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第二部 憑夢に漂う

 慌ただしく人の声が入り混じり、乱れた足音が近づいてきた。

 結界の間で一人端座していたイーデンは、大きくなるざわめきにはっと顔を上げ、扉の方を見た。


 時を移さず、重厚な扉が開け放たれる。

 先導の儀廷官が両扉を押し開く中、二人の重臣に脇を抱えられた王子が、半ば抱きかかえられるように室内に担ぎ込まれた。


「我が君…!」


 ぐったりとおとがいを反らした王子の、死人とも見紛う顔の青白さに、イーデンは血相を変えて王子に駆け寄った。

 しつらえてあった寝台に王子はそのまま横たえられる。

 すでに王子の意識はなく、蝋のように白い面に陽色ひいろの髪がまるで藻のように汗で重く張り付いていた。


「儀式はすべて終了しました」

 ミアズの落ち着いた声がどこか耳に遠い。


「何度となく焔の紡ぐ憑夢ひょうむに取り込まれそうになりましたが、そのたびに王が力を尽くして王子をお守りになりました。


 同化したほのおが昇華するまでの三日間、憑夢とうつつを行き来されるでしょうが、地下祭殿に身を置く限り、命の気が途絶える事はありません。

 心して陽世継ぎに仕え、守ってほしいと王よりのお言葉です」



「承知しました」

 元より、王子より目を離すつもりはない。


 只人であるイーデンには憑夢が紡ぐ狂気など知る術もないが、洗礼時の夢魔以上に過酷なものだとは伝え聞いていた。

 神の焔を扱う苦しみは、あの頑健なアクヴァル王でさえ、苦痛の余り悶え叫んだというから、その凄まじさは察して余りある。


 憑夢は人間のあらゆる憎悪や悪意、呪詛を宿して精神にとりつくため、感情に走った陽世継ひよつぎが守陽しゅようがほんの僅か目を離した隙に自刃して果てたという悲劇も過去にはあった。



 王子の額に浮かぶ汗を、起こさぬように静かに手巾で拭いとる守陽の様子をしばらく眺め、「我々はこれで」とミアズは低く声をかけた。

 

 アクヴァル王は、自らがもだえ苦しむ姿を家臣に見られる事をひどく嫌っていた。


 紡がれる憑夢は、苦しい過去を暴きたてる。

 おそらくは、最愛の守陽を失ったあの日の夢を、王は繰り返しご覧になられていたのではないだろうか。


 自分の愚かしさを突き付けられ、魂の一部をもぎ取られるような喪失と絶望を当時のままに再現し、王は多分、この寝所で泣き喚かれていた。

 拳を壁に叩きつけ、怒りにまかせて暴れ叫び、三日目の夜が明けて寝所に迎えに上がれば、調度類は滅茶苦茶に壊されて床に散らばり、王の手足には無数の傷がついていた。


 その苦悶を見ていられず、傍控そばびかえを幾度となく申し出たが、その度に王に断られた。

 神の力を具現する身であれば、そなたたちの前であの醜態を晒す事は耐え難いと。

 

 陽世継ぎもまた、同じように思われるだろう。



「続きの間に、侍従を数名控えさせております。

 何かありましたらお申し付けください」


 ミアズの言葉に、イーデンは頷いた。

 今までずっと、二人だけの世界で生きてきたようなものだった。憑夢の夜を二人で過ごす事に異論はない。



 ミアズらが下がり、しんと静まり返った室内で、イーデンはようやく二人きりになれた王子に目を向けた。


 王子は枕に頭を預け、死んだように眠っていた。

 同じように精霊の加護を受けた身であれば、弱くなった生命の気を、神の炎が内側から温めようとしている事をイーデンは感じ取る。

 

 本当に陽世継ぎになられたのだと、イーデンはぼんやりと心にそう呟いた。

 つい昨日まではムーアの命運などどこか他人事であったのに、直召喚ちょくしょうかんで次代の陽王ひおうの座を約されたのは、我が王子だった。

 落差が激し過ぎて、俄かに信じられるものではない。

 

