第二部 王の崩御、そして…
夕暮が西の大地に迫り来る頃、その厳かなる畏怖の地はついに荘厳な奇跡を現し始めた。
一年寿近くもの間、谷を覆い尽くしていた死の霧が、まるで谷底に吸い込まれていくように下へ下へと這い降り始めたのだ。
薄暗さを増していく視界の中で、谷はその荒涼たる姿を人々の目に露わにしていく。
境界近くにあった木や草は下るにつれて切り立った岩肌となり、地へ底へ、遺骨の欠片を思わせる荒い砂を靡く風に撒き散らせた。
ぽっかりと広がる奈落が、地に残された血潮のような残光の前に痛々しい。
と、沈みゆく霧の後を追うように、王が陽世継ぎと共に静かに谷を下り始めた。
ついで清月妃が、そして年寿を終える八寿の民達が、乱れなく後に従っていく。
行き着く先に神の恩寵が待っている事を、彼らは露ほども疑ってはいなかった。
久遠の安らぎと歓びが、かの地には用意されている。一体何を恐れる必要があるだろうか。
どれほど谷を下った頃か…。
舞い上がる砂塵が闇を増していく彼らの足元を完全に遮断し、ついに一人が足を止めた。
最後の陽光が失われ、寂漠たる闇が谷を満たし始めたのだ。
別れを惜しみ、虚しく谷底を見つめていた人々も、闇が深まるにつれ、諦めたように次々と帰路につき始めた。
すでに道は分かたれた。
彼らは死にゆき、自分たちは生の営みを続けていく。
家路を急ぐ人々の間にあって、凛と背を伸ばした一団が、身を縛る寒さをものともせず、闇を増していく大地に立ち尽くしていた。
谷に降りた陽世継ぎの帰りを待つ、忠実な臣下たちだ。
彼らは、ゆったりと瞳を伏せる守陽の傍らに寄り添うように並び立ち、日の入りと同時に谷を訪れた死の霧を、敬虔な眼差しで眺めていた。
直に陽世継ぎは、父なる王に安らかな死を導いて、地の上に戻って来られるだろう。
そしてこの先、来年の新た月に新王が即位するまでのおよそ十か月間、ムーアは空位となる。
立ち込める深い霧の中、王子は膝に清月妃の頭を抱き、死の眠りについた父と母の顔を、静かな眼差しで見下ろしていた。
終焉の瞬間は、揺らめく時の流れを哀しいほど王子に感じさせた。
闇がしんしんと辺りを染め上げる頃、誰かが一人、神への賛歌を高らかに歌い始めたのだ。
一人、また一人と人々が唱和し、澄んだ歌声が薄闇に響き渡る中、白い霧がゆっくりと足元から這い上っていった。
歌声は次第にか細く消えていき、やがて死の霧がすべての人々の頭上を覆う頃、全き闇と寂滅が王子を一人包み込んだ。
父も母も苦しまずに逝った。
それだけが、この終の日の唯一の救いであったかもしれない。
最後の瞬間、救いを求めるように手を差し伸べてきた母の体を、王子は安心させるようにしっかりと抱きしめた。
母が自分に見せた、最初で最後の弱さ。
手を差し伸べた相手が、誰より憎み続けた当の息子であったとは分かっていなかったのかもしれないが。
それでもいいと王子は思った。
抱き寄せた瞬間、母妃が見せた心からの微笑みは、長い確執の果ての別れには、十分すぎる応報であったからだ。
闇が深く薫る頃、王子は地に残るイーデンを思い、星一つない闇空をひっそりと眺め上げた。
イーデンの下へ帰らなければならない。
だが今しばらくは、この無残に身を任せ、運命を哀れむ事をひっそりと自分に許して……。
絶対的な統治者であったアクヴァル王を失い、それでもムーアは、新しい陽世継ぎとその守陽を政治の頂点に据え、新たな時代を歩み始めようとしていた。
王の降谷から三か月を喪に服した後、五色月(五月)には国を挙げての陽王の葬儀が盛大に執り行われ、その三月後の焔満月には陽世継ぎによる時止めの儀式が控えていた。
終の谷へと下りた八寿の臣下に代わってムーアでは新たな貴族が要職に就き、前王の重臣に支えられた守陽が政治を主導していく中、表面上はこの上もなく平穏に時は過ぎていった。
ただ、どこかが何かおかしかった。
強いて言えば、それまで威勢を誇っていた四人の兄王子たちがあまりに静かすぎた。
王の喪に服するという理由で政務殿にもあまり姿を現さなくなった兄王子たちは、このところずっと、王城内のそれぞれの宮殿に籠りきりだった。
時々、中立派の貴族らを招いては贅を凝らした宴を開いている模様だが、王の死を悼んでという名目を口にされれば表立って苦言も呈しにくい。
アクヴァル王の逝去に伴い、残された五人の月妃はそれぞれ月太后に昇格したが、五人はいずれも静養を願い出ていて、今は王城にいなかった。
各地に散在する王家所有の別邸に移り住み、先に亡くなったばかりの王の冥福を祈っていると思いきや、生家繫がりの貴族を盛んに別邸に招いては金品を授受しているというから、こちらも何やらきな臭い。
兄王子やその親族たちの動きも気になったが、それよりも今は、王の死に揺れる人心を宥める事が治世者としての急務だった。
王子は陽を受け継ぐ神事の傍ら、陽王代理としての執務に忙殺された。
次の焔満月には、アクヴァル年寿最後の時止めの儀式を、王空位の状態で執り行わなければならない。
まだ一寿の陽世継ぎにのしかかる負担は心身ともに大きく、焔満ちを前に神の威が日々力を増していく中、政権の中枢部はその準備と対応に追われていた。
そしてようやく迎えた時止めの洗礼当日。
王子は年寿最後の年に時止めの洗礼を受けようとする民たちの前に、その秀麗な姿を現した。
時を待って僅かに面を伏せる陽世継ぎの匂い立つような美しさに、静かな感嘆と畏敬が室を染め上げる。
いつの世も統治者の美と若さは民の敬愛を勝ち取るものだが、ユーディス王子の場合もその例外ではなく、精悍な守陽を傍らに従えて聖壇中央に凛と立つ姿は、まるで謳歌する春を思わせる新しい時代の幕開けを民に感じさせた。
緊張した面持ちで受洗を待つ無寿の民と、壇上から静かに彼らを見下ろす十八人の儀廷官、そして室を埋め尽くす有寿の大観衆。
時満ちて、火焔はいよいよ眩さを増し、それはいつもと変わらぬ敬虔な洗礼風景の筈だった。
それとも……。
人々はそうした華やぎに敢えて心を向ける事により、指間から吹き込もうとする災いの予兆から、必死で目を逸らせようとしていたのかもしれない。
それは、ぽっかりと不吉な空席を見せつける聖壇下の御座所。
洗礼前夜、前王の早すぎる死に不可解な点が多いとムーアの中枢部に不満を表明した兄王子らは、ムーアの根幹をなす時止めの儀式への列席をいきなり辞退してきた。
つい一年前、身を弁えずに王座を望んだヨヒムを群衆の目の前で焼き殺し、同じ焔で末王子を後継者として選び取った神の意を、彼らは忘れてしまったのだろうか。
神の祝福と恩寵によって成り立つ栄華である事を忘れ、平然とその意を踏み躙ろうとする王族たちに怒りを覚えてか、室を染め上げる熾烈な焔柱は、いつになく激しく燃え盛った。
静かに息を吐いて、王子がゆっくりと顔を上げる。
陽世継ぎの拱手と共に儀廷官が一斉に地に叩頭し……。
そして時は満ちた。