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第二部 流される血にかけて

 やがて遠くから城門の壊される重い音が響いてきた時、離れがたい思いを断ち切るように体をもぎ離したのは王子の方だった。


「もう……時間がない。イーデン」


 促すように見上げてくる琥珀こはくの瞳に、一切の惑いは存在しなかった。

 澄んだ覚悟をイーデンに突きつけ、王子は一振りの懐剣を抜いて手渡す。


 柄の部分が精緻せいち象嵌ぞうがんで仕立てられたそれは、亡き王の声明が刻まれた守陽の焔剣だった。

 守陽の意に従って、相手の命を吸い上げる神の剣でもある。


「我が君…」

 王子は玲瓏れいろうに微笑んで、躊躇いを残す右手にその柄をしっかりと握らせた。

 そしてそっと顔を寄せ、イーデンの唇に蝶のごとき口づけをした。


「流されるこの血にかけて…」

 唇に触れる王子の声音は、静かな慈愛に満ちて例えようもなく美しかった。


「決して私を忘れるなよ。

 どれほどの時が流れようと、お前は永劫に私のものだ」


 その穏やかな言葉と対比するいとも残酷な命は、確かなくさびとなってイーデンの心に打ちこまれる。

 その際立きわだつ無残になぜか心癒されて、イーデンは知らずに微笑んでいた。


「ええ…」

 イーデンの答えに安堵したように、王子の指がそっと柄から外れていく。


 流される御身の血にかけて、そして、その無念の死にかけて…。


「私は永劫に貴方のものだ」




 白刃を闇に晒すイーデンの耳に、猛々しいときの声が微かに遠くから聞こえてきた。


「イーデン…」


 蜜をいざなう甘やかな声が王子の唇を離れた瞬間とき、刃が鋭く振り下ろされた。

 鮮やかな鮮血が大理石の床に飛沫しぶき、イーデンの腕の中で王子の体が大きく弧を描いて仰け反る。


 王子は声一つ立てなかった。

 背骨に柄が食い込むほどに心臓の辺りを貫かれ、ほぼ即死の状態だった。


 王子の体はイーデンの腕の中で二度、三度細かく痙攣し、やがてゆっくりとその重みを増していった。


 イーデンは柄から手を放し、崩れゆくその体をしっかりと抱きなおした。

 時の移ろいはイーデンの感覚から切り離されて、音も消え、光もなく、ただ肌を濡らす血潮と、腕に重い王子の体だけがイーデンに許された唯一の真実だった。



 すさんだ魂を透徹とうてつした眼差しの先に据え、イーデンは射干玉ぬばたまの闇の向こうに在りし日の王子の姿だけを一心に追おうとする。 


 腕の中で楽し気な笑い声を立てる、寛いだ様子の王子。

 まだ陽世継ぎでもなかった頃、権力も栄華も持ち合わせていなかったが、自分たちは誰より幸せだった。


 あの満ち足りた時の紡ぎがこのような形で断ち切られようなどと、神ならぬ身にどうして想像できただろう。

 まして誰よりも愛おしい君をこの手にかけ、血塗られたこの体でこの先自分は生きていくのだ。



 イーデンは王子の背から剣を引き抜くと、柄まで血に染まったそれを見るも厭わしげに床に放り投げた。

 そうしてもう一度王子の体を抱えなおし、大事そうに寝台へと運んでいく。


 まだ温もりの残る体を丁寧に寝台に横たえた時、イーデンは初めて王子の顔を拝した。

 苦しげに歪んでいるかと思われた王子の尊顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。



「我が君」


 イーデンは寝台の脇に跪き、祈るように手を取った。

 柔らかな温もりを残すその手を頬に寄せ、そっと口づける。


 閉じられた長い睫毛が、あえかに美しい面に深い影を落としていた。

 柔らかく引き結ばれた紅色の唇は、微かな笑みさえたたえているようだ。


 眠っておられるだけなのだ。

 せめてそう思い込むことが許されるならば…。



 イーデンの頬を、不意にひとしずくの涙が流れ落ちた。


 王子は死んだ。

 自分が殺したのだ。

 もはや自分に笑いかける事も、低く澄んだ声で自分の名を呼ぶ事もない。


 そうして光を紡いだような王子の金髪に顔を埋め、イーデンは泣いた。激しく、慟哭した。



