした長男ハライだったが、ユリアナはそれに同意しなかった。

 離れる事を拒んだのにはそれなりの理由があり、それを聞いたハライとその妻は、諸共にこの地に残る事を選択した。


 ハライの妻は、アクヴァル王の側近であったミアズの孫娘だ。

 亡き陽世継ぎに対する忠節も厚く、ムーアに殉ずる事をほまれと捉えたのだ。



 夕食の準備でもしているのか、建物の奥の方からは人の話し声や厨房独特の喧騒が聞こえてくる。

 その方を穏やかに眺めやり、ユリアナは改めて、自分に目通りを願ってきた旅人へと目をへと向けた。



 若者は着古したローブに長身を包み、フードを口元近くまで下げて被っていた。

 粗末な衣に身を包んでいるものの、その立ち居からは洗練された雅さがあえかに伺える。


 ユリアナは老いの忍び寄る、だがまだ十分美しい面を凛と上げて、その若者を正面から眺め見た。

 フードの下から見える口元、すらりとしたその背格好にもなぜか覚えがある心地がして、妖しく心がざわめきたち…。


 次の瞬間、ユリアナは大きく息を呑んだ。

「まさか、イーデン…!」


 喘ぐように大きく体をよろめかせたユリアナを、若者が駆け寄るように腕に抱き留めた。

 その拍子にはらりとフードが外れ、若々しい端正な面が露わになる。


「ああ…」


「お久しぶりです。姉上」


 瞳を細め、やや切なげに微笑みを向けてくる弟の、夢にまで見た懐かしく健やかな姿に、ユリアナはみるみる涙を溢れさせた。


「イーデン、よく無事で…」


 言葉は続かなかった。

 陽世継ひよつぎが死して以来、ずっと行方不明となっていた弟を、ユリアナは誰より気にかけ、案じ続けてきたからだ。



 陽世継ぎを死に追いやった兄王子らは、すべての罪を守陽しゅように被せ、執拗な追手をイーデンにかけていた。

 莫大な懸賞金や数にまかせての山狩りは言うに及ばず、キサーロにまで密偵を送り込み、躍起になって守陽を捕らえようとしたのだ。


 だがそうした兄王子らの目論見は、ことごとく失敗に終わった。

 イーデンの足取りはその後、ようとして掴めず、生きているという確証もつかめぬまま、長く無為な年月がムーアに降り積もったのだ。



「顔を見せて…。ああ、貴方はやはり神の祝福に守られているのですね…」


 ムーアに生きる民の全てが忍び寄る老いに身を蹂躙されているのに、イーデンは時止めをした当時の若々しい姿のままで、今も生を紡いでいる。



 …けれどこの祝福は、イーデンにとっての無残に他ならないのだろう。


 ユリアナは弟の顔を哀しく見上げ、その痛々しさに唇を噛んだ。


 贖罪しょくざいのために、一人生き抜く事を神に運命さだめられた守陽だった。

 その暗い眼差しを見れば、この三十年余をイーデンがどれほど苦しみ抜いて生きてきたか、ユリアナには痛い程わかってしまう。


 それでも楽になれとは言ってやれなかった。

 イーデンこそがムーアの未来に残された最後の命綱であり、この先、艱難かんなんに耐え抜く民らの唯一のしるべとなっていくのだから。


 栄華に華やいでいたかつてのムーアを象徴するように、神の奇跡をその身で体現していく守陽。

 時を経て尚、若さを失う事のないその姿に、民は祝福に満ち溢れたかつてのムーアのり様を知り、厳しい迫害に耐えて尚、信仰を篤くしていく事になるだろう。



 何度となく目頭を拭う姉の姿に、イーデンは僅かに目元を和らげたが、それよりも時が気になるとばかりに、やや厳しい眼差しを真っ直ぐにユリアナに向けてきた。


「何故、ムーアをお出になりませんか。

 貴女がまだこちらに残っておられるという噂を聞いて、確かめに来たのです。


 これ以上、ここに留まられてはなりません。

 山越えが辛いとおっしゃるなら、私が共に参りましょう」



