第二部 兄王子の執着
王の居室を辞した後、王子は一人、人気のない回廊を歩いていた。
陽世継ぎとなって以来、常に護衛の騎士に周囲を取り巻かれ、自室以外では一人きりになる事が決してない王子だが、王の住まわれるここ陽宮だけは違う。
陽の王の在す宮殿であれば、たとえ王族といえども騎士の陪従は許されておらず、また警備も殊更厳重な場所であるため、わざわざ騎士を連れ歩く必要もなかった。
少し一人きりで歩きたいと告げれば、先導の従僕は心得て、何も言わずに下がってくれた。
慣れた回廊をゆったりとした歩調で進みながら、王子は先ほど与えられた王の言葉をひたすら心に反芻する。
〝どんな夢を紡いだとしても、救いは必ず与えられる。
神はそのためにお前を選んだのだから”
突き上げる未来夢は時が迫った事だけを頻繁に告げてくる。
救いはあると王は断言された。
ならば自分は、一体何を読み間違えているのだろうか。
あの未来夢が開かれて以来、夢の紡ぐ未来を覆そうと自分はただ必死だった。
イーデンを救うために自分は一体どう動くべきなのか。
誰を選び、何を捨てるべきなのか。
…未だに答えは得られていない。
果てのない孤独と恐怖に押し潰されながら、ひたすら無様に足掻いているだけだ。
そもそも何故、陽を継ぐ御力は、王位を望んでいた兄たちにではなく、生まれる予定もなかった自分に与えられたのだろう。
ムーランが生きていれば、母が王の月妃となる事はなかった。
六寿の王に子が授かった事自体も本来ならばあり得ざる話で、こうした不可解で不確かな事象が積み重なった先に、この苦い栄冠が今、自分に与えられている。
封印された未来は時が満つるまで開かれず、地を這う人間はただ待つしかないと言うのなら、何故夢は現在に向かって開け放たれるのだろう。
それともそのもどかしさと矛盾こそが、祝福を与えられし者の宿世だとでも言うのだろうか。
深い物思いは、いきなり腕を掴まれ、乱暴に脇部屋に連れ込まれた驚愕によって、突如断ち切られる事となった。
「あ、に上……?」
自分を壁際に押さえ込む男の顔を確かめて王子は思わず言葉を失う。
異母兄のヨーザが、どこか箍の外れたような冥い眼差しで、じっと自分を見下ろしていたからだ。
「何故、ここに……?」
ここは陽の王が住まう陽宮だ。いくら王子の身であっても、気軽に立ち入れるような場所ではない。
困惑も露わにそう問いかけるのへ、ヨーザはふんと鼻を鳴らした。
「私も王の御子だ。明日は儚くなられる父君にお会いしたいと願い出て、何が悪い」
それでは兄は、陽宮の侍従に取次ぎを頼んでいるという事だ。
経緯はようやく理解できたが、こんな風に壁際に押さえつけられているのは甚だ不快だった。
「…ならば、このような真似はなさらずに、控えの間で大人しく待っておられるべきなのでは」
「陽世継ぎになった途端、偉そうな口を利くようになったものだな」
ヨーザの言い様に王子は眉宇を寄せた。
「そのようなつもりは…」
「なあ、ユーディス。今度はどんな手で、父上を誑し込んだ?」
王子の言葉を遮るように、ヨーザは不意に、下卑た囁きを王子の耳元に落としてきた。
むっとして振り解こうとする体を強引に押さえつけ、その抵抗すら面白がるように、嘗め回すような目で弟王子を見つめてくる。
「王位が待ちきれなくて父君にねだってきたのか?
ムーランによく似た、そのそそられる顔と体で」
「………ッ!」
痛烈な侮辱に王子は蒼白となった。
思わず腕を振り上げるのへ、それを予測していたように利き足を払われて、そのままどうと背中から転がされる。
痛みに一瞬、息が詰まり、抵抗もままならない体に、二回りも大きい体がそのままのしかかってきた。
「何をする…ッ!」
「お前は私のものだ!」
暴れる弟王子の体を押さえつけ、劣情の籠った目でヨーザはそう叫んだ。
「最初に私がお前に目を付けたんだ…!
