第一部 美しき守陽
そもそもは、清月妃の兄、イーデンにとっては伯父に当たるムーランの、軽挙ともいえる唐突な死に始まった。
十五年前、ムーランを襲った悲劇はそのままムーアの存続を揺さぶる大事となり、ついにはトロワイヤ家の命運を一気に変える事となったのだ。
ムーランは美貌をうたわれた青年貴子で、現王アクヴァルの掛けがえのない主連だった。
主連とは、王族に仕える第一従者を指し、他の臣下とは明らかな差異を持って語られる。
その忠節は、自分が人生で持てる全てを主君に捧げるため、主連は主君の第一の側近であると同時に、貞節な恋人でもある事が常だった。
すべてを主君に捧げて忠節を尽くす見返りは、主君が陽世継ぎに選ばれるか否かで命運を分かつ事になる。
そして当時、まだ陽世継ぎでもなかったアクヴァルに激しく求愛され、二度目の降寿を待たずに匂い立つ十八の若さで時を止めたムーランは、後にアクヴァルが陽世継ぎに選ばれる事によって権力と栄華の頂点に押し上げられた、世にも幸運な主連であった。
陽の王や陽世継ぎの主連は、陽王の守護者の意から特に守陽と呼ばれるが、ムーランはそのアクヴァルの寵愛と執着を一身に受け、莫大な権力を手中にした美貌の守陽としてムーアにその名を轟かせた。
側にどれ程の美妃が侍ろうと、ムーランの美しさは女たちの色香を霞ませる。
精悍で男性的なアクヴァルと立ち並ぶ姿は、まさにムーアの春を思わせた。
アクヴァルはムーランを心より愛し、大切にしていたが、同時に奔放な恋の狩人でもあった。
王の周囲には蜜のように女が群がり、アクヴァルはその状況を自らも楽しんでいた。
子を生んだ月妃だけでも五人おり、一夜限りの相手などは数え切れない。
世継ぎのための月妃の存在には我慢できても、ひっきりなしに繰り返される恋の遊戯には到底我慢がならなかったのだろう。
痴話げんかは日常茶飯事であったが、ある時、姉妹を揃って後宮に入れた王の無節操さに、ムーランはついに怒りを爆発させた。
ムーランは王の制止を振り切り、王が大事にしていた愛馬のミヴを駆り立てた。
ムーランは以前、勝手にミヴを乗り回して王の叱責を受けたことがある。だからこそ、わざとミヴを選んで鞍をつけたのであろう。
盲滅法にミヴを走らせるムーランを、王は舌打ちと共に半ば本気で追いかけた。
体格のいい牡馬のミヴは、ムーランには荷が勝ち過ぎた。
ムーランは後を追う王の眼前で落馬した。
王は落ち着いた足取りで倒れ伏すムーランに歩み寄った。軽い叱責を与えようとするがごとく。
事実、ミヴが怪我をする危惧は覚えても、ムーランの事は王は微塵も案じていなかったに違いない。
ムーランは焔の祝福を受けて結ばれた陽の王の守陽であり、自然に宿る精霊すべてが、王同様ムーランを守護する事は、自明の理であったからだ。
王はムーランの上体を抱き起こしたが、ムーランはぴくりともしなかった。蒼白な顔を王の胸に預け、ぐったりと四肢を投げ出したままだ。
王は不意に激しい不安に駆られ、ムーランの体を揺さぶり、その頬を強く打ち据えた。何度も何度も名を呼び、湖水のように青い瞳を開かせようとした。
ムーランは目覚めなかった。
異変を嗅ぎつけた重臣が王の傍に駆け付けた時、王は尚も守陽の体をかき抱き、虚しくその名を呼び続けていた。
体はまだしっとりと温かく、目尻には乾ききらぬ涙が残されていた。死んだなどと、信じられるものではなかった。
