第二部 守陽
体の細胞の一つ一つが清められ、新しい肉体を得て蘇生したような感じだった。
大地に宿る精霊や、遠い場所の木々のざわめきさえ音色として肌に感じられ、何もかもが心地よく、好ましい状態で調和している。
イーデンは満ち足りて伸びやかな吐息を漏らし、ぼんやりと海色の瞳を開いた。
随分長い間、眠っていたような気がする。
イーデンは傍らに眠っている王子の体を無意識に探ろうとし、気配すら残さぬシーツの冷たさに眉宇を寄せた。
「ご気分は如何です?」
代わりに頭上から降ってきたのは、王の腹心ムーロの声だった。
イーデンは驚いて声の方を振り向き、次の瞬間にはすべてを思い出して、苦い自嘲を端正な面に刷いた。
「ああ…」
イーデンは寝台から身を起こし、額に落ちる前髪を物憂くかき上げた。
身に着けている衣装はあの時のままで、おそらく気を失ってすぐ、この部屋に運び込まれたのだろう。
「大丈夫です。ここはどこなのですか?」
見覚えのない豪奢な一室だった。
寝台を囲む四本の支柱には王家の紋章が刻み込まれ、天蓋からはどっしりとした錦織のカーテンが吊るされている。
ほの暗い燭光に鈍く光るのは、紫檀の衣桁に嵌められた七色の螺鈿細工だろうか。
その向こう、大理石の卓子に置かれた脚杯の青磁が放つ沈んだ青緑が、闇に馴染んだ目に一際美しかった。
贅に慣れたイーデンでさえ、これほどの絢爛さには舌を巻いた。
もっとも、それを喜ぶという心境には、ほど遠かったのだけれども。
「こちらは地下祭殿の中の寝所です。
洗礼を受けて深昏睡に陥られたため、焔の守護結界より出してはならぬと王よりのきついご命令でした」
イーデンの意を察して、ムーロが淀みなく説明する。
「ではここが、封印され続けてきた陽世継ぎの地下寝所と言う訳か」
陽世継ぎ…。
自分で口にしながらも、その言葉の持つ眩いまでの華やぎに、イーデンは我知らず顔を曇らせた。
人々の熱狂と歓喜の叫びが脳裏に遠く蘇る。
あの瞬間、王子は祝福に満ちた力の継承者であり、ムーアの輝ける未来そのものだった。
その事実を誰よりも喜ばなければならないのに、何故自分は鬱々(うつうつ)と心満たされず、かつての穏やかな日々ばかりを虚しく心に思い浮かべようとするのだろう。
「王子はどちらにおられるのです?」
心の虚ろさを押し隠し、イーデンは努めて平坦な声で問いかけた。
問いの形はとっているが、実際のところ、それは確認に近かった。
今や王子は無冠ではなく、れっきとしたムーアの陽世継ぎだ。
国を挙げての儀式に王子が立ち会うのは自明の理だろう。
だが、唯一つしかない筈の答えを、ムーロは何故か言い渋った。
イーデンは訝し気にムーロを見やり、いかにも後ろめたそうなムーロの様子に、信じ難い真実を嗅ぎ取ってぞっと顔を強張らせた。
「王子はどこです?」
再び口にされた問いは、先ほどとは違う冥い恐怖に満ちていた。
ムーロは尚も惑うように瞳を彷徨わせ、やがて観念したようにゆっくりと口を開いた。
「あの方は今、地下祭殿で王に代わって時止めの洗礼を民に授けておいでです」
「ああ……」
我知らず、イーデンは呻き声を立てた。
馬鹿な…という思いと、やはりという思いが胸の中でせめぎ合い、それ以上言葉が出ない。
目覚めたばかりの陽世継ぎの力は抑制が難しく、暴走を起こしやすいことで知られていた。
主連に焔の洗礼を与えた後、しばらく焔から遠ざけられるのもそのためで、その間に陽世継ぎは未熟な力を徐々に安定させて、制御を体に覚え込ませていくのだ。
一般に、力の発言が二寿以上とされているのも、技の未熟さから己自身を守ろうとする、無意識下での自己防衛だろう。
それほどに慎重を要する焔の扱いを、王は目覚めたばかりの一寿の王子に負わせようとしているのだ。
正気の沙汰ではなかった。
「我が君…!」
イーデンは憑かれたように叫び、そのまま戸外へ走り出ようとした。その体をムーロが間一髪、後ろから羽交い絞めにする。
「お待ちを…ッ!
