第二部 王子は母を思う
翌年の焔満月、いつものように洗礼を執り行う王の眼差しは、始まる前から深い焦慮に満ち、闇なす絶望に沈んでいた。
この年もついに、御力を受け継ぐ陽世継ぎは現れなかった。
儀に臨む王の顔は苦痛に歪み、命を蝕む洗礼の儀に、王は時折喘ぐように身を震わせた。
全ての儀式が終わり、抱きかかえられるように結界へと運ばれていく父王を、王子は深い悲哀と憂慮を込めて見送った。
王の寿命はすでに尽きかけていた。
それはもはや動かしがたい未来なのだと、王子はようやくその事実を自分に受け入れた。
王はすでに洗礼を行えるような体ではなかった。
まだ七寿でしかない王が何故これほどに命をすり減らしたのか、王子にはその理由がわかり過ぎるほどわかる気がした。
洗礼の焔を直接体に浴びる王は、焔の狂気が紡ぐ憑夢から魂を救うため、神の名の下に連生を誓った守陽の癒しを何より必要とする。
三日三晩、焔の守護結界に身を置いて命を繋ぎ、狂気に引きずられそうになる魂を守陽に宥めてもらうのだ。
だが王は、ムーランを喪って後、別の守陽を傍らに据える事を固く拒み続けた。
そうして耐え難い狂気の夢を一人さまよい、憑夢が魂を喰らい尽くし、生身の体にまで触手を伸ばすのを従容と自分に許したのだ。
王はどれ程、自分に代わって焔を扱う陽世継ぎの覚醒を待ち続けた事だろう。
王としての義務と矜持ゆえに自刃も叶わず、虚しい絶望と悔恨に魂を蝕まれながら、王はずっと無為な命を紡ぎ続けた。
その晩王子は、儀式で見た王の姿に心を囚われ、いつになく寡黙だった。
イーデンが何を話しかけても上の空で、ぼんやりと物思いに沈んでいる。
儀式への参列で疲れたのだろうとイーデンはそ知らぬふりをしていたが、深夜を過ぎて尚、苦しそうに寝返りを打つ王子の姿に、それ以上黙っている事ができなくなった。
「何があったのです?」
静かだがぴんと張りつめた問いに、王子はびくりと肩を震わせた。
窓の外では、夕刻からの雨がしめやかな雨音を響かせている。
その乱れた音に不吉なざわめきすら覚え、イーデンは厳しい眼差しを真っ直ぐに王子に向けた。
「我が君…」
言い募ろうとした唇に冷たい指先が押し当てられた。
その冷たさにイーデンがはっと息を呑んだ時、王子は徐に口を開いた。
「イーデン。清月妃に会いに行ってはくれまいか?」
思いもよらぬ言葉にイーデンは目を瞠った。
「清月妃に…?何故です?」
清月妃とはあれから会っていなかった。
清月妃の女官が宮を訪れ、執拗に伺候を迫っていた時期もあったのだが、イーデンは一切耳を傾けようとはせず、それは王子を排斥しようとした他の人間に対しても同様だった。
自分と彼らとでは相容れない。
権力の流れから遠く離れた王子に連生を誓った事をイーデンは微塵も後悔していないが、彼らは今でもそれを愚かしい行為だと信じきっている。
有寿となった王子がアクヴァル王の傍らに呼ばれるようになった後も、それが覇王の気紛れに過ぎないと知っているため、一切の価値を王子に覚えていないのだ。
彼らにとって末の王子は王族ではなく、寵姫の不義で生まれた汚れた存在だった。
そのような目で王子を見るような相手と、どうして親交を温められようか。
そうして身に慣れ親しんだすべての者たちからイーデンは遠ざかっていき、自分を切り捨てていった者たちを顧みる事すら、すでになくなって久しかった。
王子はイーデンの目を避けるように瞳を伏せ、低い声でそれに答えた。
「三年後には焔の降寿がやってくる。
王は今七寿だが、八度目の降寿にはおそらく体が耐えられまい。次の閏の欠け月には、王は自ら終の谷へ下りられるようになるだろう」
「我が君…!」
イーデンは顔色を変えた。
「不吉な禍事をおっしゃるものではありません!このような言葉が仮初にも誰かの耳に入ったら…」
「イーデン!私はふざけているわけではないんだ!