地に叩きつけられる最期の瞬間、ムーランは無意識に精霊の加護を拒否したのだろう。でなければ、ムーランが守護を失って地面に叩きつけられるなど考えられない。
絶望と哀しみがムーランから正常な判断を失わせ、そして王一人が取り残された。
王は半狂乱になった。
ムーランを振り落とした愛馬を手に掛け、愚行を止められなかった馬丁を処刑した。
そして王はそのまま寝室に閉じこもった。ムーランの亡骸を狂ったように抱き締めたまま。
寿命を全うせずに死出の旅に旅立った民は、聖なる焔によって焼かれるのが常であるのに、王はそれをムーランに許そうとしなかった。
やがて亡骸は腐臭を漂わせ始め、困り果てた廷臣はムーランの妹、イリナを王の寝室に通した。
イリナは名門トロワイヤ家に嫁いでいたが、領地で兄の悲報を聞き、急ぎ王宮に伺候していたのだ。
誰も傍に寄せ付けようとしなかった王だが、ムーランと血を分けたイリナだけは、その存在を傍らに許した。
イリナも同じ悲しみを持ち、兄の死を心から悼んでいたからだろう。
イリナはムーランの亡骸を抱く王の傍らで、兄の思い出を静かに語り始めた。
兄がどんなに王を愛していたか、王に仕える事をどれ程の誇りとしていたか。イリナは澄んだ声で王に語り続け、王は涙を浮かべながらその言葉に聞き入った。
やがて夜が白み始める頃、王はイリナの腕の中で疲れ切ったように眠りに落ちた。
翌日、王はとうとう亡骸を焼く事をムーランに許した。慣例通りムーランは焼かれ、その灰は王自身の手によって終の谷へ撒かれた。
王はイリナの中にムーランの面影を求めようとし、その日から片時もイリナを離そうとしなくなった。
トロワイヤ家に、イリナを離縁してはという打診の使者が到着したのは、その一月後の事だった。王は慰めを得るためにイリナを抱いた。
使者はそのけじめの表れだった。
卿はそれを承知で王の申し出を断った。
卿は妻を愛しており、たとえ王との間に何があったとしても、その愛情が揺らぐ事はなかった。
卿は待ち続け、やがてイリナ懐妊の報せがトロワイヤ家にもたらされた。
イーデンは伯父ムーランの面影を僅かながらに覚えていた。悲劇の前年、母が王宮に兄を訪ね、幼いイーデンを紹介してくれたからだ。
精悍な王の傍らで、そっと首を傾けて話に聞き入るムーランは、この世の春とうたわれた美貌の守陽にふさわしく、のびやかな自信と輝くような若さに満ち、神とも紛う存在だった。
イーデンにとって、そんな伯父の姿は眩いほどに晴れがましく、同じ血を受け継いだ事をどんなに誇らしく思っただろう。
だが、それから二年と経たぬ間に、その死の波紋に巻き込まれて母を失い、後に父をも失った時、イーデンの心の中には深い憤りと憎悪が刻み込まれた。
王の守陽でありながら軽々しく命を散らしたムーランの軽率さ、亡き守陽の身代わりに権力づくで母をトロワイヤ家から奪い取った王の傲慢さ、そして何より、その元凶となったユーディス王子の存在そのものに。
イーデンは苦々しさを飲み下すように大きく息を吐いた。
王子に仕えると言っても、それは王子が有寿となるまでのほんのわずかな年月だけだ。
成人王族となった後も仕えて欲しいなどとは、さすがの清月妃も望まれないだろう。
となれば、この十何年かは捨てたつもりで皇子に仕えてみるのも悪くあるまいとイーデンは自嘲気味に考えを巡らせた。
何より王子の侍従ともなれば、それを口実にいつでも月妃に謁見を申し出る事ができる。
自分の卑しさを百も承知で、そうでも考えなければ抑えきれない憤怒と憎しみを、イーデンはひっそりと闇の中に噛み締めた。