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第二部 ひとひらの温もり

 そのまま踵を返そうとする王子を、イーデンは静かに押しとどめた。


「アデラ王女もお残りになられました。

 目通りを求めておられますが、どう致しましょうか」


「姉上が?」

 王子は驚いてイーデンを見た。


 アデラは第一王子リクイーンの同母妹で、二年ほど前に、第五王子ムーゾクに嫁していた。

 確か、今は懐妊しておられる筈だ。


 この謀反を余程嗅ぎつけられたくなかったのか、兄王子らは正妃、妾妃に関わらず、自分たちの妃をことごとく王城に残したままでいた。

 最悪、殺されても構わないという立ち位置だ。


 逃げたい者は王城を出るようにと伝えたため、兄王子の妃やサナ王女を含めた五十人近くが城を逃げ落ちたと聞いていたが、アデラ王女は行動を共にしなかったのだろうか。



 …身重の身でありながら自分を見捨てた夫君に不信を抱いておられるのかもしれないと王子は思った。


 ほとんど話した事もない異母姉であれば、何を考えているのかはまるでわからない。

 ただ、子を宿しておられる以上、子の父親の下に送り届けるべきだろうと王子は結論付けた。

 

「こちらにお通ししてくれ。

 お話してみよう」



 やがて現れたアデラは、ふくらみかけたおなかを庇うように王子の御前に膝をついた。

 久しぶりに見る姉は、深い心労のせいか顔色も悪く、その姿に王子は気遣わしげに瞳を細めた。


「親族の者たちは先程王城を出たと聞いています。

 お体がご心配なら、城門までお送りさせましょうか」


 王子の申し出に、アデラは首を振った。


「わたくしはあの者たちの下へ行きたくありません。

 親族の者からは一緒に城を出るよう言われましたが、わたくしは断りました」


 その言葉をどう捉えて良いかわからず、王子は一瞬押し黙った。

「…姉上をこちらに残して、謀反の兵を上げたムーゾク兄上をお恨みですか?」

 

 余程思いがけない言葉だったのだろう。アデラは一瞬瞠目し、それから、いいえと小さく笑った。


「わたくしを王城に残した事を恨んではおりません。むしろ幸運でした。

 謀反に加担した者たちと行動を共にしたいとは、夢にも思っておりませんでしたから。


 …陽世継ひよつぎの君。

 あの者たちは取り返しのつかない罪を犯しました。


 神に選ばれた陽世継ぎを葬って己が王位に就きたいなどと、そのような悪行あくぎょうを神がお許しになる筈はありません。

 亡き父上、アクヴァル王に対しても不敬極まりない事です」


 命を削り、国を支え続けた亡き父王を思い、ユーディスの面に慚愧と哀しみが走り抜けた。

 

 「…わたくしはこの一夜で、夫も母も兄も失いました。

 けれど今になって、わたくしは神の御心をはっきりと感じるのです。


 わたくしは多分、を継ぐ君と滅びるためにこの世に生を賜ったのでしょう」


 アデラは不意に喉を詰まらせた。

 透き通った涙が、頬にひとしずく流れ落ちた。


「死ぬ前に、わたくしは一言貴方に詫びたかった。


 貴方が陽世継ひよつぎに選ばれるまで、わたくしは貴方を弟とも認めておりませんでした。


 陽世継ぎの候補という理由だけでムーゾクの妻となり、わたくし自身、陽王ひおうの血を受け継いだ娘だという事に、傲慢なほどの自負心を抱いてきたのです。

 他人を見下す醜い心こそが、神の最も厭われるものでありましたのに。


 貴方はいつも誠実で、人を傷つけぬ確かな強さと慈悲の心をお持ちでした。


 を継ぐ君…。

 どうぞわたくしの罪をお許し下さい。


 わたくしは、貴方の足元にも及ばぬ身でした。

 今こそ死をもって、わたくしは自分の罪をあがないたいと思います」

 

 アデラはそのまま深く頭を下げた。

 

