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第一部 貴子は憎む

 イーデンは一瞬自分の耳を疑った。

 余りに残酷な命に、喉がひしゃげたように凍り付く。


「私…に、あの王子の侍従になれと?」

 イーデンの声は無様に震え、眼差しは憎悪を宿して闇をいだ。


 瞋恚しんいの激しさに月妃は息を呑み、それでもイーデンに縋る事が月妃にとって最後の頼みの綱であったのだろう。

 言を翻そうとせず、必死の形相で食い下がってきた。


「王子はとても気の毒な身の上です。あの子の立場は貴方とて聞き知っておいででしょう?」


 イーデンは震えそうになる唇を強く噛んだ。

 聞き知っているどころではない。王子の恥辱に繋がる話なら、この王宮内で知らぬ者がいないくらいだ。


 当時、の王とトロワイヤ家正室である母との関係は、国を揺るがす大醜聞として王宮内外を駆け巡った。

 臣下の妻を公然と妾にした王の横行に誰もが眉を顰めたが、荒んだ王の魂を鎮めうるのは夫人しかおらず、その大義の前に全ての道徳は退けられた。

 そして夫のトロワイヤ卿も、その事実を知るが故に、妻の不貞を従容と黙認した。


 やがてすべてが何事もなく、元の鞘に収まる予定だった。

 いずれ王は新しい寵姫を見つけるだろうし、万が一最後まで夫人を手放さなかったとしても、王より二年寿若い夫人は、王の死と共に夫君の下に返されるだろ。


 だが、そうした周囲の目論見を嘲笑うかのように、一年後夫人は身籠った。


 あり得る筈のない懐妊だった。


 この不測の事態を前に、王は決断を突きつけられた。

 すなわち夫人を月妃に昇格させるか、あるいはすぐさま夫君の元に戻して、その子を卿の実子として育てさせるか、速やかに対応を定めなくてはならなくなったのである。

 

 王は選択を躊躇わなかった。王にはまだ、どうしても夫人が必要だった。

 王は夫人に清月妃の名を与え、正式に自分の妃となした。


 王宮に連れて行かれたまま帰らぬ妻を、それでも信じて待ち続けたトロワイヤ卿は、その報せに全ての希望を断ち切られた。

 卿には何より大事な女性だったのだろう。

 その報せの紙を卓子の上に置き、卿は自害した。


 王都は凄まじい醜聞に覆われた。

 何の咎もない敬虔な臣下を死まで追い詰めた王の罪は重かった。

 慙愧ざんきの念に駆られた王は、残された七歳の嫡子に莫大な領地を許し、勲章を授け、一生を遊んで暮らせるだけの財を惜しみなく与えた。


 周囲の眼差しはもっぱら王に同情的だった。そしてすべての非難は清月妃に集中した。

 何故ならそれほどの犠牲を払って与えられたにもかかわらず、それは許されざる命であったからだ。


 清月妃が王の傍にはべった時、王はすでに六寿。

 子供を授かる年寿はとうに過ぎていた。


 清月妃がいくら身の潔白を訴えようと、王子の血筋を信じようとする者はいなかった。ただし、王だけは認めた。形の上ばかりではあったが。


 生まれたばかりの赤子を王子として遇し、忌まわしい噂にまみれた清月妃を、権力のすべてを使って支え守った。

 そうして清月妃は王の下に留まった。もはや頼れる人間は王しかおらず、それ以外に身を守る術を知らなかったのだ。


 この十余年間、イーデンはユーディス王子を闇よりも深く憎み続けてきた。

 あの王子さえ生まれなければ父は死ぬことはなかった。母もまた、これほどに名誉を傷つけられる事はなかっただろう。


 そうした王子を母が気に掛けているという事自体、イーデンにとっては父に対する紛れもない裏切りに他ならなかった。

 無念の死を遂げた父を、そして自分たち姉弟のことを少しでも心に掛けているのなら、あの王子を愛せる筈がない。


 たとえ会う事は叶わなくとも、母の魂は変わらず自分たちの元にある。そう信じる事が、イーデンにとって唯一の心の支えだった。


 そうして二度目の降寿こうじゅが済むや否や、洗礼を受けて時を止め、待ちかねたように母を訪れた自分の、なんとおめでたく滑稽であった事か…!


