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第二部 胸に秘める思い

 再び楽の音が奏され始め、王子は何事もなかったように、ムーロス卿へと向き直った。


「先ほどのヴェーナですが、以前から未来夢さきむを紡いでいたのですか?」


「いえ」

 ムーロス卿は首を振った。

「初めての事です。

 …まさかこのムーロス家から夢視ゆめみが現れるなど、考えた事もありませんでした」


 夢視ゆめみはムーア全土でも三十人いるかいないかといわれる希少な存在だ。

 神の言葉を代弁する者として、人々から王家に次ぐ崇敬を受けている。


「そうですか…」

 ムーロス卿の言葉に、王子は考え込むように呟いた。


「力の制御や心得などについて、いずれ、王家に属する夢視衆から直接教えを受けるべきでしょう。

 王への報告については、私からしておきますが」


 そう言葉を続けた後、王子は少し表情を和らげてムーロス卿を見た。


「ヴェーナの一件もありますし、近いうちに、皆で王都の方へにおいでになりませんか」


「王都へ?」

 驚いたように瞠目するムーロス卿に、王子は微笑んだ。


「ええ。

 ヴェーナがこれほど母君に似ておられるとは思いませんでした。

 清月妃がご覧になれば、さぞお喜びになるでしょう」


 それは禍夢まがゆめを紡いだ少女に微塵の不快も抱いておらぬという明確な意思表示に他ならず、ムーロス卿はその配慮に感謝する。

 ただ、最後に出された清月妃の名前には、気付かれぬ程度に息を呑んだ。


 ここキサーロでは、清月妃の名は久しく人の口に上っていなかった。

 王子が陽世継ひよつぎに選ばれる以前は、不義の子を生んだという余りに忌まわしい醜聞故に、王子が晴れて陽王ひおうの子とあかしされた後は、無実の妃を貶めてきたという忸怩じくじたる思い故に、やはりその名はキサーロで避けられてきた。


 そうした事情に薄々と気付きながら、王子は尚も笑顔で話を進めていく。 


「こうした返礼には、月を置いての打診が一般的ですが、それではかなり先になってしまいます。

 私としては、是非とも暮枯月くれこづき(十二月)の祝賀に来ていただきたいのですが」


 慣例を破っての訪宮の誘いに、ムーロス卿は笑みを絶やさぬまま僅かに瞳を眇めた。


 本来であれば、月を跨いだ新た月(一月)に打診があり、実際の訪宮はその翌月以降となる。

 特に来年はうるうの欠け月に当たるため、訪れるとしたら障りが済んで後の花見月はなみづき辺りとするのが一般的だった。


 何故、不文律を破ってまで陽世継ぎがこうも日を急ごうとするのか、ムーロス卿にはその意図が見えない。

 夢視は確かに夢視衆の教えを請わなければならないが、ヴェーナは無寿の身であれば、別段急ぐ必要もないだろう。



 しきたりを理由に辞退すべきだろうかと迷い、決心がつかぬままにふと隣の妻に目をやれば、そのユリアナが一瞬、縋るような目で自分を見つめてきた。


 ……母と会いたいのだ。


 唐突にムーロス卿は思い当たった。

 考えれば当たり前だ。ユリアナはもう、一年寿以上母と会っていない。


 清月妃の名が貶められていた状態では、会いに行きたいなどとは口が裂けても言える筈がなく、ユリアナはずっと我慢してきたのだろう。



 ムーロス卿は小さく笑みを浮かべた。


 清月妃の名誉が回復してからは、会いに行く事に何の障りもなくなったとはいえ、そのきっかけが見つからず、ユリアナはずっと行きそびれていた。

 弟からは度々誘いを受けていたようだが、キサーロからわざわざ王都に出向くとなれば、やはりそれなりの理由がいる。


 その理由付けが王家から提案されたのだ。

 何を躊躇う事があるだろう。


 心を定めたムーロス卿は王子の方に向き直り、深く頭を下げた。

「謹んでご招待をお受け致します」


 ムーロス卿の言葉にユリアナは顔を綻ばせ、王子もまたどこかほっとした様子で瞳を伏せた。


 その表情を見るともなしに眺め、この言葉を伝える事も来訪の理由の一つだったのかもしれないと、ムーロス卿は漠然とそう考えた。

 


 領地経営に専念し、ムーアの政治からは遠ざかっているムーロス卿だが、王城には多くの伝手つてを持ち、王都での動きは常に探らせている。


 その一端となったのは、義弟であるイーデンがユーディス王子の主連しゅれんに名乗りを上げたあの一件で、当時、妻が体調を崩すほどに悩んでいたため、必然的に王子の周辺を探らせるようになったのだ。


