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第二部 残酷な命令

 陽世継ひよつぎが祭殿に姿を現すと、ざわついていたむろは一瞬のうちに静まり返った。

 空間を重く押し潰していた緊張と底知れぬ恐怖は瞬く間に薄らいで、甲高く泣き喚いていた赤子ですら、奇跡のように泣き止んで母の温かな胸に顔を埋めた。


 王子は守陽しゅようを後ろに従え、落ち着いた足取りで神の焔に歩み寄った。

 歩むにつれ、揺れ立つ焔が闇をいで激しくぜ割れた。



 壇の中央で歩を止めた王子は、室を静かに眺め渡した。


 観所かんしょには、アデラ王女と亡きアクヴァル王の兄君が座し、座所の前列にはミアズやムーロをはじめとした国の重鎮らが控えている。

 そのすぐ後ろには多くの神官や廷臣などが並び、その十数倍に当たる数の仕え人やその家族、そして一千人近い兵士らが室を埋めていた。


 後方の一角にいる禊衣を着た大勢の者たちは、今日、受洗を済ませたばかりの有寿であろう。

 家族とおぼしき者たちに支えられるようにして、青白い顔で壇上を仰いでいた。


 本来であれば、まだ夢魔の眠りを漂っている時間帯だが、神は身の去就きょしゅうを決めさせるために、彼らを覚醒させていた。

 

 もし彼らが望むのであれば、民たちが行き来する広い地下通路から城壁の外にのがれ出ることは可能だった。

 出入り口のところには兄王子らの兵士が詰めている筈だが、受洗に来ただけの民と分かればすぐに放免される。



 助かりたいと願う者は城から逃してやれという王子の命は、城内にいたすべての者たちに違わず伝えられ、その言葉を聞いた者たちのほとんどは陽世継ぎに殉じる道を選んだ。


 圧倒的な兵力を誇る兄王子らは、この城郭の薄い守りなど瞬く間に突破して、陽世継ぎに手をかけることだろう。

 そしてそれは、陽世継ぎに従おうとする者たちに対しても同様だ。


 ムーアの政治を掌握するために、彼らはこの王城を罪なき者の血で染め尽くす。



 それを知って尚、ここに集う者たちは簒奪者らに従うことを拒んだ。


 迫りくる時を前にして神への信仰は微塵も揺らぐことなく、ただ透徹な覚悟を眼差しに据えて、唯一の君を一心に仰ぎ見た。



「民よ」


 王子は地下祭殿に集う人々を慈悲の眼差しで眺め渡し、静かに口を開いた。

 数千人が収容できるほどの広さにも関わらず、精霊の加護に守られた王子の声は祭殿の隅々まで響き渡った。


「数千の兵がこの王城を取り囲んでいる。

 今宵、私は命を断ち、この先ムーアは滅びに向かって進みゆくだろう。


 彼らは神の怒りに触れた。

 神の怒りは彼らだけにはとどまらず、ムーアに暮らす民のすべてに向けられることとなる」



 思わぬ言葉に人々は息を呑み、そうした民の嘆きを静かに眺め渡しながら、王子は尚も言葉を続けた。


「今日を境に民は体に老いを刻み始める。大地からは恵みが失われ、飢えに喘ぐ民には更に病が与えらよう。


 耐えかねてムーアを逃げ出そうにも、神はその行く手を阻まれる。

 運よくカルライを超える事ができたとしても、その先に待っているのは、長きにわたる迫害と貧困の日々だ。


 …そしてムーアに留まれば、いずれ惨憺さんたんたる死がその者たちの元に下されるだろう」

 