「…貴方を待っていたのです」


 思いもかけぬユリアナの言葉に、イーデンは目をまたたいた。

「私を?」


「ええ、この三十余年、わたくしはずっと貴方を待っていました。

 貴方に……、ある言伝えをするために」



 ユリアナは言葉を切り、目尻に残る涙を優雅な仕草でそっと拭い取った。


「イーデン。わたくしの娘、ヴェーナを覚えていますか?」

 唐突な問いに、イーデンは眉宇を潜めた。


「こちらで会った時、確か八つ…でしたね。

 あの後、王都を訪れてくれて…、清月妃が大層喜ばれた事を覚えています」


 自身の苦しみに囚われて、清月妃の事を思い出す事さえ久しくなかったイーデンだった。

 あれからもう三十年以上が経ったのかと、ぼんやりと過去に思いを馳せた時、イーデンはふと、ある事実を思い出して眉を寄せた。


「まさか、ヴェーナは…」


 言葉にされない問いの続きを読み取ったのだろう。ユリアナは悲しげに瞳を伏せ、吐息と共に言葉を絞り出した。


「十五の時に処刑されました」


 イーデンは返す言葉もなく、ただきつく唇を引き結んだ。


「わたくしたちはずっとあの子を匿っていました。

 けれどキサーロへの締め付けは日に日に激しさを増し、ついには領民を殺すと……。


 それを知ったヴェーナは、自ら望んで王のもとに向かいました」



 当時の胸を引き絞るような悲しみが喉元に突き上げてきて、ユリアナは泣き笑うように顔を歪めた。


「後ろ手に縄で縛られて、罪人の乗る護送車に乱暴に引き立てられながら、あの子は最後まで夢を撤回しませんでした。

 晴れがましく面を上げ、私は夢視としてこの命を神に捧げると…」


 ヴェーナはあの時、亡き陽世継ぎの言葉を思い出していたのではとユリアナは思う。


 〝いずれムーアを背負う夢視ゆめみになるだろう。

 そうしてここに集う者たちは皆、お前を誇りに思うようになる”


 自分を庇い、優しく微笑みかけてくれた陽世継ぎの事を、ヴェーナは心から慕い、崇敬していた。


 もしかすると幼いあの子は、淡い恋心さえ密かに抱いていたのかもしれない。



「イーデン。王子がこの館を訪れた時、ヴェーナが紡いだ不吉な夢を覚えていますか?」


 改めて問いかけられて、イーデンははっと目を上げた。


 王子を喪って以来、イーデンの世界から色は失われ、ただ惰性のように生を紡いできた。

 出奔してからの数年は、自分がどうやって生きてきたのかも思い出せない。

 魂も枯れるほどに嘆き狂い、ついにはムーアにいる事も耐え難くなり、カルライの山を越えてアクラヴァーへと一人渡った。


 異邦に混じれば、少しは苦しみから逃れられた。

 見も知らぬ土地を眺め、新しい文化や風習に触れていれば、その時だけは心の平安を保つ事ができる。


 だから今まで、ヴェーナを思い出す事は一度もなかった。

 けれど今にして思えば、ヴェーナは不吉な禍夢(まがゆめ)を、来たるべきあの凄惨な未来を、あの時確かに紡いでいたのだ。


 顔を強張らせていくイーデンに、ユリアナはゆっくりと頷いた。


「思い出しましたか?

 

 あの子はあの時、貴方が陽世継ぎの君を手に掛けると言ったのです。

 貴方は激怒し、鞘ごとの剣であの子を殴打せぬ勢いでした」


 姉の言う通りだった。


 あの時確かに、ヴェーナはそう言ったのだ。

 守陽であるイーデンがその手で陽世継ぎを刺し殺すのだと…。


 けれど、あれは……。


「あれは違え夢だった筈です。

 ヴェーナの血がムーランの思念を呼び起こし、王子の霊気が夢を歪ませたと我が君が…」


 取り乱した口調で言い募るイーデンに、ユリアナはどこか哀しげに微笑んだ。


「貴方はいつ頃知ったのです?