 そうして情報を集めるうち、王子について思わぬ事実も知り得るようになってきた。

 不義の子として醜聞の直中ただなかに生まれ落ちた王子だが、出生の後ろ暗さ以外、人としての瑕疵かしがほとんど見受けられない。


 卑しい血筋だと散々見下され、異母兄姉からは人とも思わぬ扱いを受けて来たようだが、それに対して不満を口にする事もなく、名を持たぬような仕え人からは、むしろその誠実で清廉な人柄こそを愛されていた。


 イーデンを主連に迎えた事で母妃との確執は決定的となり、ここ十年程は縁が途絶えていたが、不思議な事に、イーデンだけは半年ほど前から清月妃の下を訪れるようになっていた。

 王子の意に逆らってイーデンが動く筈はなく、おそらく王子がそれを許したのだろう。



 陽を継ぐ世継ぎと選ばれてからも、未だ清月妃の怒りは解けず、ユリアナもまた王子に対して感情をこじらせたままでいるが、王子の方はおそらく二人に対して他意を持っていない。

 二人が自分を憎む理由を知ればこそ、無条件にその言動を受け入れているという感じだ。



 酒杯に新たな酒をそそがれ、ムーロス卿はいできた相手に軽く会釈を返して、その杯を一気に飲み干した。

 陽世継ぎはと目を向ければ、ムーロス家の親族らが次々と酒器を持って陽世継ぎの下を訪れていた。

 一人一人から挨拶を受け、陽世継ぎは楽しげに言葉を交わしている。

  

 イーデンの周囲はトロワイヤ家の親族やかつての知り合いらが群がるように取り囲んでいた。


 それを見たムーロス卿はそっと笑みを深めた。

 社交の場でそれぞれ頭角を現し始めた彼らは、王子の要請を受けてムーロス卿が特に招いた者たちであったからだ。



 そもそも王子がこのキサーロを来訪の地に選んだのは、難しい政治運営を託されようとしているイーデンにかつての繋がりを取り戻させることが目的だ。


 王子の主連しゅれんとなった時、イーデンはそれまで当然のごとく手にしていた多くのものを失った。

 清月妃や姉のユリアナとの絆ばかりではなく、親しく付き合っていた親族や友人、知人、そして一寿の貴子たちが人脈を築いていくための社交の場そのものからも遠ざかってしまった。


