第二部 王子の望み
諦念に呑み込まれようとした時、不意にその肩を強く掴んで揺さぶられた。
「目を開けろ…!私を見るんだ!」
しなやかな指が顎を捉え、ようやく開いた眼に揺るがぬ眼差しを突き付けられた。
「お前は一体何を惑っている!
今がどういう時期なのか、お前には本当にわからないのか!
陽の王は半年を待たずに崩御なさる。その発表の時期を今、必死で見極めているところだ。
この事が公表されれば、ムーアはすさまじい恐慌に陥るだろう。年寿を全うせずに王が亡くなるとはそう言う事だ。
悠長に妃を選んでいる暇などない。どうせ今娶っても、一寿の私に世継ぎなど生まれはせぬ。
私の縁戚となって権力を手に入れたがっている輩は多いが、一人を迎え入れれば、次々と皆がそれに従い、収拾がつかなくなる。
お前にだってそれはわかっているだろう?」
タオーはリクイーンとアデラ兄妹の縁戚で、畢竟、アデラの夫であるムーゾクとも間接的に関わりを持つ。
一方のサナは、今は亡きヨヒムの同母妹だ。
それぞれが派閥を持ち、このまま政治の主流から外される事を一番恐れていた。
頭を冷やして考えれば、どちらを選んでも政治の均衡を崩すだけで、権力争いが激化するだけの愚かしい縁組だ。
双方の家から話を持ち掛けられたため、一応伝えてきただけで、今思えばミアズとてあまり乗り気でなかった気がする。
嫉妬に目がくらんで、こんな簡単な理すら見えなくなっていたのは自分の方だった。
王子はイーデンの肩にかけた手を放し、苦し気にイーデンを見つめた。
「お前が大事だと何度も言った。これ以上、私に何を誓わせたい。
いずれ私が妃を娶らねばならないとしても、その事で私が平気だとでも思ったか」
不意に琥珀の瞳から零れ落ちる涙に、イーデンは息を呑んだ。
「欲しいものは何でもやる。命も心も体もすべてお前のものだ。
何故、私を信じようとせぬ。
お前が私を支え、ここまで導いた。この先もお前なしではすべてが虚しい。
妃の話が出ただけで私の心を疑うのなら、私は一体何をお前にやればいい…!」
「我が君…」
矢も楯もたまらず、イーデンは王子の体をかき抱いた。
胸の中に包み込んだ確かな温もりから、癒しえぬ焦燥と苦慮が伝わってくる。
「何故……」
何故、御力を受け継いだのがこの方だったのだろう。
欲に駆られた幾つもの腕が、転がり落ちる王冠を待ち侘びていたというのに。
唇をついて出た言葉の先を、イーデンは喉の奥に飲み下した。
決して口にしてはならない問いだった。
口にしたところで、何ら運命を変える事も出来ない…。
イーデンは王子の体をそっと離すと、飢餓と渇望を込めて切なく王子を見下ろした。
「イーデン…」
吐息のような声は、そのまま唇に呑み込まれる。
肌を探るイーデンの指が耳朶を這い、白い首筋に落ちて皇子の頭を更に引き寄せた。
その夜イーデンは、鬱屈した思いのすべてを吐き出すように、執拗に王子の体を駆り立てた。
法悦の限りを尽くして果てはなく、狂うほどの歓喜が蜜となって闇を忘れさせる。
あるいは、闇を忘れようとしたのは王子の方であったかもしれない。
突き上げる未来夢から逃れようと放恣に夜を貪り、王子は遍く忘我を追い続けた。
今はただこの温もりに包まれて。
甘く纏う現の蜜だけを味わって。
翌朝、出仕の身支度をイーデンに手伝わせながら、王子はふと気付いたように襟元の釦にかけていた指を止めた。
「何か?」
訝し気にイーデンが問い掛けるのへ、王子は一瞬言い淀むように唇を引き結んだ。
「イーデン、キサーロに行ってみないか?」
何の脈絡もなく突然振られた問いに、イーデンは戸惑った。
「キサーロに、ですか?」
キサーロには姉のユリアナが住んでいる。
王子の主連となる時に喧嘩別れして一時期は連絡が途絶えていたが、清月妃と会い始めたあたりから、再び文のやり取りを交わすようになっていた。
