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第二部 忍び寄る不安



 穏やかな木漏れ日が、軽やかに馬を疾駆させる王の一行に、明るい陽筋を投げかけていた。


 精悍な王の傍らで馬を並走させているのは、見る者の目をふと縫い留めるような、十八、九の美貌の青年である。

 陽に輝く鮮やかな金髪をうなじの辺りで一つに括り、吹き来る風に前髪を乱したその青年は、繊細な美しさの中に庇護欲をかきたてるような危うさを覗かせ、滲むような色香を纏わせる。


 共駆けを許されるのは王の寵愛を受けた者か相応の身分の者と定まっているが、この青年の場合は後者であり、このところ王が特に目をかけているという末の王子だった。


 二人からやや距離を置く形で、数人の貴子がその後を追っている。

 王の護衛の貴子と、末の王子の主連だ。



 目的地が近づくにつれ、肌に感じる残滓のようなものがだんだんと濃くなっていることに気付き、末王子は馬を駆りながら僅かに愁眉を寄せた。


 王と一緒の時にしか感じないという事は、おそらくは王がその御霊を呼び寄せているのだろう。


 王子は傍らで馬を駆る王の横顔を案じるように眺めやった。

 ムーアで唯一、聖霊に愛され、その加護に守られた陽の王だ。

 この気配に気付いていない筈がない。


 そもそも王が度々この地を訪れようとするのは、ここに最愛の守陽の魂が眠っているからだ。


 ここに葬られてもう一年寿以上が経とうとしているのに、魂は未だ安らぐ事なく、悲痛な想いを引きずっている。


 恨みではない。その根幹をなすのは、身を食むような悔恨だ。

 終生共にいると誓いながら、許しなく御傍を離れてしまった事を悔い続け、時折訪れる王の魂に必死に想いを寄り添わせようとする。

 


 谷を一望できる丘に来て、王はようやく馬を止めた。

 亡き守陽の魂を恋うように、王は白い霧に包まれた谷を優しく見つめ、小さく唇を動かす。会いに来たぞと…。

 その姿を哀しく見やり、王子は黙々と王の下馬を手伝った。


 王の眼差しは一心に谷へと向けられ、片時も関心が逸らされる事はない。

 時止めをさせて以来、何かを理由をつけて傍に置くようになったこの末王子に対しても、それは同じ事だった。


 亡き守陽の面影を追うために傍らに控えさせ、他の王子らにも勝るとも劣らぬ特権と財を分け与えてやっている王子だが、所詮それは王にとっての気晴らしに過ぎない。


 英明な王らしからぬ偏愛ぶりを周囲に見せつけておきながら、ひとたび物思いに囚われると突然手のひらを返し、不快そうに顔を歪めて、「お前の顔は見たくない」と手ひどく王子を追い払うのだ。


