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第二部 栄華の中の懊悩

 まず与えられたのは、代々の陽世継ひよつぎが居殿として住まう、名高い白亜の宮だった。

 アクヴァルは四寿で王に即位したため、三年寿以上も前から新しい主を待ち侘びていたその宮は、無人であった時代の翳りすら見せず、入念な手入れを施されて新たな陽世継ぎに明け渡された。


 塵一つなく磨きたてられた室内、きれいに刈り込まれた庭園の緑。カーテンや寝具などはすべて新調されて、厨房には新しい薪が山のように積み上げられた。


 王子に仕える宮人の数は十倍以上に加増され、新しく雇い入れられた大勢の仕え人がその白亜の宮に移り住んだ。

 

 衛兵や従僕、女官から料理人、馬丁、庭師に至るまで、大勢の宮人が賑やかに白亜の宮を行き来して、その中を廷臣らがひっきりなしに祝辞を述べに訪れる。



 神の祝福もまた目に見える形でムーアを訪れ、陽世継ぎが定まるや否や、それまでの旱魃かんばつが嘘のように大地には恵みの雨がもたらされた。

 乾いた地に水が染みわたり、作物は命を吹き返して、豊かな実りへと導かれていく。



 民はこぞって新しい陽世継ぎを祝福し、陽世継ぎを与えたもうたムーアの神に深い感謝を捧げた。



 そんな中、王子の周囲では国をあげての祝祭行事が目白押しとなっていた。

 即位式典に続き、宮中晩さん会、陽宮ひのみやでの祝賀行事等々。


 典儀と並行して、厳格な陽世継ぎ教育も王子の周辺で進行し始めた。


 王子は連日祭殿に拝し、日中の半分以上を王や式典官らと過ごす事になる。

 焔の扱いを覚え、陽世継ぎのみが許される秘儀を覚え、儀式や法令の細部に関わる故事を精緻せいちに覚え込んでいくためだ。

 その合間を縫って重臣や主だった貴族らとの親交を深め、政治に関わる部分を学んでいく。


 イーデンはそうした王子の傍らに、いつも従っている訳ではなかった。

 むしろ王子とは別行動をとることが多くなったと言っていいだろう。

 一王族の主連でしかなかった以前と異なり、イーデンもまた陽世継ぎの守陽としての責任を強く求められるようになったからだ。



 けれどそれは同時に、ある意味非常に危険な、政治の均衡を崩しかねない不穏な要素をはらんでいた。


 何故なら、イーデン・トロワイヤはまだ一寿。

 本来なら、ムーアの政治に関われるような年寿では到底なかったからだ。


 どれほど稀有けうな血筋を引こうと、どれだけ有力な親族が後ろに控えようと、二寿にも満たぬ貴子が政治の表舞台に名を連ねた事はない。


 だが重臣らは、その不文律を知りながら、敢えて禁を犯した。

 それ程に、時は急を要していたからだ。


 まだ公にはされていないが、翌年の欠け月、約半年後にはアクヴァル王は崩御する。

 そうなればこのトロワイヤこそが、次代の王の守陽しゅようとしてムーアの政治を動かしていかなくてはならない。

 トロワイヤが二寿になるのを、安穏と待っているような暇はないのだ。



 来るべき時を見据え、トロワイヤは国政に関わるあらゆる権利を王から与えられた。

 それがどれほどの羨望を生み、屈折した憎悪を燻し出すか、王も重臣も思いを巡らせるいとまもない。


 だが、華やかさから完全に締め出される形となった人々にとって、この人事ほど彼らの神経を逆なでするものはなかった。


 彼ら……、王位への道を絶たれた兄王子とその親族、取り巻きらは、自分たちの指の間から滑り落ちていった栄耀栄華を忘れ去ることができなかった。


 何故、選ばれたのが、最下層にいた筈のあの王子なのか。

 生まれる筈のなかったあの末の王子のせいで、何故自分たちが何もかも失わなければならなかったのか、と。


 見せかけの服従と追従の笑みの下に、憤懣と憎悪はくすぶり高まっていく。

 そして軽忽けいこつな取り巻きらはそれを諫めるどころか無責任に煽り立て、増幅させた。



 次の世にムーアをする(は)王子だけが、唯一その不穏な波のせせらぎを聞いていた。


 それは魂を凍らせる凶事への波音だった。

 不自然なひずみがいつの日か大きな渦に変じ、おのが身とムーアを襲う事を、王子は確信した。


 その凶事をおそらく自分は防ぎきれない。

 どのように力の均衡を保っていけばいいのか、どう未来を導いていけばいいのか、王子にはまるで分らなかったからだ。


 権謀術数けんぼうじゅっすう渦巻く宮廷を手探りで進もうとする陽世継ひよつぎの王子を、未来夢さきむが頻繁に突き上げる。

 王子は夢に結界を紡いだ。かつて父王が、自らの死を告げる夢に結界を張ったように。


 この未来夢は誰にも知られてはならない。

 もしこの夢が万が一にも夢視ゆめみたちに紡がれてしまえば、自分はイーデンを失ってしまう。


 そうして王子は一人、覇者の孤独を浮遊する。

 何故自分にこの御力が与えられたのか、神は一体、何を自分に望んでいるのか、誰にも問うことが許されぬまま…。






「何を考えている」


 いつになく厳しい王子の言葉に、イーデンははっと夢から覚めたように顔を上げた。


 王を囲んでの晩餐の宴が終わり、つい先ほど宮の寝所に帰ってきたところだった。

 夜酒を持して控えていた筈が、いつの間にか深い物思いに囚われていたらしい。


「何でもありません」

 