「結局貴女にとって、王とユーディス王子だけが大切な存在なのですね」


 感情を抑えたつもりなのに、自分でも驚くほど冷ややかな声がイーデンの唇から漏れた。

 底冷えするような物言いに、清月妃の瞳が大きく開かれる。


 そんな母の正視に耐えられず、イーデンは苦し気に顔を背けた。

 大人げない言葉だと分かっていた。だがそれ以外に、一体どう言いようがあっただろう。


 隔てられた心の間隙を埋めようにも、母の心はすでに思い出を遠ざかっている。

 いくばくかの感傷が振り捨てた過去の全てだと言うのなら、何故再会を喜ぶ振りをして、束の間の夢を自分に見させたのか。


「貴方が思うような事ではないのです」

 背後に控える女官の存在を気にしてか、清月妃の声は低かった。

 もどかしげに手を合わせ、清月妃は必死で言葉を探そうとする。


「王子は気の毒な境遇です。わたくしはあの子を哀れに思います」


 清月妃は縋るような目でイーデンをじっと見つめていた。

 その眼差しには、言葉とは別の意図が隠されていたが、イーデンにはそれに気付くだけの余裕は全くなかった。


「トロワイヤ。貴方の将来をわたくしが軽く考えているなどとは、決してお思い下さいますな。


 貴方にとっても、今は交友関係を広げていく大事な時期です。

 話し相手という形で同じ宮に住まうだけで、必要以上に王子に構う必要はありません。


 勿論、生涯王子に仕えて欲しいなどとは、微塵も望んでおりません。ただ、王子が無寿の間だけでも傍にいてくれたらと。


  あの子には、身分にふさわしい話し相手が一人もおりませんから、」


 清月妃はそうして苦しそうに顔を背けた。


「貴方がどんな思いでこちらに渡られたか、それを解せぬわたくしではありません。

 それを承知で、わたくしは貴方にお願いしたいのです。


 トロワイヤ、わたくしの一生のお願いです。どうぞ、王子の宮に入って下さい…!」


 自分の前に深々とこうべを垂れる清月妃を見て、イーデンは仰天した。

 花の模様を織り込んだ茣蓙ござを慌てて下り、床に叩頭する。


「どうぞ頭をお上げ下さい。そのような事をなさってはなりません」


 そう答えながらも、イーデンの胸には先程の憤りとは違う別の口惜しさがふつふつと湧き起こってくる。


 ムーアの寵姫ともあろうお方が、何故一寿の臣下ごときに頭を下げなくてはならないのかと。 

 それともそれほどまでに、清月妃は王宮の中で孤立しているのだろうか。


 イーデンはまだ知り得なかったが、元来王の妾妃となった女性は、王の寵愛と生家の後見を武器に、後宮内での強い地位を得る。

 数多あまたいる妾妃の中で、子をなした妃だけが月妃の名を与えられ、更にその子がムーアを統べる陽世継ひよつぎに選ばれることで、ムーアで唯一の陽妃として、後宮最高の地位まで上り詰めるのだ。


 清月妃がその非情な権力争いの渦に巻き込まれた時、清月妃は後見となる親族を一切持たぬ身の上だった。

 両親はすでに亡く、生家の当主であった唯一の兄、ムーランも、不幸な事故で亡くなっていた。

 

 せめて清月妃の産んだ王子に陽世継ぎの可能性が一片でも残されていれば、事情は全く異なっていただろう。

 だが、次代の陽の王は必ずや清月妃以外の腹から生まれると皆が知っていた。

 現王亡き後、一切の権力図からはじかれると分かっている清月妃に、貴族達は深く関わる事を賢明に避けていた。


 イーデンははっきりとした事情こそ知り得ぬものの、母の不幸に素知らぬ振りができるほど情に薄くはなく、そしてすでに余るほどの財を手にしている身であれば、それ以上の出世を望む必要もなかった。

 感情を抑えた面の下にくすぶる苛立ちを押し隠し、イーデンは母の望むまま王子の侍従を務めようと、仰ぎ見た眼差しの先に決意した。


「清月妃さま、お言葉に従いましょう。私は王子の元に参りたいと思います」

 その瞬間、弾けるような笑みが清月妃の口元に広がった。


「ああ、トロワイヤ。心より感謝します」

 そして清月妃は何気ない口調で言い添えた。

「王子の近況を伝えに、折に触れてわたくしの元に伺候しなさい」


 イーデンは黙って頭を下げた。添えられた言葉にどれ程の思いがこもっていたのか、全く考えようともせずに。




 御前を辞して回廊を歩むイーデンの心は、のたうつ妬心と憎悪に染め上げられていた。

 清月妃が大事なのはあの王子だけなのだと、闇なす心がイーデンに囁く。


 イーデンは口惜しさに顔を歪ませた。母の心を占めるあの王子が、飢えるほどに憎かった。血の繋がりがあるなど認めない。


 いつの日か、その眸に爪を立て、罪深さを陽の光の下に引きずり出してやるのだと、イーデンは凍えるような悪意を込めてそう心に呟いた。




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