王の命は尽きかけている。私はその夢を受け取った。
このような不吉な未来夢には普通結界が張られるものだが、夢を封じる結界は血の近しい者にはしばしば無力となる。
私は王の御子であるが故に、たまたま結界を破ってしまったのだろう。
後三年だ、イーデン!
陽世継ぎが現れようと現れまいと、三年後には王は崩御なさる!」
強い確信に満ちた言葉に、イーデンは呆然と王子の顔を仰ぐしかなかった。
「王が天寿を待たずに崩御なさる時、数多いる妃のうち、幾人がそれに従うか私は知らない。
だが一つだけ、確信を持って言える事がある。
それは清月妃だけは王と共に終の谷へ下りられるだろうという事だ。
王を喪ってこの先寿命を長らえさせても、あの方には何の救いもない。
あの方は王の苦しみを癒すために後宮に入られ、余りにも多くのものを犠牲にされた。
清月妃は絶望しておられる。そしてその虚しさを僅かでも癒せるのは、お前しかいない。
イーデン、清月妃に会ってやれ。
それだけで清月妃は、お前の思いをわかって下さるだろう」
イーデンは動揺を隠せぬままに瞳を彷徨わせ、王子の言葉を否定しようとするように微かに首を振った。
しんと張り詰めていく闇の中で、すぐ傍の高欄を打つ雨音だけがひどく耳障りにイーデンの耳に響いた。
「清月妃の下へは参りません」
やがて心を決めたイーデンは、しっかりと顔を上げ、王子にそう答えた。
「私はあの方を許す事ができません。あの方は貴方に対し、余りにも無情で残酷だった。
私は今でもあの方を憎んでいます。あの方を安らかにするために宮を訪れるなど、私には…」
「イーデン…!」
王子は鋭い声でイーデンを制した。
「私がかつてあの方に傷付けられたとしても、お前によってすべて傷は癒されている。
今一番、深い孤独の中におられるのはあの方だ!
イーデン、いいか。私と清月妃の確執は忘れてしまえ!大事なのはお前が幼い頃、愛し慕っていた清月妃だ。
お前は誰より清月妃が大事だった。あの方に会うために、お前は私の下にやってきたんだ。
あの頃と今と、清月妃の心は微塵も変わっておられない。この程度の諍いごときで、大事な我が子をいつまでも恨んでいるような方ではないのだから。
清月妃を許してやれ。
お前のたった一人の大切な母君だ」
イーデンは唇を噛みしめ、惑うように瞳を彷徨わせたが、決して頷こうとはしなかった。
「お許し下さい。貴方を今なお認めようとなさらない清月妃に、私は会いたくはありません」
王子は柔らかな吐息をつき、そっと手を伸ばしてイーデンの頭を抱き寄せた。
「お前には私が不幸に見えるのか?私が満ち足りて幸せなのが、どうしてわからない。
イーデン。清月妃が身罷られてからでは遅いのだ。お前は母君を傷つけ、悲しみの中に逝かせてしまった事を必ず後悔するだろう。
私はそんなお前を見たくない」
王子はイーデンの頬を両手で挟み、固く引き結ばれた唇に祈るように口づけた。
「清月妃は待っている筈だ。お前が以前のように宮を訪れてくれる事を。
会いに行ってやれ。お前なら、清月妃の心を救いえる」
一週間後、秋雨の降りしきる清月妃の宮に、ひっそりと謁見を願い出るイーデンの姿があった。
イーデンは丁重に女官たちに迎えられ、すぐに清月妃の下へ通された。
二人の間にぎこちなさは存在したが、清月妃がこの青年の来訪を心から喜んでいる事は誰の目にも明らかだった。
やがて、空白だった十年の歳月など最初から存在しなかったように、イーデンの姿が時折、清月妃の宮に見られるようになった。
母と息子は和解した。
そしてそれは後に、イーデンの心をどんなに安らかせしめるものとなった。