 イーデンは力なく寝台に投げ出された王子の手を両手に取り、そっと頬に押し当てる。

「つらい時にお傍を離れていて、申し訳ありません」


 僅か一寿の身であの猛々しい神の焔を身に扱い、どれほど疲弊された事だろう。

 傍らに控える事ができなかった事が、ただ口惜しい。 

 

 そうして飽くことなく王子の顔を見つめていた時、髪を乱して横たわる王子の瞼が不意にうっすらと動いた気がした。

 イーデンは眉宇を寄せ、王子の顔を覗き込んだ。


「我が君…?」


 呼びかけに応じるように、王子の朱唇が微かに動く。

 震える吐息が唇から零れ、やがてその双眸そうぼうがゆっくりと開け放たれた。


「……ッ!」


 イーデンは思わず息を呑んだ。

 見慣れたその眼差しをまったき虚無が深く彩っていたからだ。


 それは一縷いちるの希望、一片の救いすら存在しない寂漠じゃくばくたる闇だった。

 その闇こそが憑夢の最果てなのだと、ふるえる思いで思い知った時、彫像のごとき王子の顔が見る間に歪み、苦悶の叫びを迸らせた。


「誰か…!イーデン……ッ!」


 荒ぶる悲鳴が絢爛けんらんたる室に響き渡る。

 王子は虚しく空を掻き毟り、憑かれたようにイーデンの名を呼んだ。細い肢体が仰け反り、狂気を孕んだ白い面に大粒の汗が浮かび上がる。


 身悶える皇子をイーデンは慌てて抱き込んだ。

 暴れる体を抑え込み、何度も強く王子を呼び続けた。


「我が君…!我が君……ッ!」


 重ね合わせた体から、日常の意識の奥底に封じられたかつての哀しみや絶望が流れ込んでくる。

 忘れていた辛い過去を憑夢が再現し、残酷にその傷を押し広げようとしているのだ。


 誰からも必要とされない凍えるような孤独。

 存在そのものを厭われる、身の置き所もない哀しさ。


 王子はぽっかりと空いた双眸に焼け付く渇望だけを映し出し、狂ったようにイーデンを呼んだ。

 すでに自分を抱きしめるかいなが誰のものであるかさえ、分からぬ様子だった。


 イーデンは体重をかけて王子の体を押さえつけ、殊更乱暴にその肩を揺さぶった。

「我が君…!私です!私の声が聞こえませんか!」


 不意に王子は鋭い声を放ち、イーデンの目に指を突きたてようとした。その腕をイーデンが利き手でぎ払う。


「嫌だ…ッ!」

 王子は悶えながら泣き叫んだ。

「イーデン、どこにいる…!お前がいなければ、私は……!」


「我が君…!」


 哀しみがイーデンの喉を詰まらせる。

 イーデンは狂乱する王子の手首を寝台に縫い付け、したたかに王子の頬を打ち据えた。

 容赦ない殴打に、王子の体が大きくぶれる。


「あ………」


 喘ぐ王子の唇から血が溢れ出た。

 顎へと滴る血を指で拭い取り、堪らずにイーデンはその体をかき抱いた。


「お許し下さい……」


 後悔に顔を歪めるイーデンの腕の中で、王子はようやく夢から覚めたように琥珀こはくの双眸を見開いた。

 苦悶の表情が薄れ、春風のように柔らかな吐息が期せずしてその唇から漏れる。


「…イーデン」

 王子は微かな声でイーデンを呼んだ。


 イーデンが腕の力を緩めて王子を覗き込むと、王子は泡沫うたかたの正気を取り戻し、力なくイーデンを見つめていた。

 口に流れ込む血の味が、王子をうつつへと引き戻したのだろうか。


「ああ…」

 イーデンは低く呻き、許しを請うように王子の唇に顔を寄せた。

 血を嘗めとってそっと離れていく唇を惜しむように、王子がイーデンの首に腕を回す。


「行くな…」


 か細い懇願は、再び顕現けんげんし始めた焦燥と狂気に彩られていく。


「行っては駄目だ。