 静かな啜り泣きがさざ波のように室を埋め尽くしていき、王子はそうした民の嘆きを慈しむような眼差しで眺め下ろした。



「神の怒りはあまねくムーアを訪れるが、いつの日か我らの罪は許される。

 闇の時代を経て我らが再び恩寵をいただく事を、今宵、夢視衆ゆめみしゅうが証しした。


 ここに集う者よ。


 貴方がたはその揺るぎない信仰ゆえに神の怒りを免れた。

 ムーアが再び神の寿を仰ぐ日まで、貴方がたはこの祭殿に留まって、深く長い眠りを揺蕩たゆたう事となる。


 神を仰ぎ、その慈悲を押し頂いて、ひたすら許しを請うように。

 敬虔な祈りこそが、汝らを遠き日の祝福へと導きゆくだろう」



 静まり返った室に焔が最後の苛烈さを増し、民のために祈りを捧げる王子を明々と照らし出す。

 荘厳な神意が大気を支配して、予言が成就に向かって動き始めた事を王子は確信した。



「民よ。

 十年寿の久遠くおんを浄化の時とせよ。

 今こそ神は我らの下に降り立ちて、汝らに祝福の眠りを授からん!」


 魂縛の誓約が唇から放たれた瞬間、神の焔が爆裂した。

 焔渦は瞬く間に室全体を覆い尽くし、祈りを捧げる人間もろとも、あらゆる闇を薙いでいく。



 運命さだめすら焼き尽くす焔の眩さに、傍らに控えるイーデンがたまらず腕で目を覆い……。






 気付いた時、イーデンは一人、無明の室に立ち尽くしていた。

 空気は冷たく澄んで冴え渡り、今まで人がいたという気配すらない。

 