 残酷で気紛れな王の寵愛。

 そうした仕打ちに、胸の痛みすら覚えずに淡々と従えるのは、誓い以来片時も離れず王子を支え続けたトロワイヤの献身あっての故だろう。

 夢魔を脱した後も残り夢に引きずられそうになる孤独な魂をイーデンは全霊で愛し抜き、孤独を闇に放たせる真似は決してしなかった。


 揺蕩たゆたうような悠久の流れだけが、まったき死を呑み込んだこの空間を支配している。

 全能なる神への畏怖を覚え、王子は微かに身震いする。

 それは怖いほどに澄んだ時空ときのしじまだった。


 王は眼下に蠢く霧をじっと追っていたが、やがて揺らめく御霊を恋うように、足を一歩前に踏み出した。


「お前たちはここにいるが良い。私はしばし一人になりたい」


 止める間もあらばこそ、王はそのまま霧に魅入られたようにさっさと谷の中へ踏み入ってしまう。

 王の周りで霧がはじけ、瞬く間に清浄な空気が王を取り囲んだ。



 王子は父王が歩み去る姿を敬虔な眼差しで追っていたが、不意に顔を強張らせて王の後を追おうとした。

 そのまま霧の中に踏み込もうとする王子の体を、すんでのところでイーデンが抱きとどめる。


「我が君…!」


 王子ははっとしたように歩を止めた。このまま歩み進めば、霧の直中ただなかに踏み込んでしまう。

 王子は後退あとずさり、深い霧の向こう、すでに輪郭すらも定かでなくなった王の姿を朧に追った。


「すまぬ」


 やがて王子はイーデンから体を離すと、静かにイーデンを振り返った。


「王は当分帰って来られないだろう。向こうの木陰で休まないか?」




 他の貴子たちからかなり離れた木立ちまで来ると、王子は無造作に草むらに腰を下ろした。

 二人を追って来る者はいない。

 イーデンが慣れた所作で皇子の傍らに座すと、王子はその腿を枕にして草むらに寝転んだ。


「そう言えば、随分昔にここに二人きりで来ましたね。確か貴方の洗礼の……」

「二日前だった」

 イーデンの言葉を、王子が笑って引き継ぐ。


「洗礼を間近にして苛立つ私を宥めようと、お前が私をここに連れてきたんだ。

 よりによって死が籠るついの谷だぞ。

 目いっぱい縁起が悪い場所だと今でも私は思うんだが、お前いかにも嬉しげに思い出の場所だって言うし…」


 そのあまりに幸せそうな笑顔に負けて、結局なし崩しに機嫌も直ってしまった。つくづく有能な主連だと言えるだろう。


「そう言えばあの時、お前が話をしてくれたな。

 ムーアは数多あまたある国の一つに過ぎない。カルライの外には広い世界が広がっていると」

 

