第二部 届かぬ未来
知らせを受けたイーデンが足取りを乱して王子のもとに駆け付けた時、王子は寝台に仰臥して、静かな眼差しでじっと天井を見つめていた。
「お怪我は?」
そっと体をあらためようとするイーデンの手を、王子はうるさそうに払い除ける。
「何ともない。一人にしておいてくれ」
不機嫌だが張りのある声に、イーデンはひとまず安堵に胸を撫で下ろした。
「ご命令には従いかねます。
考え事をしたいとおっしゃるのでしたら、一言も口を利きませんが」
「…いやな奴だ」
王子は引き結んでいた唇を思わず綻ばせた。
弱みを見せたくない時、必要以上に突っ張ってしまう自分の性分を、イーデンはとうに知っているのだ。
「我が君」
イーデンは姿勢を正して王子の傍らに膝をつき、僅かな躊躇いの後、その言葉を口にした。
「王の崩御を前に、余計な騒ぎは差し控えたいとミアズが申しておりました。
そう取り計らってよろしでしょうか」
「……好きにしろ」
元より、騒ぎを大きくする気は王子にはなかった。
ヨーザの後ろには、力を持った貴族らが幾重にも控えている。
咎めだてしてもヨーザが自分の罪を認める筈もなく、かえって余計な軋轢を生むだけだろう。
夜も深く、凍てつく冬の冷気がしんしんと足元から上ってくるかのようだった。
王子は黙って天井を見続け、やがて乾いた声でぽつりと呟いた。
「イーデン。血など虚しいものだな」
陽世継ぎとなった今も、異母兄姉の誰も、自分を弟とは認めようとしない。
侮蔑を込めた嫌悪の眼差しが、羨望と憎しみに代わっただけの話だ。
お前さえいなければ…。
ヨーザのあの言葉こそが、兄姉が心に溜めている紛れもない真実なのだろう。
望まれた誕生ではなかった。
罪のない母を完膚なきまでに傷付けて、イーデンの父の血を啜り、尚もこの命は無用の業を生み出している。
そんな王子の様子を見かねたか、イーデンがふっと柔らかな吐息を零した。
「御身には私がついております。
今更何をお惑いですか?」
落とされた優しい声に、王子はゆっくりと顔を上げた。
主連を望んだ自分のために何もかもを捨て、自分に従ってくれたイーデンだった。
その事を忘れたことなど一度もない。誰に憎まれようと、イーデンが自分を望むのであれば、それだけで自分は生きていける。
「第一この私も、一応貴方の異父兄ではあるのですよ。
まあ、弟と思いきるには思い入れが強すぎて、なかなか冷静に振舞えませんが」
吐息混じりの言葉に皇子は苦笑した。
「私に対して冷静なお前など、あまり見たくはないな」
王子は半身を起こすと、脇に立つイーデンの体に腕を回し、強引に自分の方へ引き寄せた。
咄嗟の事に、イーデンはバランスを崩して王子の上に倒れ込む。
儀式前の潔斎を気にしてか、遠慮がちに身を離そうとするのを、王子は無理やり押しとどめて腕の中に身を滑り込ませた。
居心地のいい場所に顔を埋めて落ち着くと、イーデンも観念したのか吐息と共にそっと腕を回してくる。
広い胸の中で、王子は安らいで伸びをした。
イーデンからは温かな陽光の匂いがした。
真っ直ぐに燦々(さんさん)と降り注ぐ春の木漏れ日のような…。
「イーデン。私が王となって、すべての雑事も片付いたら…」
淡い吐息を闇に滲ませて、王子は緩やかに透けて広がる夢の続きを口にする。
「どこか二人で遠乗りに出かけないか?」
「いいですね」
イーデンも楽しげに相槌を打ってきた。
「堅苦しい侍従らは宮に残しておいて、貴方の好きなキエラ酒だけを持って参りましょう。
そうですね、後は何か適当に食べ物と…」
「サリューの森がいい。
きれいな森だといつかお前が言っていた…」
そんな風に二人で時を過ごしたいと、ずっと自分は思っていた。