今、陽世継ぎの下へ行ってはなりません…!」
「放せ、ムーロ!」
イーデンはムーロの腕を力づくで振り解き、その足を薙ぎ払った。
頭から転びそうになりながらも、ムーロは必死でイーデンの体にしがみついた。
今、行かせる訳にはいかなかった。
乱れた気を放つ守陽の存在は、それだけで陽世継ぎを奈落に追いやる狂気となりうる。
「お話をお聞きください!」
ムーロは必死にイーデンを説得しようとしたが、イーデンは全く聞く耳を持とうとしなかった。
二人は揉み合いながら床を転がり、やがて若い主連の力がだんだんとムーロを圧倒していった。
このままでは抑えきれないと判じたムーロは、ついに立場も顧みずにその手を守陽に振り上げた。
「何故、お分かりになられませぬか!」
激しい平手打ちの音が室内に響いた。
「あの方は今、細い綱の上を渡っているような危うさで、焔を扱っておられるのですぞ!
貴方が徒に姿を現わせば、かの君は集中をなくし、焔が紡ぐ狂気にまっしぐらに落ちて行かれるでしょう。
今、行ってはなりませぬ!
貴方は陽世継ぎをその手で殺すおつもりか!」
ムーロの言葉に衝撃を受け、イーデンは愕然とムーロを見つめた。
「私が、王…子を?」
ようやくムーロの言わんとすることを理解したイーデンは、糸が切れたようにその場に座り込んだ。
片膝を立てたまま、背後についた手で自身を支えるように荒い息を繰り返す。
…おそらくは、ムーロの言う通りなのだろう。
今自分が姿を現わせば、王子は力の均衡を崩し、確実に狂気の深淵を招き寄せる。
だが、だからと言って自分はどうするべきなのだと、イーデンは虚しく自分に問う。
このまま刻一刻と王子が命を削っていくのを、ただ安穏とここで待っていろとでも言うのだろうか。
絶望と焦慮に打ちのめされ、身動ぎもせずにうなだれた若い守陽に、ムーロがふと問いを向けた。
「訳をお尋ねにならないのですか?
王子を殺す気かと詰られる覚悟はしておりましたのに」
ムーロの言葉に、イーデンはのろのろと顔を上げた。
イーデンにとってはどうでもよい問いだった。王子さえ無事に戻ってきてくれるのであれば、その他の事などもうどうでもいい。
イーデンは疲れ切った声で答えた。
「あの方にはそうするしか道がなかったと知っているからです。
王の命はすでに尽きかけている。
王のあのお体ではすでに焔を扱うことが不可能だった、そう言う事ではありませんか?」
ムーロの表情がすっと動いた。
「王の命が尽きかけている?誰がそのようなことを貴方に告げましたか?」
「王子が」
事も無げにイーデンは答え、それから辛辣な口調でムーロに問い返した。
「何をそう驚かれるのです?王はとっくに未来視しておられる筈だ。
国の重鎮であられる貴方なら、とうに知らされておいででしょう?」
「無論です」
ムーロは言下に肯定した。
「王がご自分の死を未来視され、我々にお告げになりました。
間違った夢であればいいと、その日以来、我々はずっとそう願い続けて参りました。
まだ、後を継ぐ陽世継ぎも現れていない。この状態で王に何かあれば、ムーアは大恐慌に陥るでしょう。
王は夢視たちが未来を紡がぬよう、夢を阻む結界を張られました。そうしてここ数年、夢視たちは夢を紡がぬようになり…」
「夢を阻む結界は、血の近しい者に対してしばしば無力となります。王子が夢を破ったからと言って、何の不思議がありましょうか」
「王子が陽の王の結界を破ったと?」
ムーロの片眉が嘲るように跳ね上がった。
「そのように突拍子もない話を、貴方は本気でお信じになったのですか?」
「…どういう意味です」
イーデンの瞳が剣呑に細められた。
二人は真っ向から睨み合い、やがて気圧されたように瞳を逸らしたのはムーロの方だった。
「よろしい。単調直入に言わせていただきましょう」
ムーロは吐息をつき、改めて膝を正した。