 私の想いをお前は知らない。私の声はお前の耳をすり抜ける。


 それともこれは一切が夢か。

 余りに強くお前を求めるが故に、私はずっと都合のいい夢を見ていたのか」


 虚ろに見開かれた玻璃はりのごときまなこから、不意にひとしずくの涙が零れ落ちた。

「お前だけが私に与えられたすべてなのに、お前はいつか私を置いて行ってしまう…」


「我が君…!」

 イーデンは驚いて、王子の腕をきつく掴んだ。


「私はどこにも参りません。ずっと御身の傍におります。

 如何なる未来にも、どんなことが起ころうとも…」


「お前の言葉が信じられない」

 王子は乾いた声でわらった。


「お前は行くだろう。私を離れ、私を表わす全てのものから、いつかお前は遠ざかる」


 それは歪んだ憑夢が見せた一片ひとひらの真実であったのかもしれない。


 胸を抉る悲しみと張り裂けんばかりの恋慕は誰のものであるのか。

 岩に拳を叩きつけ、狂うほどに嘆いても想う人は時の彼方あなたにあり、ただひたすらに慟哭を重ねるしかない。


 それはまさに深い崖底に今、落ち行く人間の、計り知れない恐怖と絶望をんだ孤独な咆哮ほうこうにも似ていた。

 足掻あがきながら一人闇を落ち、半ば狂いながら、深遠な寂滅じゃくめつに呑み込まれていく。


 これは贖罪しょくざいなのだと自分は知っていた。

 だが、その自分とはいつの時代の自分であるのか、そもそも自分と呼べるほどの核をこの身が持っているのかすら、王子には分からなくなっていた。


 うつつとの境界が再び不鮮明になり、禍々しい憑夢が鼓動を刻み始めようとした時、その言葉は一筋の救いとして王子に与えられた。


「いかなる未来にも、私は御身のものです」


 惑乱する魂を引きとどめようとする強い意志が、確かなかせとなって王子を現に繋ぎ止めた。


「貴方が与える闇ならば私は受け入れる。

 遠ざかったとしても、必ず御身を迎えに参ります」


「お前は闇を恐れぬか…?」

 紡がれた言葉は問いというよりむしろ、懇願に近しいものであり…、

「貴方が紡がれたものであるならば」

 イーデンは即座にそう応酬した。


 王子は薄まりゆく闇に身を任せ、唇だけで微笑んだ。



 あの嘆きは一体誰のものであるのか。救われる未来あしたはかの者に来るのか…。

 詮無せんない問いを幾度も胸に繰り返し、体に回されたイーデンの温もりに王子はそっと身を預ける。



 寝所を照らすほの暗い燭光が、闇に慣れた目にはいっそ煩わしい。

 ゆっくりと瞳を閉じた王子の喉元に、イーデンが僅かに体をずらし、唇を押し当ててきた。

 

 啄むように触れるだけだと思われたそれは、次第に熱を帯びてきて、王子の五感を急速に絡めとっていく。


   お前は闇を恐れぬか…?


 王子は白い喉元を仰け反らせ、甘い吐息を闇に震わせた。


   それは闇

   どうせち行くものならば。

  

 跳ね上がる鼓動と乱れる吐息の熱さ。

 王子はうっとりと夢に酔い、若さに溢れた精悍せいかんな体を両のかいなに抱きしめた。


   共にちよ

   共に彷徨さまよ


 憑夢の極みにあって王子は闇を恐れず、ただひとえに重ねられた肌の熱さだけを追っていた。




 やがて夢は薄れ、新たな現実が王子の肩にのしかかっていく事だろう。


 すでに闇を隔てたとばりの向こう側では、新しい政治が動き始めていた。

 祝福と悪意、権謀けんぼうと虚飾に満ちた華やかな王座の直中ただなかに、王子は迎え入れられようとしていた。






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