 ムーアしか知らなかった王子に、カルライ連山の向こうにあるという遠い国々の話を初めて教えてくれたのはイーデンだった。


 それは世にも不思議な話だった。

 そこに暮らす人々は、ムーアに伝わる御伽草子の通りに、年月を経てゆっくりと年老いていくのだという。


「あの話を聞くまで、何故ムーアが祝された国と言われているのかわからなかったんだ。

 洗礼を受けて有寿になるのはごく当たり前のことだったし、外の世界の事を教えてくれる人間は誰もいなかったから」


「ムーアの神は、異邦と交わる事を固く禁じておりますから、教育係も貴方にはお話ししなかったのでしょう」

 イーデンは小さく微笑んだ。

「庶民の間では、わりと知られている話ではあるのですが」


「お前は実際に、カルライの連山を超えたバーグの商人たちと話をした事もあると言っていた」


「そのような事もお話ししましたね」


 バーグはユリアナの嫁いだキサーロに隣接する都市で、ムーアで唯一、つ国との交易を許された商人の一族が住んでいる。

 彼らは四、五年に一度、カルライの連山を超えて外つ国へ行き、ムーアの陶磁や絹織物を、真珠や螺鈿、珊瑚といった品物に変えてくるのだ。


 初めて耳にする外の世界の話に、あの時、自分は目を輝かせて聞き入った。


 外つ国の人間に年をごまかしやすくするために、必ず三十を過ぎて洗礼を受けるというバーグの商人のこと。

 ムーアには存在しない海というものや、砂漠という乾いた大地の事…。


「あの時、お前がつ国の話をいろいろしてくれて……、私が知らない広い世界がまだたくさんあるのだと知って、心が救われた気がしたんだ」


 あの時も今も、不安な時はいつもイーデンが傍にいてくれた。

 笑い方を忘れそうになる度、さりげなく手が差し出されていて、その手に支えられていつのまにか笑っていた。



「……それで今は何をお悩みなのですか?」


 いきなり核心をついてくる問いに、王子は思わず降参のため息を零していた。

 どうやらこの主連には隠し事ができぬものらしい。


 先程の行動をはぐらかそうと別の話題を振ってみたのに、まったくごまかされてくれない。

 王の姿を失って以来、自分が物思いに囚われている事など、イーデンには先刻承知なのだ。


「お前は王を見て何も感じなかったか?」

 表情を改めてそう問い返すと、イーデンは訝し気に首を捻った。


「王が何か?」


「王を取り巻く気の輪が小さい。只人に過ぎぬ私でさえ、あの輪の倍近くはあったのに」


 無寿の頃、度々死の谷に足を踏み入れていた王子は、自分の周囲から大きく霧が離れていたことを覚えていた。

 イーデンと一緒に洞窟に籠れば、霧は洞窟の入り口に漂うだけで、あの空間に入り込む事もなかったのだ。


 だが今の王の周囲には、王が寛げるだけの周囲にしか清浄な空気が存在しない。

 聖霊の加護は確かにあるのに、その力を及ぼす王の生気自体が弱まっているかのようだ。



 だが、イーデンには王子の深刻さがこの時理解できなかった。


 王を見送った護衛の貴子や側近と言われる方々の誰一人として、そのような不審を言い立てる者はいなかったからだ。


「王が御力を制御されているのではありませんか?」


 軽い語調で流すイーデンを一瞬寂しげに眺めやり、王子は低く独り言ちた。

「気のせいであればいいんだ…」


 自らもその力を発現していた皇子は、あの力が意思で制御できるようなものではないと本能で知っていた。

 あれは『気』の強さ、命の輝きそのものだ。

 となれば、あの輪の小ささは、それだけ王の寿命が迫っていることを意味しないだろうか。


 王子はここ二、三か月漠然と胸に巣くっていた不安が、今やはっきりとした形となって一気に噴き出した事を感じていた。


 三か月前、初めてその不吉な夢を紡いだ時、夢が織りなす禍々しい光景に、王子は悲鳴を上げて飛び起きた。

 夢の中で、自分は父王の遺体を腕に抱き締め、その冷たい屍に頬を寄せて、夢が叶ったとばかりに幸せそうに笑っていた。


 単なる夢だと思えなかったのは、夢の中で自分が手にする冥い歓喜が尋常ならざるものであったからだ。


 あれは魂の叫びそのもの、身に巣くう渇望が心象夢となって現れたものだ。

 ならばそれを望んでいるのは、自分自身なのだろうか。


 そして今、王子はすべての謎が解けた気がした。

 あれは王自らの願望であり、あのむくろを抱いているのは自分ではなくてムーランなのだ。

 王はムーランの元に逝くことを強く希求している。


 だがそれが指し示す未来は余りに凄惨だった。

 あの夢を紡いだのが王であるとしたら、それは単なる願望ではなく、定まった未来となる。

 何故ならあれほどの緊迫感をもって陽王(ひおう)を襲う夢は、未来夢さきむとして成就する可能性を多分たぶんに孕んでいるからだ。


 王子は我知らず身を震わせた。

 王はすでに七寿。本来なら、王が五寿か六寿の頃には定まっている筈の陽世継ぎが、未だムーアには存在しない。

 この状態で王を失うことがあれば、ムーアは破滅だ。

 時止めの洗礼を受ける事の出来なくなった民たちは老いを刻み始め、ムーアはたちまち大恐慌に陥るだろう。


 あれは紡いではならぬ禍夢まがゆめだ。

 おそらく王の手で張られていた結界を、自分は知らずに解いてしまったのだ。



「お寒いのですか?」


 優しい問いかけにそっと目を開けると、心配そうに自分を覗き込むイーデンと目が合った。

 王子は頷き、膝枕をしてくれているイーデンの体に顔を埋める。イーデンは黙って、自分が着ていた外套を王子の背に掛けた。


 この温もりさえあれば何も怖くないと王子は思った。

 陽世継ぎが現れぬままムーアがこの先、凋落ちょうらくへ向かおうと、イーデンさえ自分の傍らにあればそれでいい。




 やがて王子は唐突に身を起こした。

「王が戻られる。皆のところへ戻ろう」


 イーデンは不思議そうに王子を見下ろした。

「何故、そう思われるのです?」


 風が告げた、とは王子は言わなかった。言えば、イーデンが心配するだけだ。


「……そんな気がする」

 王子はふわりと言い捨てて、軽い所作で立ち上がった。


 ついの谷を見下ろすと、思念に蠢く白い霧が名残惜しそうに谷の静寂を乱していた。

 近い未来、王はこの魂の元へ行くのだろう。自らの手で死に追い詰めた、誰よりも愛おしい魂の片割れの元へ。 



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