「結界を破るほどの血の濃さを王子が持していたと、貴方が信じる根拠が見えません。
何しろあの方はずっと、正当な王の御子とも認められていなかったのですから」
「我が王子を侮辱される気か!」
「お許しを…」
ムーロは頭を下げた。
「私はただ、一般的な見解を申し上げているのです。
王子が生まれた時、王はすでに六寿。未だかつて五寿を過ぎた者に子ができたという話は聞いたこともありません。
なのに貴方は王子が真実、王の御子であると確信して、反逆罪にも問われかねない禍夢をお信じになった。
私にはそれがどうしても解せぬのです」
「…王子が正しく陽の王の血を継いでおられる事は知っておりました」
「お信じになりたい気持ちはわかりますが…」
「知っていたと私は申し上げたのです」
イーデンは苛立ちもあらわにムーロに向き直った。
「あの方は真実、王の御子でした。その証を私は無寿の王子に見ておりました」
「証…?何の事です?」
「無寿の折、王子はしばしば死の霧が立ち込める終の谷に入り込んでおられました」
「何ですと…!」
今度こそムーロは目を剥き、絶句した。
「それは世にも厳粛な光景でした。王子が谷に足を踏み入れると、そこだけぽっかりと穴が開いたように清浄な空気が王子を包み込むのです。
この方は真実陽の王の血筋を受け継ぐお方なのだと、戦慄する思いで私はそれを思い知りました」
「何故その事を我々に教えて下さらなかった…!」
「何故?」
イーデンは虚ろに笑った。
「忌の地を彷徨っているなど、王子への中傷に繋がりかねない事をどうして軽々しく口にできましょうか。
まして、血筋について散々後ろ暗い事を言われてきたお方です。
誰にも言う必要はないとあの方は言われました。誰が信じずとも、神だけはご存じなのだからと」
ムーロはぐったりと瞳を閉じ、やりきれないと言った様子で首を振った。
「その証が、何故無寿にしか発現しないと言い伝えられているか、理由をご存知ですか?」
「いいえ」
イーデンは不審げに眉宇を寄せた。
その眼差しを彩る一途な忠節が痛ましく、ムーロは我知らず瞳を逸らした。
「証しされた御子の辿る運命は、二つに一つだからです。
すなわち、洗礼の夢魔に取り込まれて亡くなるか、あるいた陽世継ぎとなってムーアに君臨するか」
「え……」
イーデンは茫然と顔を上げた。
そんなイーデンに、ムーロはやや哀しげな笑みを浮かべて頷いた。
「あの方が有寿として覚醒された時、あの方はすでに陽世継ぎとなる運命を選び取っておられた。
誰も何も気付きませんでした。
この程度の知識は、御子と呼ばれる方なら当然知っておられる筈ですのに。
それ程に王子は王宮内で孤立されておいででした」
ムーロは遠い昔日に思いを馳せ、悔いの滲む眼差しを虚しく空に彷徨わせた。
「皮肉な話です。ご自分の子だとは微塵も信じられておられなかった末の王子が、あれほど待ち望んでおられた陽世継ぎであらせられたとは…」
自信を嘲るようなムーロの言葉は、しかしすでにイーデンの耳には入っていなかった。
覚醒された時、あの方はすでに陽世継ぎとなる運命を選び取っておられた。
先ほどのムーロの言葉が、今更ながらイーデンの心を抉っていく。
長い夢魔の眠りからようやく王子が覚醒した時、イーデンは万感の思いで王子を胸に抱き取った。
後を追って果てる事は怖くなかったが、できるなら飽くほどに満ち足りた至福の時を王子に与えたかったからだ。
だがあの時、運命はすでにきらびやかな別の未来を皇子の前に差し出していたのだ。
権力も栄華も称号も、何一つ望んだ事はなかった。
魂を尽くして求め、共に在る事だけを望んだ唯一の君は、イーデンが作った狭い世界から離れ、茫漠たる華やかな場所へ旅立とうとしている。
これが運命かとイーデンは思った。
閉じた瞼の裏に、清廉な信頼を宿して微笑む皇子の美しい顔が浮かび、そして消えた。