 夢魔を脱した後の残り夢に引き摺られる時、王子が紡ぐ夢はいつも蒼ざめた孤独の世界だった。

 誰からも望まれず、愛されず、そんな幼少を送った王子は、本音の部分では誰よりも人恋しく寂しがり屋であったのだ。


 あれほど一人になる事を厭われたお方なのに、今、王子は二度と目覚めぬ深遠な眠りに落ちて、たった一人寝台に横たわっている。

 黄泉に向かう道筋で、王子の御霊は虚しく自分の名を呼んで、迷い子のように闇を彷徨さまよってはいないだろうか。





 やがて入り乱れた足音と喚声が間近に近付いてきた時、イーデンはようやく泣き濡れた面を上げ、苦しそうに立ち上がった。


 不吉な揺れを見せ始めた正面の扉を憎しみを込めて眺めやり、断腸の思いで王子に別れを告げる。

「お別れです。我が君…」

 

 躊躇っている暇はなかった。

 すでに重いなたの先が時折、重厚な扉から見え隠れし始めている。

 兵が踏み込んでくるのも時間の問題だろう。



 イーデンが抜け道に続く道に身を投じ、扉を閉めた瞬間、間一髪、頑丈な扉が凄まじい音を立てて叩き壊された。

 ひしゃげた扉を跨ぐように、屈強な体つきの兵士らが争うように中になだれ込んでくる。



 明々とした松明が、血が飛び散る床や壁を無残に照らし出した。

 兵士らは思わずぎょっと足を止めたが、そんな兵士らを押し退けるようにして、四人の兄王子が我先にと寝所に駆け込んできた。


 床を染める血と血塗れの剣に素早く目を留めた彼らは、それでもなお陽世継ぎのむくろをこの目で確かめねば安心できぬとばかりに、奥まった寝台へと松明の明かりを突き付けた。




 そこには、彼らの探し求めた陽世継ぎが眠るように死んでいた。

 微動だにしない弟王子の、その口元に浮かぶ紛れもない安らぎを、兄王子らはまるで奇妙なものでも見るようにじっと見つめた。



 四人の中でやや後方にいたヨーザが、馬鹿が…と小さく口を動かした。

 無様に追い詰められ、骸となったユーディスに、ヨーザはたぎるような怒りを覚えていた。


 こうなる事がわかっていたから、父王が亡くなる前夜、ユーディスが王に呼び出されたと聞いてわざわざ陽宮ひのみやまで足を運んでやったのだ。

 助かる道をせっかく用意してやったのに、この愚かな弟は最後まで現実を見ようとはしなかった。

 

 ユーディスさえ自分のものにできるなら、ここにいる三人を敵に回しても良いとヨーザは思っていた。

 名ばかりの王冠をユーディスの頭上に被せてやり、恋人であり、庇護者である自分がムーアの実権を掴み取る。

 そのための譲歩が必要だと言うのなら、時折トロワイヤとつがう事も許してやっただろう。



 それをこの弟がすべて台無しにした。

 憎悪がじわじわと喉元まで込み上げてきて、それを飲み下そうとヨーザはしわがれた咳をする。



「息を確かめたらどうだ」

 尊大に顎をしゃくってそう言うと、その態度に第一王子のリクイーンが不快そうに顔を歪めた。


 アクヴァル王の第一子であるが故に、虚栄と自負心だけは人一倍高いリクイーンである。

 何かを言い返そうとしたが、それでも、ここはヨーザの言うとおりだと思ったらしい。


 末王子に近付くと慎重にその呼吸を確かめ、その後やや乱暴に骸を転がして、その背中の刺し傷を指でなぞった。


「殺されている」


 ほうっという安堵とも興奮ともつかぬ吐息が、取り巻く皇子や兵士らの間から期せずして漏れた。 

 当初の予定からは随分狂ってしまったが、とりあえず目的だけは果たせたのだ。






 今回の襲撃は、四人にとってすべてが思わぬ方向へと動いていた。


 時間になっても開かれぬ城門に焦れ、門を叩き割って踏み込んだはいいが、迎え撃ってくる兵士は一人もいない。

 王城に三、四千人いた筈の人間は影も形も見えず、まるで廃墟のような静けさが城内を押し包んでいて、それがひどく不気味だった。


 そしてようやく地下祭殿まで辿り着けば、そこで待っていたのは無明の闇だ。



 神の焔が祭殿から絶えるなど今まで見た事も聞いた事もなく、この時になってようやく、何か途轍とてつもないあやまちを犯してしまったのではないかという恐怖が、簒奪者たちの背筋を這い上ってきた。