 まったき闇と静けさに包まれて、イーデンは不意に、存在しているのは自分だけなのではという身の毛もよだつ恐怖に襲われた。


「我が君!」

 取り乱して声を上げるのへ、

「ここにいる」

 驚くほど近くで王子の声がした。


 ほっとして声の方を振り向くと、胸の中に王子が崩れるように倒れ込んできた。

 今の御業みわざで、おそらく力のすべてを使い切ってしまったのだろう。


「なすべき事は済んだ。後は…」

 何かを言い淀むように王子が再び口を噤む。


 イーデンは今度こそ、不安を胸に封じておく事ができなかった。


「今までここにいた人々はどこへ行ったのです。

 我らが再び寿を受け継ぐとは、一体……」


 王子はそれには答えようとせず、疲れの滲む声でイーデンに低く命じた。

「イーデン、ほのおを生み出してくれ」


「焔、を…?」


「お前は神に祝福された私の守陽しゅようだ。

 自然に宿る精霊のすべてが、私同様、お前に従う。


 指先に意識を集中しろ。焔を生み出したいと強く願うんだ。

 先の守陽ムーランもできた。お前もそろそろ覚えていい頃だ」


 イーデンは怯んだように身を強張らせた。


 不安をかきたてていく謎めいた王子の言葉の数々…。

 すぐにでも問い質したかったが、激しく疲弊した王子の様子に、イーデンは言葉を呑んでその命に従った。


 言われたとおりに気を集中させれば、技は呼吸するがごとく自然にイーデンの意思に従った。

 無明の闇に灯がともり、その灯に助けられてイーデンはゆっくりと辺りを見渡した。


 そこは先程と変わらぬ地下祭殿の中だった。

 ただし先ほどまで猛々しく燃え盛っていた神の焔は室のどこにも存在しない。


 恐ろしいほどの寂寞せきばくが空間を支配し、室を埋め尽くしていた人々の姿もまた、どこにも存在しなかった。


「一体…」

 戸惑うように辺りを見渡したイーデンは次の瞬間、鋭く息を呑んだ。


 祭壇を支える幾つもの石柱…。その石柱に、今までなかった精緻せいちな紋様がびっしりと彫り込まれていたからだ。

 ひざまずき、敬虔に祈りを捧げる人々の姿。髪の一筋に至るまで精巧に彫り込まれたその顔は…。


「ミアズ…!ムーロ……!」

 イーデンは呻くように叫んだ。


「私が再び還る日まで、彼らはここで眠り続ける」

 王子が静かな声でそれに答えた。


「それが彼らに与えられた運命さだめだ。

 夢視ゆめみたちが真実の夢を紡ぎ続けて、神に背きし者どもに殺されていくように」


 イーデンは取り乱した眼差しを王子に向けた。


 陽世継ひよつぎに殉じた人々は眠りにつき、夢視たちは真実を紡いで殺される。

 では、精霊の加護を与えられた自分はいったいどんな運命さだめを与えられるというのだろうか。


 王子は諦念が滲む寂しげな眼差しをイーデンに向け、そっと微笑んだ。

「寝所に戻ろう。

 あそこならば兵が踏み込んできても、多少の時間稼ぎはできる」






 ようやく寝所まで帰り着いた時、王子は力尽きたように壁に寄り掛かった。

 それでも迫り来る時を恐れてか、支えようとするイーデンの手を優しく払い、必死に寝台の方に歩いて行く。


 王子は寝台脇の等身大の鏡の前に立ち、枠にめこまれた宝玉の、右から三番目をぐいと押した。

 鏡が見る間に反転し、その向こう側に地上へと続く細長い階段が現れた。


「この階段は、東のピロウ山に続いている」

 王子は淡々とした口調でイーデンに告げた。


「山にも追手がかけられるだろうが、地に宿る精霊のすべてが追手からお前を逃そうとするだろう。

 お前はまず峰沿いについの谷へ行け。

 死の霧はお前には害をなさないし、周囲の山々には食べ物もふんだんにある。


 そしてほとぼりが冷めたころ、ユリアナを頼ってキサーロへ行くんだ」


 イーデン驚嘆きょうたんし、それ以上に身を焼き尽くすほどの激しい怒りに駆られて王子を睨みつけた。


「何の話をしておいでなのです!

 貴方をうしなって後、私に生きよとでも仰せですか!」


「……十年寿の後、私は再びこの世に生を受ける」

 王子は恬淡てんたんとそれに答えた。


「だがこのままの姿という訳ではない。

 新しいうつわを与えられ、記憶を失い、別の人格を持った人間として生まれ変わるのだ。


 誰がそんな私を見つけられる。

 新しい血肉に宿る、自分ですら意識しない魂の波動を誰が聞き分けると言うのだ。


 イーデン!お前しかいない。お前ならきっと私を見つけ出せる!

 どれほどの時が流れ、すべての民が私を見限ったとしても、お前は必ず私を見つけ出し、このムーアに私を導くだろう」



「…貴方は私に、ご自分を殺すようにお命じになった」

 イーデンは絞り出すような声で反論した。


「共に果てよという意味だと私は思っていた。

 貴方を殺して一人生きよと、貴方はそうおっしゃるつもりなのか!」


「私の血を肌に浴びる事によって、お前は時の風化を免れる。

 だから……」


「私にはできない!」

 イーデンは苦悶に声を詰まらせた。


「この手を貴方の血で染めて現世うつしよ彷徨さまよえと、そのようにむごい事を貴方は本気でお望みか!

 貴方を恋い、嘆きにのたうち、十年寿を…、百八十年もの長き時をひたすら闇に彷徨うろつけと…」


 それ以上、言葉は続かなかった。

 瞼の裏をほめくするイーデンの腕を掴み、王子は強く揺さぶった。


「何故わからぬ!生きたいと願うのはお前故ではないか!

 お前がいなければ、私はとうにこの虚しい生を手放していただろう。


 イーデン。お前の嘆きを、私が何も知らぬとは思うな。

 それを承知で、それでも私はお前との未来を夢見たいのだ。


 頼む、イーデン!私の最後のわがままを聞き届けてくれ!

 私の血を肌に浴び、時の果てにいる私をどうか見つけ出してくれ!」


 胸に縋って泣く王子を、けれどイーデンは抱きしめようともしなかった。

 両手をだらりと垂らしたまま、眼差しを遠い虚空に据え、ただ苦しげに言葉を絞り出す。



「貴方は残酷な方だ…」

 胸の中の温もりが、今のイーデンにはいっそ恐ろしい。


「貴方が何を望まれようと、貴方の望みを私が拒めよう筈がない。

 むごい事を…!

 貴方を殺して生き延びるなど、どうして私に耐えられようか…!」


 イーデンは血を吐く思いで呟き、震える両手を王子の体に回した。

 その柔らかな体をきつく抱きしめ、ただむせび泣いた。






 明後日で完結します。

 長い間お読みくださいまして、ありがとうございました。

 

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