 貴方が陽世継ぎの君を手にかけて、なお生きなければならない事を」


「いつ…?」

 虚ろな声でイーデンは問いかけた。


「謀反が起こり、もうあの方を救えないと分かった時です。

 …何故今更そのような事を?」


 ユリアナは切なそうに唇を噛んだ。

「そう……。では王子は最後まで」



 ユリアナはそのまま踵を返すと、扉の外に姿を消した。

 ややあって戻って来たユリアナは一つの布袋を手に持っていた。


「これは貴方のものです。

 お受け取りなさい」


 差し出された布袋をイーデンは黙って受け取った。

 中を開けると、そこにはいかにも高価な宝玉が口のところまでぎっしりと詰め込まれていた。


「…これは?」


 ユリアナは、ひどく辛そうにその布袋をじっと見つめた。


「ヴェーナが夢を紡いだ三日後、王子はわたくしを部屋にお呼びになりました。

 あの時王子は軽い余興として流してしまわれましたが、本当はそれが真実である事をご存じだったのです。


 自分も同じような夢を見るのだと、王子は言われました。

 何故あのような事になるのか、どうすれば未来を変えられるのかわからない。

 ただ、あの夢は成就するのだと…」


「嘘だ…!」

 ユリアナの言葉を、イーデンは血相を変えて遮った。


「王子がそのような夢を見ておられた筈がない。

 あれは単なる違え夢だった筈だ…!

 だからこそ王子は変わらず私を手元に置いて…」


 ユリアナは首を振り、悲しそうに微笑んだ。


「貴方の愛情や忠節を疑っておられた訳ではないのです。

 むしろ王子が案じておられたのは、貴方の行く末でした。


 何故あのような事になるのかわからないが、おそらく人に追われる身になるだろうと。

 その時は、ただ一人の姉を頼ってこの地に来るだろうから、これを渡して欲しいと王子はそうわたくしに頼まれたのです」


 ユリアナは言葉を切り、震える息を吐き出した。


「王子の望みは最後まで貴方に夢を覗かせぬ事でした。

 それがすでに定まった未来であったとしても、知らせずに済む事ならば、一切を秘して時を待ちたいとあの方は言われました。


 …どれほど王子はお辛かった事でしょう。

 夢が貴方に関わるだけに誰にもその苦しみを打ち明けられず、最後の瞬間までお一人で耐えて…」


 ユリアナはそっと目をしばたいた。


「貴方に出会うまで、あの方はいつも一人でした。

 父王や母妃はあの方を疎まれ、異母兄姉がたもあの方を不義の子とあからさまに嘲っておいででした。


 そしてこのわたくしも、そうやってあの方を貶め、御心を傷つけた者の一人でした。

 母が月妃に立たれたのは王子のせいではないのに、筋違いの憎しみをずっとぶつけて…」


 ユリアナの瞳から堪えきれない涙がしたたり落ちた。


 いいえ。一番愚かしいのはわたくしだ。

 清月妃はとうに、王子を許しておられたのだから。

 あるいは許しを請うていたと言い換えた方がいいのかもしれない。

 

