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第二部 陽世継ぎの覚醒

 誰もがその光景に言葉を失っていた。

 焔はいよいよ激しく、観所の方まで広がっていたが、逃げ惑う貴人らの間にあって、一人、焔に魅入られたようにその場に立ち尽くす末王子の存在に誰も気づかなかった。


「我が君…!」

 悲鳴のような叫びが空を切った時、人々は初めてその異変を知った。

 人々が振り仰いだその前で、末王子の姿は煉獄の炎に包まれた。


 狂ったように焔から遠ざかろうとする重臣らをかき分けるように、一人の貴子が血相を変えて焔に突き進んでいく。

 末の王子の主連しゅれんのトロワイヤだ。


「止めて…!」

 清月妃が悲鳴のような声で叫んだ。

 すでに王子の体は焔と化している。イーデンがそこに踏み込めば、諸共に焼け死ぬだけだろう。


「誰か…ッ!イーデンを止めて…!」


 己が身分も立場も忘れ、なりふり構わず階段を駆け下りようとした清月妃は、次の瞬間、魂切たまぎるような悲鳴を上げていた。

 観所を火の海と化した紅蓮の焔が、ついにイーデンの体を呑み込んだのだ。


「いやああああああああああ…!」




 焔の触手が一層激しく舞い踊ると思われた…その瞬間、奇跡は訪れた。


「止めろ…!」


 気を威圧する凛とした声が焔の中から響き渡り……、そして焔は霧散した。

 瞬時に。

 今まで燃え盛っていたという痕跡すら残さずに。



 イーデンは無意識に顔を庇っていた腕を下ろし、呆然と声の方を眺め上げた。

 先ほどまで燃え盛っていた焔は、今や壇上のどこにもない。

 いや、一か所だけ残されていた。末王子を愛おしむように優しく包み込む、橙色の温かな焔だ。


「我が君…?」

 イーデンはぼんやりと皇子を呼んだ。


 王子はゆっくりとイーデンに歩み寄ってきた。 

 歩くたびに焔が燃え上がり、陽のような金髪がゆらりと舞い上がる。

 聖なる焔で王子の体は清められ、深い翡翠を宿していた瞳は父王と同じ琥珀こはくへと染め上げられていた。


 イーデンは畏れを眼差しに浮かべて二、三歩後退り、慌てて片膝をついた。


「無事か?」

 王子はイーデンの前に膝を折り、静かに尋ねた。

 確かめるようにイーデンの肩に手を置こうとしたが、自分の体がまだ焔に彩られている事に気付き、伸ばしかけた指を握り込む。


 イーデンは言葉もなく、王子を見つめるばかりだった。

 神の焔に包まれた王子は神々しいほど美しく、どのように言葉を掛けて良いかわからない。


 そんなイーデンをやや寂しげに眺め下ろし、それからふと王の視線を意識して、王子は壇上へと目を向けた。


 王は驚愕を隠せずに、凍り付いたように末王子をじっと見つめていた。

 王子はもまた、現実に起こっている事がとても信じられなかったが、このまま立ち尽くしていてはならない事だけはわかっていた。


 王子は名乗りを上げるために、ゆっくりと王の下へ向かう。

 途中、御座所おましどころで黒っぽい塊となった無残な兄のむくろにふと目を留め、ローブを肩から外して、その遺体を丁寧に覆った。



 壇上に上がり、王の前に深くこうべを垂れた皇子に、王は静かに声をかけた。

「お前が陽世継ひよつぎであったか」


 深い安堵を滲ませつつも、その声には自然、軽い自嘲が籠る。


 ムーランに酷似するこの末王子を愛でてはいたものの、王はこの王子を我が子と思った事は一度もなかった。

 寵姫が生んだ不義の子を王族の末席においてやっているという感覚しか王にはなかったのだ。

 

 そうした王の心情に気付きつつも、王子は何ら感情を揺らすことなく、王の衣裾もすそに恭しく唇をつけた。

 一途な敬意と従順を捧げ、王の下にへりくだった。



 やがて、その様子を息を止めて見守っていた民の間から、声にならない吐息がどこからともなく零れ落ちた。


 羽音はおとのようなざわめきは忍びやかな歓声へ、そして陽世継ぎの誕生を祝福する喝采へと変わり、ついには怒涛のような歓呼となって室をあまねく埋め尽くした。



「ユーディス王子、万歳…!