イーデンとしては、来年の欠け月までに母と姉を何としてでも会わせてやりたく、幾度となく姉を王都に誘っているのだが、未だ色よい返事をもらえていない。
自身も忙しい身であれば、これ以上時間も割けず、もどかしい状態が続いていた。
「以前から、お前の姉君にお会いしたいと思っていたんだ」
困惑した様子のイーデンに、王子はそっと瞳を伏せる。
「この身に流れる血のせいかもしれない。どうしても一度お会いしてみたいんだ。
…姉君は、私が無理やりお前を主連とした事を、まだお腹立ちだろうか。
障りがなければ、王崩御の発表がなされる前、まだいくばくかの自由が利くうちにキサーロへ行ってみたいのだが」
イーデンは押し黙った。
姉の文を見る限り、姉が未だ王子に対して嫌悪や反発のようなものを覚えている事が感じられる。
そもそも姉が主連を反対したのは、王子の不確かな将来性に不満を覚えたからではなく、それを含めた出生そのものに端を発したものだ。
王子が華やかな地位に就いたといって、その確執は簡単に水に流せるようなものではないのだろう。
「ああ……、余り賛成できませんが」
どう伝えていいものかわからず曖昧に言葉を濁すイーデンに、王子はふっと顔を上げた。
その言葉だけで、ユリアナが自分の事をどう思っているか敏感に感じ取ってしまったからだ。
それならばそれで仕方がないと王子は思った。
ユリアナの感情がどうであれ、王子はどうしてもキサーロに行きたかった。ユリアナに会わなければならない理由があったからだ。
だから、何食わぬ顔で言葉を続けた。
「何故…?
都を空ける事を気にしているのなら、数日程度なら構わぬとミアズが言っていた。
時期が時期だけに、単なる遊びで開けられるのは困るとも言われたが」
「…驚きですね。もうそこまで話が進んでいるのですか?」
自分だけが蚊帳の外に置かれた事が面白くなかったのだろう。どこか拗ねたようにイーデンがそう言ってきたので、王子は小さく笑った。
「そうじゃない。
ミアズはキサーロの名前など知りはしない筈だ。
以前何かの拍子に、陽世継ぎたる者が王都以外を全く知らないというのは問題があると漏らしたから、数日程度都を空けてもいいかと聞いただけだ」
王子は言葉を切り、小さく息を吐き出した。
「実を言うと、私が少し王都から離れたいんだ。
ここは焔の気が強すぎて神経が休まらない。
イーデン。だからと言って、口実に姉君を利用しようというつもりはないんだ。
私の最初で最後のわがままだと思ってもらっていい。
姉君に渡りを付けてもらえないか」
イーデンは難しい顔で考え込んだ。
困っている時の癖で無意識に唇を噛んでいる。
確かにここ二、三か月、王子が精神的にかなり参っている事には気付いていた。
陽世継ぎとしての重圧ばかりではない。
覚醒して間がない王子は、自らの不安定な御力を制御できず、無意識に焔の気を煽り、そのことで余計精神を疲弊させてしまうのだ。
王子の言う通り、今は一時的にでも王都から離れた方がいいのかもしれない。
だが、その逃げ場がキサーロというのでは、イーデンはやはり諸手を挙げて賛同しかねた。
今を輝くムーアの陽世継ぎに姉があからさまな無礼を働くとは思えないが、培われた怨嗟は余りに激しく深いものだ。
どうせ王都を離れるというならば、純粋に王子が寛げるような場所を自分は用意すべきなのではないだろうか。
逡巡するイーデンの体に、王子はそっと腕を回した。
「歓待されようと思って行くんじゃない。ただ、会いたいだけだ。
もし、姉君が未だ私を悪く思っていられたとしても、表立って態度に出されるような真似はなさるまい。
お前はいろいろと考えすぎる。
今更私が何に傷付くというのだ」
穏やかな笑みと共にそう畳みかけられて、イーデンはそれ以上反対できなかった。
イーデンは降参の吐息を一つ落とし、キサーロ行きを承諾した。