 自らの罪が重すぎる故に、母は王子に言葉を掛ける事すら躊躇われて、最後にはいつもその後姿ばかりを追っていた。

 もし望みが叶うなら、命を終える最後の瞬間に、生まれて一度も抱こうとしなかった我が子の体に触れてみたいと、遠い眼差しでわたくしに語られて…。


「あの最後の日にも、わたくしはとうとう王子に優しくする事ができませんでした。

 清月妃と最後の時を過ごせるよう、御心を砕いて下さったのはあの方なのに、つまらぬ意地を張って御心を疑う事ばかり言い募り…」


 ユリアナは堪え切れずに嗚咽した。


「姉上…」


「…これを持って、ムーアをお逃げなさい」

 ユリアナは流れ落ちる涙を手の甲で拭い取り、しっかりとした口調でイーデンに言った。


「何があっても生き延びて、必ず王子にお会いするのです。

 王子がご自身の命にも増して貴方を愛された事を決して忘れてはなりません。


 …果ての日に、貴方はいつか王子と再会するでしょう。

 その時は、あのお寂しい方を貴方の胸で安らがせてあげて下さい。


 そして愚かな姉が悔いていたと…、御身の幸せを心から願っていると、どうぞそう伝えて下さい」



 イーデンは布袋を押し頂いたまま、その重い言葉をじっと受け止めた。



 あの日以来、イーデンの心には王子に対する怨みがいつもどこかにくすぶっていた。

 謀反が起きたあの晩、すべては夢の通りに進んでいると王子が口を滑らせたからだ。


 謀反の夢を覗いていたのなら、何故自分に知らせてくれなかったのかと、イーデンは何百回、何千回となく心の中で王子を責め立てた。


 知っていれば悲劇を避けるために何らかの手を打っていた。

 伝えるべき夢を秘して、挙句にこのようなごうを身に負わせるなど何と非情なお方なのかと、恨みながら泣き叫び、恋慕する以上に王子を憎んだ。

 


 けれど王子が見ていたのは、ヴェーナが紡いだあの夢だったのだ。



 …口にできる訳がない。

 もし、あの時それを知ってしまえば、自分は精神の平衡を崩して、どういう行動をとっていたかわからない。


 王子が自分に伝えず、ミアズやムーロに相談していたとしてもおそらく同じことだ。

 彼らは王子という陽筋を守るために自分を排除しようと動き始め、そして結局、自分はあの夢へと辿り着いてしまう。




 私に殺されると知って尚、王子は自分のためにこの宝玉を準備されたのか…。


 握りしめた布袋に、ぽたりと涙がしたたり落ちた。


 あのような無残を未来夢として与えられ、王子はどれ程苦しかっただろう。

 誰にも弱音を吐けず、迫りくる時にただ怯えながら、それでも王子は最後まで自分を守ろうと力を尽くしてくれたのだ。



 掌に沈むずっしりとした重みと共に、自分を愛し抜いた王子の闇にも勝る孤独と苦しみを、イーデンは今ようやく理解した。



 …王子がまだ無冠であった頃、自分たちは何と無邪気に笑い合っていた事だろう。

 たわいもない痴話げんかを繰り返し、いつも先に謝るのは自分の方だった。

 口では強がりを言ってみても、寂しそうな顔でふさぎ込む王子を見ているのが辛かったからだ。



   流されるこの血にかけて、決して私を忘れるなよ。

   


 いまわの際に囁かれた、いとも優しく残酷な言葉。


 自分を殺せと命じた王子をどうしても許せず、狂うように恋慕しながら、幾度となく恨みの言葉を口にした。

 恋慕の激しさに耐えかねて、いっそ命を断とうかと思い詰めて、何とかここまで命を繋いだ。


 だが、もう二度と迷いはしない。


 イーデンは透徹した決意を眼差しに宿し、ゆっくりと面を上げた。


 どれほど遠い未来であろうと、自分は必ず王子と巡り合い、時を重ねる。

 隔たれた百八十年の昼と夜を超え、もう一度この腕に王子を抱きしめるのだ。



   我が君…。


 イーデンは久遠くおんの祈りを込めて、闇の彼方あなたに王子を呼んだ。


 王子を再びこの腕にいだく時、繚乱する長い悪夢も終わりを告げる。


 誰よりも愛おしい体を腕に抱きながら刃を振り下ろした凍えるような絶望、血に塗れた手の中で重みを増していく体をひたすらにいだいた狂気のごとき哀しみも、その時全て癒される事だろう。









ムーアの物語はこれでおしまいとなります。読んで下さった方、ブクマや評価を下さった方に感謝いたします。

物寂しい結末のままは寂しいので、いつか王子とイーデンが幸せになれるよう続きが掛けたらいいなと思います。

お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。

 

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