 兵士らが浮足立つ中、「とにかくユーディスを探し出せ!」とリクイーンが大音声だいおんじょうで命じた。


 華々しく挙兵した姿はすでに王都の民たちに見られている。

 今更なかった事にはできないのだ。



 その後は執念のようにユーディスの姿を探し回った。

 あの弟王子が生きている限り、神の恩寵が自分たちに与えられる事はない。

 地下祭殿のどこかにいる筈のユーディスを見つけ出して命を奪うしか、自分たちに道は残されていなかった。



 リクイーンは物言わぬ物体となった弟王子を寝台に突き転がした。

 乾ききらぬ血が指についてしまった事に気付き、ちっと舌打ちして寝具に強くなすりつける。

 

「つ、ついにやったぞ!」

 すぐ傍にいたゼノウが急に甲高い声でそう叫び、そのまま狂ったように笑い始めた。


 元々線の細いゼノウには、限界が来ていたのであろう。

 神の焔が消えていると知った時から、きょときょととどこか視線が定まらなくなっていた。


 恐怖にきしんだきんきんとした笑い声が耳障りで、「黙れ!」とヨーザが大きく一喝する。

 普段ならばすぐさま噛みついてくるゼノウだが、今日ばかりは大人しく口を閉ざし、糸が切れたように黙り込んだ。



 ようやく訪れた静寂に、一同はほっと安堵のため息を漏らす。

 ゆっくりと辺りを見渡したムーゾクが、大理石の床に転がった血塗れの剣にふと目を留めた。


「…あれは守陽しゅようの焔剣だ。

 手に掛けたのはおそらくトロワイヤだろう」


「逃げられないと知って、自死を手伝わせたか」

 歪んだ笑みを片頬に刻み、いいザマだと言わんばかりにヨーザが続けた。


「だが、トロワイヤの姿はないな。

 …まさか、逃げたのか?」

 

 四人は互いに目を見交わした。

 

 いと高きの王をたぶらかし、その死を願ったとして、自分たちはユーディスをちゅうする予定でいた。


 だが実際のところ、自分たちはただ挙兵しただけで、実際に陽世継ぎを手に掛けたのは陽世継ぎの守陽トロワイヤだ。

 しかも、摑まる事を恐れて逃げている。


「…トロワイヤが殺したのならちょうどいいんじゃないか」

 ややあって、そう口を開いたのはムーゾクだった。


「すべての罪をトロワイヤに被せよう」


「それがいい」

 真っ先に賛同したのは目を血走らせたゼノウだ。


「我らはユーディスに罪を認めさせるために挙兵しただけだ。

 手に掛けるつもりは毛頭なかったんだ」 


 そう思い込まねば、心が狂気に追いつかれてしまう気がするのだろう。

 震える拳を必死に握り込むゼノウは、無明の闇に潜む神の怒りを凍える程に恐れていた。


「そうとも。

 トロワイヤは守陽という立場を笠に着て、一寿でありながらムーアの政治を乱そうとしていた。


 その罪を暴かれるのを恐れたトロワイヤが、主君を手にかけて逃亡したという事だ」


 乾いた声でヨーザが後をそう続け、リクイーンもまた妙案とばかりに大きく頷いた。

 

「すぐに追手をかけろ!

 トロワイヤは主君である陽世継ぎを殺した。草の根をかき分けても探し出せ!」



 リクイーンの怒号に兵士らが飛び出していった。


 これで場の主導権を握ったと、この時リクイーンは思った。

 兵は自分の命で動き、ここにいる弟たちも長兄である自分に従うべきだろう。


「陽世継ぎが不在となった今、暫定的に私が王位に就く。

 異論はないか」


 リクイーンが弟たちを睥睨して宣言すると、三人を代表してヨーザが軽く肩を竦めた。


「好きにすればよいのでは?」


 ムーゾクもまた頷いた。

 暫定的な王位などに興味はない。


「兄上が王を名乗られる事に異論はない。


 いずれ神が次の陽世継ぎを選定されるだろう。

 我らはそれに従うまでだ」




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