 王子は信じがたい思いで茫然とアデラを見つめていたが、やがて足早に歩み寄ると、その手を取ってアデラを立ち上がらせた。


「どうぞ面をお上げ下さい。

 姉上…。どう言葉を返せば良いのかわかりません。


 ただ、嬉しく思います。

 これほどありがたい言葉がいただけるなど、思ってもおりませんでした」


 喉元に込み上げてくる熱い塊を、王子はどうにか飲み下した。


 兄や姉たちから愛される事はとうに諦めていた。

 このまま弟とも認められる事なく、ただ憎まれて殺されるだけの身だと思っていたのに、死を間近にして望む言葉が惜しみなく与えられた。


 この喜びをどう言い表したらいいのだろう。

 この世に生を受けた事を、血を同じくする肉親から許された。

 どれほど心強く、そしてどれほどこの言葉に救われたか、きっとこの姉は気付いてもいないだろう。


「姉上。

 私はもはやこの運命から逃れられ得ない。今宵私は、死を選ぶ事になるでしょう」


 感謝と敬愛を眼差しに浮かべ、王子は静かにアデラに語りかけた。


「けれどこれは私にとって真の終焉しゅうえんではありません。

 百八十年の悠久を経て、私は再びムーアの地に足を踏み入れる」


「再び、ムーアへ……?」

 不思議そうに言葉を繰り返すアデラに、王子は小さく頷いた。


「王城に留まる者は、祭殿を彩る紋様の一つとなって、私の帰りを待ち続けるでしょう。

 貴女もまたすべてを信じて、私をお待ち下さいますか?」


 詳しい事は何一つ語っていないのに、アデラは砂地に水がしみ込むがごとく、何の疑念も覚えずに陽を継ぐ君の言葉を信じた。


「ええ」

 アデラは涙の滲む目でにっこりと微笑んだ。

「喜んで、陽世継ぎの君…」



 やがてアデラは深く一礼し、そのまま御前を辞そうとした。


 去りゆく後姿を見送っていた時、王子の脳裏に不意に一つの映像が浮かび上がった。


「あ…」

 吐息のようなあえかな声が唇から漏れる。


 アデラが不思議そうに王子を振り返った。

「どうかなさいましたか?」


「遠い未来…」

 王子は垣間見た夢に引き摺られるように、久遠くおんを見通す眼差しで言葉を紡いだ。

「貴女のおなかにいる御子が、次代の陽世継ぎとなります…」


 アデラは目を瞠った。

 未来を告げる夢は、それが陽世継ぎの口から出た以上、未来夢さきむとして成就する事を知っていたからだ。

 

 驚愕し、言葉を失ったのは一瞬だった。

 すぐにアデラは瞳を伏せ、穏やかな声でこれに応じた。


「…それが神の御心でありますならば」


 陽王の座は望んで得るものではなく、神から与えられた祝福を謹んでいただく事だ。

 必要以上に謙遜し、辞退する事は神の意に反する。


 敬虔な信仰に支えられたアデラはその運命を泰然と受け入れ、もう一度陽世継ぎに一礼すると、静かに場から下がっていった。





 アデラが退室すると、王子は疲れ切ったように椅子に深く身を沈めた。


 やがて扉が開く音が聞こえ、誰かが背もたれの後ろに立つのが感じられた。

 振り向かなくても気配から、王子にはそれが誰であるかわかっていた。


「焔の威力がいつにも増して高まっている」

 王子はうっすらと瞳を閉じ、微笑むような口調で語りかけた.


「何という力強さだろう。

 焔を扱ったばかりの私が未だ正気を保っていられるのは、そのせいだ」


 イーデンは椅子の背後から身を屈め、そっと啄むような口づけを王子に落とした。

「我が君…」


 王子は首を巡らせ、自らも腕を回してイーデンの頭を抱き寄せた。

 その唇を味わい、うつつを忘れてひと時の至福に酔う。

 


「お前の手で殺してくれ…」

 やがてゆっくりと唇を離した王子は、まるで睦言むつごとを囁くかのように、残酷な命をそっとイーデンの耳元に落とした。


「兄たちの手には掛かりたくない。

 守陽の焔剣で私を刺し殺してくれ」


 イーデンは一瞬体を強張らせたものの、覚悟はとうについていたのだろう。

 そっと体を引き剥がすと、包み込むような穏やかな眼差しで王子を見つめ下ろした。


「貴方の望まれるままに」

 

 一分の迷いもない剛毅な言葉に、王子は切なく微笑んだ。


 イーデンはおそらく命を断った後、自分もすぐに殉じるつもりなのだろう。

 現世うつしよに一人残されて、無辺むへんの時を切望と苦悶に過ごさねばならぬなどとは、夢にも思っていないに違いない。


 まだ知らない方がいいと王子は思った。

 この辛い運命さだめを知る時は、一瞬でも遅い方がいい…。



 王子は、先ほど唐突に自分を訪れた未来夢さきむを思った。

 夫、母、兄、親族全てを切り捨てて自分に従ってくれるアデラ姉上が生む御子こそが、後の世の自分の陽世継ぎとなる。


 百八十年後に王としてムーアの地に帰ったとしても、畢竟ひっきょう、自分は子を持ちはしないのだ。

 おそらくあまりに多くの苦しみをイーデンに負わせてしまうが故に、自分は妃を持つ事すらしないのだろう。



「済まない…」

 王子はイーデンの肩口に顔を埋め、打ちひしがれた声で呟いた。


 誰よりも大事だった。誰よりも幸せにしたいと願っていた。なのに……!


「許せ!

 私は仮借かしゃくなくお前を苦しめる…!」

 王子の声音は苦渋と嘆嗟たんさに満ちていた。


「…何を謝られるのです?」

 イーデンは不思議そうに呟いた。

「貴方をお守りできなかった私こそが、許しを請わねばなりませんのに」


 

 王子は苦しげに目を逸らし、何も答えようとしなかった。

 その不吉な沈黙にイーデンはふと押し黙り、訝しげに細めた瞳の先に鋭く王子を見た。


「我が君……?」

 イーデンが口を開くのと、躊躇いがちなノックの音が二人の間を裂くのが同時だった。


「陽世継ぎの君。

 すべての民が祭殿に集まりました」


 二人は身動みじろぎもせずに互いを見つめ合った。

 やがて溜めていた息を一つ吐き出し、王子が扉の方へと体を向ける。


「すぐに行く」


 不安を拭えぬまま、厳しい眼差しを向けてくるイーデンの背を王子はそっと押した。


「行こう。

 紡がれた夢を今こそお前に明かさなければならない」


 

 

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