 陽世継ぎの君、万歳…!」



 歓声はなかなか鳴りやまなかった。

 王が目で促すと、王子は戸惑いながらも一歩前に進み出て、群衆に向かって右手を上げた。

 湧き上がる歓呼がさらに激しくなる。

 祝福に酔いしれるムーアの民は王子の名を口々に叫び、喜びの涙にくれてムーアの未来を祝福した。




 ややあって高揚と熱気の渦がおさまってくると、王は王子の手を取って聖なる焔の前に導いた。

 王子の体からすでに焔は消え去り、いつもの静けさが清雅な体に戻っている。


 王は焔に向かい、敬虔にこうべを垂れた。長い祈りと感謝の言葉が捧げられ、室に会する一同がそれに従う。


 その後、顔を上げた王は、選ばれたばかりの陽世継ぎに改めて向き直った。

「お前の主連をここへ。守陽しゅようの誓いを捧げよう」


 只人であった主連は、この儀式を結ぶ事によって今後、精霊の加護を身に受ける事となる。


 王子は低くイーデンを呼んだ。 

 厳かに場に控えていたイーデンが、召喚に応じて進み出る。 

 御前で膝を折るイーデンを、王は僅かな苦笑と共に迎え入れた。


「主の身を案じて、あの紅蓮の地獄に飛び込むとはな」

 王は王子を見つめて低く笑った。

「お前はいい主連を持っている」


「恐れ入ります」

 王は満足げに頷き、膝を折る二人に静かに語りかけた。


「陽世継ぎとそれを守護する者よ。


 汝らはムーアの未来を紡ぐ絶対者であり、いしずえとなって人々の営みの下に沈む者でもある。

 神の祝福を受けるが不死ではなく、約束された栄華もまた、虚しく儚いものと思い知れ。


 名に奢らず、選ばれた限りは力を尽くしてその任を遂行せよ。 

 神の祝福と恩寵は、たゆまず汝らと共に在る」



 王の言葉が終わると、後方に控えていた儀廷官が進み出てきて一振りの剣を王に差し出した。

 王はそれを神の焔に翳し、小ぶりだが鋭利な輝きを放つ白刃に自らの声明を刻みつけた。


 揺らめく焔が蛇のごとく白刃の上を這い上る。

 これこそが主を守るために守陽が持する剣、一説では金剛石をも切断すると言われた、神の祝福を仰いだ焔剣だった。


 そして鍛えられたばかりの焔剣がその場で王子に手渡される。

 この剣で自らの肌を裂き、血を主連にすすらせるためだ。

  

 精霊の加護を得るための儀式とはいえ、神の焔を二度も体に浴びて、無事でいられる者などいない。

 そのため陽世継ぎは、血肉、臓腑を焼き尽くす業火から主連の体を守るため、これから主連に己が血を分け与えるのだ。


 王子はイーデンに軽く頷くと、刃を手首の少し上に押し当て、躊躇いなく振り下ろした。

 見る間に噴き出す鮮血を、イーデンが身を屈めて飲み下す。


 口を拭い、顔を上げてくるイーデンを見下ろした時、それまで平静だった王子の面に、初めて怖気おぞけにも似た感情の揺らぎが走り抜けた。


 これから自身の手でイーデンに洗礼を施さなければならない。 

 目覚めたばかりでまだ力加減もわからぬ王子にとって、それは計り知れない恐怖と覚悟を伴うものだった。


 もし焔を扱い損ねれば、イーデンは生きながら業火にあぶられる事となる。

 肉も臓腑も思念までも焼き尽くされて、存在していたという痕跡すら残らない、全きの寂滅じゃくめつ



「陽世継ぎよ」


 そんな王子の惑乱を感じ取った王が、王子に静かに語りかけた。

 王子の恐れは理解できるが、これはどうしても自身で乗り越えなければならない試練だった。

 その覚悟すら持てない者に、どうして民の洗礼など行えようか。


「惑いこそが災いを呼び寄せる。

 お前が神に選ばれた身である事を、ゆめ忘れるな。

 心を鎮め、汝の義務を全うせよ。己自身の手で、この者を次代の守陽と為すがよい」



 そして王は、聖壇中央を明け渡した。


 王子は息詰まるような畏怖を覚えながら、神の焔に歩み寄る。

 人の運命さだめなど一呑みにしてしまうような太古の焔が、非情を剥き出しにして荒々しく王子の眼前に聳え立った。



 目覚めたばかりの自分に、苛烈をきわめるこの神の焔が果たして扱えるものだろうか…。


 息苦しいほどの恐怖が胸を締め上げ、王子はからからに乾いた喉を潤そうと唾を飲み込んだ。


 と、その時、思いもかけぬ強い視線が、揺らぐ王子の心をうつつに引き戻した。


 イーデンだった。

 眼差しに深い信頼と崇敬すうけいを宿し、僅かに口角を上げて真っ直ぐに自分を見つめてくる。


 ……お前が私を置いて逝く筈がない。

 その途端、天啓のごとくその言葉が胸に落ちてきた。


 イーデンは決して自分の下を離れない。

 何の理由もなく王子にはそう信じられ、王子は深々と胸いっぱいに息を吸い込み、天を仰いだ。



 そして王子はゆっくりと焔に体を向ける。

 拱手の礼を取り、瞳を閉じて意識を集中させた。


 背に流した金髪がふわりと舞い上がり、凄まじい霊威が王子の体を這い上った。

 焔印を結ぶ指先で未熟な霊気が幾度も弾け、その先から焔が燃え上がっていく。


 時を感じたイーデンは静かに瞳を閉じた。


 焔の洗礼は、終生に渡る聖霊の加護と引き換えに守陽が負わなければならない浄化の苦悶だ。

 耐え難い惨痛さんつうがそのまま峻烈な魂の洗礼となり、その後の祝福を約される。



 浄化の焔が生身の体に灯された瞬間とき、それは正に生きながら臓腑を焼き尽くされる地獄に他ならなかったが……、想像を絶する苦痛にイーデンは身をらせて大きく咆哮ほうこうした。


 やがて、永劫に等しい刹那の時が過去を刻んだ時、イーデンはようやく、のたうつ苦悶から解き放たれた。


 差し伸べられた儀廷官の腕の中に、イーデンは人形のように崩れ込んだ。




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