あの時私のものにしていれば、お前は今頃……」
…いつの頃からか、その美貌から目が離せなくなっていた。
卑しい出自の弟に欲情を覚える自分が許せず、手あたり次第、男や女を抱いたがどうしても満足できない。
魂は狂うようにユーディスだけを欲し、ついにはこの弟こそが自分の唯一だと思い知った。
稀有な美貌を愛でて、ずっと大切に愛おしんでやる筈だった。
それを手ひどく振った挙句、トロワイヤふぜいに身を許し、神の祝福までも鼻先からかすめ取った。
「お前さえいなければ…!」
望んだのは王冠か、それとも心を妖しく惑わす美貌の異母弟か…。
そのどちらも捨てがたく、身を焦がす渇望の激しさにいつの日か道を踏み外すと思い悟った。
それでも欲する事を止められない。
とことんまで堕ちて身を朽ちさせぬ限りは、灼けるようなこの妄念からは永遠に逃れられない気がする。
「止めろ!」
肌を這う不快な手の感触に皇子は鳥肌を立てて身を捩り、怒りにまかせて兄の頬を打ち据えた。
渾身の平手打ちにヨーザの顔が大きくぶれ、唇の端から涎の滲んだ血がしたたり落ちる。
床に落ちた血の赤さを目にした瞬間、ヨーザの形相が一変した。
「この野郎…!」
ヨーザはいきなり王子のみぞおちに拳を見舞った。
ぐっと呻いて頽れたところを、一気に衣を裂いてその肌を露にする。
えずきに喘ぐ体を力まかせに押さえつけ、剥き出しとなった細く白い首筋に、肉厚の舌をねっとりと這わせた。
「……放せっ…!」
王子は必死で抵抗したが、今度は喉元を押さえ込まれ、息をする事さえままならない。
次第に輪郭を朧にしていく視界の中で、王子は指に触れた金銅の剣飾を力まかせに引き千切り、死に物狂いで窓へと投げつけた。
けたたましい音と共に窓ガラスが割れ、破片が雨のように降ってくる。
覆い被さっていたヨーザが悲鳴を上げて上体を起こし、うろたえる巨体を王子は渾身の力で蹴り転がした。
完全に扉が閉まってなかった事が幸いしたのだろう。
ガラスの砕け散る音を聞きつけて、衛兵を連れた侍従が室内に駆け込んできた。
「何事だ…!
………ッ! ヨーザ、様…?」
上衣を引き裂かれて床に蹲る陽世継ぎと、そのすぐ傍らで荒い息をついている兄王子の姿を認め、侍従は色を失った。
陽世継ぎが陽宮を訪れるのと前後するように、いきなり王への目通りを願って陽宮に押し掛けてきたヨーザ王子だった。
すでに陽の王との別れは二日前に済ませており、突然の訪宮は不自然だったが、それでも目通りを願われるのであれば宮内に通さない訳にはいかない。
案の定、ヨーザ王子との面会を王は拒絶され、その言葉を伝えるために控えの間に戻ってみれば、ヨーザ王子の姿はそこになく、姿を探していた矢先のこの騒ぎだった。
何が起きたのかは一目でわかったが、どのように言葉を掛けて良いのかがわからない。
いずれも陽の王の血を受け継ぐ高貴な身であれば、一介の侍従には荷が勝ち過ぎた。
戸惑う侍従らを尻目に、ヨーザは倒れた拍子に掌に食い込んだガラスの破片をぺっと口で吐き出した。
悪びれた様子は全くなく、まだ息の整わない弟を嘲るように見下ろし、ゆらりと立ち上がる。
「ユーディス。未来を見誤るなよ。
トロワイヤではお前を守り切れん。きれいごとでムーアを治められると思うな」
ヨーザの捨て台詞に、王子はぎりっと奥歯を噛みしめた。
欲に塗れた卑劣な男だが、言葉には一片の真実があった。それが身を食むほどに口惜しい。
吐き気を堪え、殴られた鳩尾を庇いながら王子は立ち上がった。
額に汗の滲むような痛みより、今は悔しさの方が勝っていた。
イーデンに他の臣下らを抑え込むだけの力がないのは当たり前だ。
まだ一寿であり、本来ならば政治に名を連ねる事も許されていない。
その上、この自分こそが、イーデンが貴族としての人脈を広げていく機会を悉く奪った身であった。
今必死でその繋がりを取り戻そうとしているが、初めから王位を見据えて動いていた兄王子らとはそもそも立ち位置が違うのだ。
…アクヴァル王の死が近づくにつれ、ムーアの政治均衡は徐々に崩れを見せ始めていた。
比例する形で台頭してきた兄王子やその親族らの勢力を、ミアズやムーロといった重臣たちでさえ、持て余し始めている。
いずれ、アクヴァル王の側近たちは失脚するだろう。
名ばかりの王冠が自分の頭上に冠せられる時、ムーアは一体どの方向に歩を進めようと言うのだろうか。
「トロワイヤさえ余計な手出しをしてこなければ、お前はとうに私のものになっていた」
そうした皇子の葛藤が手に取るようにわかるのだろう。
優位を確信した声で、ヨーザは傲然と言い放った。
「私の手を取れ、ユーディス!
私ならば、他の重臣に対しても抑えがきく。
お前を名実ともに、ムーアの陽世継ぎとしてやろう!」
悍ましい申し出に、王子の全身から怒気ち上った。
この男の愛人になるなどと、考えただけで反吐が出る!
「そこを退け……ッ!」
王子は低く吐き捨て、ヨーザの脇を通り抜けようとした。
その手を強引に掴み寄せられる。
王子は大きく息を吐き、ヨーザの手を殊更ゆっくりと振り解いた。
怒りにも増す強い矜持が鮮やかにその双眸を染め上げる。
王子は内心の懊悩を冷ややかな笑みに変え、侮蔑も露わに兄王子に言い放った。
「私は陽世継ぎだ。貴方に媚びる必要はない。
恥を知れ……!」