 王子を貶める多くの者たちから王子を守るため、イーデンはそうならざるを得なかった。



 だが今、王子は陽を継ぐ世継ぎにと選ばれ、イーデンは早急に貴族社会を掌握していく必要に迫られている。


 イーデンの手足となり、支えてくれる者たちをイーデンの元に返してやりたいと王子は言った。


 そのためのキサーロ訪問であり、イーデンの力となれる者たちを宴に招待して欲しいと、王子は自分にそう頼んできたのだ。



 やがて余興の舞も終わり、楽師らが入れ替わり、別の演奏を奏で始めた。

 貴族らは和やかに笑み崩れ、贅を凝らした玻璃はりの杯が改めて皇子の下に捧げられる。


 と、王子が首を傾け、何やら楽しそうに傍らの守陽しゅように話しかけた。

 守陽は驚いたように目を瞠り、すぐに笑いを弾ませる。


 いずれも見目好い主従であれば、眩いばかりに美々しい二人の御姿に、並み居る有寿の間から思わず感嘆のため息が漏れた。

 それはまさしく、ムーアの春を思わせるきらびやかな天上の世界だった。



 幻想的な楽の音とさざめく笑いに包まれて、キサーロの夜は静かに更けていった。


 領主の娘が紡いだ不吉な禍夢は、酒の余興としていつしか人々の脳裏から忘れ去られた。






 陽世継ぎの一行が帰都する前日、ユリアナは突然、陽世継ぎの部屋に呼び出された。

 正式な召喚ではなく、侍女を通しての非公式の伝え事であったから、おそらくは人に知られたくないという意思の表れだろう。

 イーデンはちょうど夫と共に城下へ出かけており、時を計ったようなタイミングにユリアナは不快を隠せなかった。



 慇懃いんぎんに王子の御前に膝を折りながら、ユリアナは仰ぎ見る眼差しに敬意の欠片さえ滲ませない。

 そんな頑なな態度に、今なお消えぬくらごうを感じ取ったものだろう。


 ユリアナを見返す王子の瞳にたまゆらの寂しさが宿ったが、王子はすぐに感情を封じ込み、穏やかな笑みでユリアナを迎え入れた。


「このような形で呼びつけた事を、まずはお詫びします。

 どうしても火急に話したい儀があったので」


 礼を失せぬ静謐せいひつな物言いは、底に一片の悪意も潜ませない故に、憎しみに荒んだユリアナの感情を更にこじらせていく。


「わたくしにたっての願いとか。

 わざわざ一人の時にお呼びになったという事は、弟には聞かれて困る話なのでございましょうね」


 敵意を隠せないユリアナの言葉に、王子は微かに眉宇を寄せた。

「貴女が思っておられる類とは、少し異なるかもしれませんが…」


 王子は答えるべき言葉を模索して、そっと瞳を伏せた。

「そう…。おっしゃる通り、これから話す事は絶対にイーデンに知られたくありません」


 やはりという思いに、ユリアナはきつく唇を噛んだ。


 湧き上がる苛立ちを抑えようと、ついと窓の外へ視線を向けると、うららかに晴れ渡る小春日和が不意に雲で翳り、常緑樹の鮮やかな葉をくすんだ緑へと染め変えた。

 秋の気配がいつのまにかキサーロに忍び寄っている。


「私たちが初めてこちらへ来た晩、ヴェーナが紡いだ未来夢さきむを覚えておいでですか?」


「覚えておりますとも」 

 ユリアナの言葉は硬かった。


「あれ以来、ヴェーナは夢を紡ぐ事を恐れるようになりました。

 ただのたがえ夢だと皆は気にも留めていないようですが、わたくしはあの子の母親です。

 ヴェーナが紡いだあの恐ろしい夢を、生涯忘れる事はないでしょう」


「あの夢は記憶の隅に忘れ去られた方がいい」

 王子は何の抑揚もなく、そう応じた。 

「あれは決して紡がれてはならない未来夢であったのですから」


 ユリアナは不審そうに顔を上げた。

 不吉を孕む言葉に、胸の鼓動が俄かに高まっていく。


「どういう意味です」


 王子はしばらく無言だった。

 まるでユリアナに覚悟を突き付けるがごとく、ぴんと張り詰めた静寂に静かな時を重ねていく。


夢視ゆめみがあの未来夢を紡がぬよう、結界を張ったのは私です。

 だが、夢を封じる結界は血の近しい者に対してはしばしば無力に陥るもの」


「…一体何が言いたいのです」


「あの時ヴェーナは真実の夢を紡いだのです。

 近い将来、私はイーデンに刺し殺される事になるでしょう」


 ユリアナは凍り付いたように動きを止め、しばらくは声を発する事もできなかった。



「よくもそのような戯言ざれごとを…!」

 迸る憤りを言葉に出した瞬間、鬱積した長年の怨みも体の奥から噴き出した。


「イーデンがどれほど貴方に心酔しているか、それを一番ご存じなのは貴方ではありませんか!

 貴方がまだ王の御子とも認められていなかった時分、すべてをなげうって貴方に仕えたのはどこの誰です!

 下らぬ言いがかりをつけて今更イーデンをおとしめようなどと…!」


「イーデンの心を疑った事はありません」

 静かだが、断固たる口調で王子は言い切った。


「けれどおそらく、あの夢は成就するのです。

 何故あのような事になるのか、どうすれば未来を変えられるのか私にもわかりません。

 ただ、時が満ちてくる事だけは感じています」


「……それで?」

 ユリアナは怒りを抑え、冷ややかな嘲笑を唇に浮かべた。


「貴方はイーデンをどうなされるつもりなのです?

 災いの芽となるイーデンを葬り去りますか?

 いいえ!そんなまどろっこしいことをせずとも、紡がれた夢をそのままイーデンに伝えるといい。

 そうすればあの子は自らを恐れ、その場で死を選ぶでしょう!」


「……イーデンに告げるつもりはありません」

 対峙たいじする皇子の声に、初めて苛立ちが混じった。


「夢の通りに未来が開かれるとしても、その直前まで私はイーデンに知られたくない。

 イーデンを主連とした時、私は余りにも多くの犠牲をイーデンに強いました。

 これ以上の苦痛を負わせるつもりはありません」


 王子は言葉を切ると、ゆっくりとした足取りで衣桁脇の小卓子に歩み寄った。


「貴女に頼みがあります。

 私をいくら憎んで下さっても構わないが、この願いだけは聞き届けて欲しい……」





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