 イーデンは言葉少なに王子の背後に回り、その肩口からそっとローブを脱がせた。


 夏を超し、この方は痩せられたと改めてイーデンは思う。

 暑さのせいばかりではない。

 おそらくは陽世継ぎとしての重責と多忙が拍車をかけているのだ。


 毎日寝所を共にはしていても、恋人としての夜を久しくイーデンは持っていなかった。

 ものも言う気力もないほどに疲れ切って宮に帰ってくる王子を寝所に抱き運び、幼子のように腕に抱いて眠るだけだ。


 自分の傍らで柔らかな寝息を立てる体に、甘やかな焦れを全く感じなかったと言えば嘘になる。

 悪夢にうなされる体を揺すってやり、温もりをせがむ唇を優しく塞いでやりながら、むしろその傍らで、満たされぬ血のたぎりを一人持て余す夜の方が遥かに多かった。


 だが、想いを抑え、闇に息を滲ませた幾多の夜さえも、いつの日か自分は泣きたいほどの慕わしさで思い起こし、あの頃に戻りたいと天を仰いで嘆くのだろうか。



 迫りくる別離を予感してひっそりと吐息を呑み込んだ時、不意にその手を強く掴まれた。

 衣桁いこうに掛けようとしていた絹のローブが指から滑り落ち、はらりと床に舞っていく。


「王子……?」


 不審げに面を上げたイーデンは、自分を見据える王子の刺すような厳しい視線に気圧けおされたように身動みじろいだ。


「タオーの娘との話を聞いてきたのだろう?」

 無意識に身を引こうとするイーデンの腕を、王子は強引に掴み寄せた。


「それともお前の心を惑わせているのは、異母姉のサナとの婚姻話か?

 今更、聞いてなかったなどと、下手な逃げは私に打つなよ。

 そのたぐいの話は、私に届くより先に、まず守陽のお前の方に行く筈だ。

 お前……」


 王子はイーデンの狼狽を嘲笑あざわらうように、はっきりとイーデンの目を覗き込んだ。


「何故私に聞いてこない。ミアズ辺りを間に入れて、それでもお前は私の守陽か!

 何故、何も聞かぬ振りで黙り込んでいる。

 それとも直接私に問えぬほどに、それ程お前は臆病か…!」


「臆、病……?」


 思いもよらぬ罵倒ばとうに、イーデンの頬にかっと血が上った。



 確かに、それはつい先日ミアズから直接預かった話だった。陽世継ぎに妃を選ぶ話が方々で出始めていると。


 その瞬間、イーデンの胸に去来したのは、かつての守陽、叔父にあたるムーランの嘆きに満ちた栄光の日々だった。


 臣下の頂点にまで上り詰め、望んで得られぬものなど何もなく、眩いほどの王の寵愛を仰ぎながら、惜しまれる命に自らの手で終止符を打った悲劇の貴子。


 その短慮さに歯噛みし、誰よりも憎んでいた筈の自分に、同じ懊悩が喉元に突きつけられようとしていた。

 王子をとぎの女たちと共有せよと。

 王家のため、何よりムーアの繁栄のために、陽世継ぎの閨房けいぼうから目を背けていよと。


 虚ろな闇がゆっくりと自分を包み込むのを感じながら、イーデンはまるで他人事のように、定められた言葉を口にしていた。

 …よろしいように。お話を勧められる事に一切の異論はありません、と。


 いにしえより繰り返されてきた欲に満ちた闇の儀式。

 血筋の良い娘たちが生家の行く末を賭けて陽世継ぎの寝所に上がり、寵を得ようと競い合う。

 運良く子に恵まれれば月妃に立后でき、王宮に宮の一つも与えられるだろう。



 次代の権力図が見え隠れする王の私生活において、唯一、閨房に上がる女性の進退に口を挟めるのが守陽だった。


 だからこそミアズは一番に自分の耳に入れてきたのだ。

 あの時点でイーデンが否と言っていれば、おそらくあの話は立ち消えになっていただろう。


「それで貴方はどちらを選ばれるおつもりです?」

 平静に問い質すつもりが、湧き上がる妬心を抑えきれず、つい尖った口調となる。

「タオーの娘ですか?それとも姉君のサナ様を?」


 イーデンの言葉に、王子は眉宇を潜めた。

「面白くもない戯言ざれごとだ。どこまで本気なのかは理解に苦しむが…」


「これ以上の本気はありません」

 疼く胸の内を抑え込んで、イーデンは挑むように王子を仰いだ。


「妃を娶り子をなす事は貴方の義務だ。

 その相手が誰であろうと、私には爪の先ほどの違いもない。

 だからこそ、どちらがいいかお聞きしている。それとも心が定まらぬのであれば、いっそ両方を妃に迎え入れられたら如何です?」

 

 王子は大きく目を瞠り、信じられないという風にイーデンを見つめた。


 と、やにわにその手が振り上げられ、

「この馬鹿が…!」

 怒声と共にイーデンは頬を張られた。


 イーデンの足は揺らぎもしなかった。けれど、手加減なしの平手打ちに口の中が切れ、みるみる血の味が口中に広がっていく。


 苦い血の味だった。

 これで何もかもお終いなのだと、呵責なく思い知らされるような。


 イーデンはぐったりと瞳を閉じた。

 奈落にも似た絶望がイーデンの心を押し包む。

 そうして自分は取り残される。もはや自分が傍にいなくても、この方は前に向かって進んで行かれるだろう。




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