ゆったりと大地に寝そべって草の香りを嗅ぎ、後はただ、イーデンが傍にいれば…。
木立の間から零れる眩いばかりの陽光。
手を翳して陽を遮り、眩しいと自分は文句を言うかもしれない。
イーデンは笑いながら、自分の体で影を作ってくれるだろう。
そして涼やかな風が、イーデンの淡い銀髪を優しくかき上げて…。
それは決して来る筈のない未来だった。
そのような日が訪れる事は決してないと苦しい程にわかっているのに。
「我が君…?」
イーデンは訝しげに王子を見下ろした。
胸に抱く皇子の肩が、まるで嗚咽しているように細かく震えていたからだ。
「お前さえ、私の傍にいれば…」
王子の声が涙にくぐもる。
いつの日もお前さえ無事でいれば。
お前さえ幸せでありさえすれば…。
幾度となく胸に繰り返し、けれど決して叶う事のない思い。
未来などどこにも存在しない。
暗い濁流を一人流されて、沈みゆく時を囲う当てのない漂流者のようだ。
喉元に流れ込む水を恐怖と共に飲み下しながら、今にも重く川底に沈んでいく自分を感じて、瞬きもせずに空を見上げている。
気の狂うような孤独と恐怖の最果てに行き着くのは、朽ちて漂う闇よりも濃い深遠な沼底か。
救いはない。この世のどこにも。
終の谷に眠る同胞たちの安らかな眠りすら自分には許されない…、そんな確かな予感がした。
「王子…?」
案じるような声の響きに、王子は精一杯表情を取り繕い、そっと面を上げた。
「何でもない。降谷を前に少し気が高ぶっているようだ」
雲が出ているのか、星すらも見えない漆黒の闇が白亜の宮を押し包んでいる。
静寂の中でただ体を重ね合わせ、服越しに伝わるイーデンの温もりだけを王子は偏に追った。
今はこの温もりさえあればいい。
未来を望む事が許されなくても、泡沫の夢に安らぐ事はできる。
「…清月妃は健やかであったか?」
ふと思い出してそう問いを口に乗せると、イーデンは僅かに身動いだ。
「…はい。穏やかな表情をしておられました」
死を目前にした最後の晩にも、清月妃はついに王子を宮に招く事はなかった。
まるで王の下に嫁いだ事がまやかしであったかのように、清月妃は姉とイーデンを傍らに呼び、共に過ごす時を愛おしんだ。
二人が幼かった頃の話をとりとめもなく話し続け、そして時折、亡き夫との思い出を懐かしそうに口にした。
辛酸を嘗めた人生であった事は、イーデンにも理解できた。
王子に対してはついに母になり得なかった清月妃だが、それを責める気持ちはイーデンにはもはや残っていなかった。
母を大事に思ったからといって、王子への愛情が薄らぐわけではない。
王子は母君の事をすでに許しておられるのだから、自分は思うままに母を愛し抜けばいい。
清月妃の下を辞する時、扉に向かうイーデンの背に、清月妃は躊躇うように言葉を掛けてきた。
王子は、疲れを溜めていませんか、と。
王子を気遣う言葉を聞いたのはそれが初めてで、どう答えようか迷った挙句、大丈夫ですとのみイーデンは答えた。
清月妃は、ならば良かったと小さく呟き、それが母との最後の会話となった。
このやり取りを王子に伝えるべきか迷ったが、清月妃の真意が読めなかったイーデンは、結局口にはしなかった。
会いたいとはっきり口にされたのならば、いくらでも労をとるが、清月妃はそこまで望んでおられない気がしたからだ。
いつか王子が清月妃を懐かしまれた時に、お伝えできればいい。
イーデンはそう思い、抱き寄せた王子の陽色の髪にそっと頬を埋めた。
それぞれの思いを胸に秘め、夜は静かに更けていく。
王子は一切を滅し去る完き闇を思い、闇の後に訪れる希望を希った。
王崩御は間近に迫っていた。




