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第一部 永劫の忠誠

 次話は短いので、二話同時に投稿します。

 どのくらい時間が経ったのか。

 再び扉をたたく音に、王子はぼんやりとこうべを上げた。

 陽はすでに翳り、先ほど従僕が点けていった燭だけが、室内をほのかに照らし出している。


 おそらくは膳を下げに来たのだろう。

「食事はもう要らぬ。下げてくれ」


 ソファーから頭も上げずに、王子はそう命じた。

 足音は忍びやかに部屋に入り、膳のところで躊躇うように止まった。

 全く手を付けていない膳の様子に、おそらく戸惑っているのだろう。


「聞こえなかったのか。膳を下げてくれ」

 余計な気遣いは煩わしいと、いつになく声を荒げるのへ、思いもしない返事が返ってくる。


「全く手を付けておられぬではありませんか。

 これではお下げするわけには参りません」


 王子は驚愕して後ろを振り向いた。

「イーデン…!」


 灯心を触ったのか不意に明るさを増した室内で、こちらを見つめるイーデンとまともに目が合った。


 王子は狼狽した。

 これほど厳しい面差しのイーデンを見た事がなかったからだ。


「ここ二、三日、食事もまともに召し上がっておられぬとテナーンが心配しておりました。

 まさかと思っておりましたが、どうやらその通りらしいですね」


「……食欲がないんだ」

 動揺を隠せぬまま、王子はあやふやな口調でそう答えた。


「どこかお体の具合が悪いのですか?痛むところでも?」


 畳みかけるようにそう問い質されて、王子は今度こそ言葉を詰まらせる。

「…いや」


「召し上がらなければお体に障ります。今日は何があっても召し上がっていただきますよ」


「…欲しくないんだ」

 王子はふいと顔を背けた。


 それは王子にとって精いっぱいの甘えに他ならなかったが、そんなことで許してくれるイーデンでは無論なかった。


「よろしい。

 では王子が食事を済まされるまで、私もここにいる事に致しましょう」


 イーデンは、王子の目の前の卓子に膳を運ぶと、自分はその反対側の椅子にどっかりと座り込んだ。

 王子が食べぬ限りは梃子でも動かぬといった様子である。


 王子は仕方なく食べ始め、長い時間をかけてようやく膳のほとんどを空にした。



「…さて」


 従僕を呼んで膳を片付けさせると、おもむろにイーデンは王子に向き直った。

 切れ長の青い瞳が、刺し貫くような光を帯びて王子を見据える。


「私の留守中、清月妃に呼ばれた事を、何故お隠しになったのですか?」


 虚を突かれて王子は押し黙った。

「…母に会っただけの事だ。いちいちお前に知らせる必要はあるまい」


「そう…。確かにあなたは母君にお会いになられただけだ」

 ことさら慇懃にイーデンは繰り返した。


「ではお尋ねいたしますが、王子?たかがそれだけの事を、貴方は何故わざわざ従僕らに口止めなさったのです」


 皇子は今度こそ言葉を失った。

 イーデンはどこまで知っているのか、それとも鎌をかけているだけなのか。

 王子は千々に考えを巡らせたが、その逡巡はいよいよイーデンの苛立ちに火をつける事となった。


「いい加減になさって下さい!いつまで隠しおおせると思っておいでなのです!

 貴方は私の事を、それほどの間抜けだと思っておいでなのですか?

 今の時期に貴方を一人にして、何も起こる筈がないと能天気に信じているような…」

  

 激しく言い募るイーデンに、

「…だが、お前は嘘をついた」

 苦しげに王子は言葉を絞り出した。


 思いがけない言葉に、イーデンは眉宇を寄せた。

「一体何を…」


「キサーロの姉君は怪我などなされていない筈だ。 

 何故、見え透いた嘘を私につく…」


「…ああ」

 イーデンは深い吐息をついた。

 あの時の違和感が何であったか、ようやく気付いたからだ。


「貴方を不快にしたくなかっただけです。傷つけるつもりは毛頭なかった…」


戯言ざれごとを…!」 

 怒りを滲ませる王子の言葉を封じ込めるように、イーデンは王子の手に指を絡ませた。


「おっしゃる通り、あの事故は狂言でした。姉は私を貴方から引き離すために、芝居を打ってきたのです。


 口論の最中、この茶番を仕組んだのが清月妃だと知らされて、私は猜疑と不安に気が狂う思いでした。

 清月妃は絶対に何かを貴方に仕掛けてくる。

 その時貴方はどう動かれるのかと…。


 貴方はいつも清月妃に従順であらせられた。

 あの方に懇願されたら、貴方はその願いに負けて私を切り捨ててしまわれるのではないか、何もかも諦めてあの方に従ってしまわれるのではないかと、私は…」


「私はお前を手放すとは一言も言わなかった」

 王子は苦しそうにそう答えた。

「そのような事ができる筈がない…」


 その瞬間、イーデンに瞳に浮かんだのは、抑えようもない深い自責の色だった。


 イーデンは辛そうに王子を見つめ下ろし、許しを請うようにその指に唇を寄せた。

「その結果がこれですか?」


 イーデンは王子の右腕に手をかけ、ゆったりとした袖を肘の上までたくし上げた。服に隠れていた包帯が、燭光の下に露わになる。


「清月妃が貴方に何を言われたか、私にはおおよそ見当がつく。


 貴方を一刻以上謁見の間に待たせた上、姿を現されるなり、いきなり人払いをされたそうですね。

 いつまで経っても出て来られない貴方を案じて従者が中を覗いてみると、貴方は血だらけで床に蹲っておられた。


 あの時控えていた従者が、泣きながら私に詰め寄りました。

 何故あのような振る舞いを清月妃に許すのかと。何故ちゃんと、貴方を守ろうとしないのかと。

 

 返す言葉もありませんでした。

 貴方をあそこまで追い詰めたのは私です。

 清月妃があのような行為に及ぶかもしれない事はわかっていたのに、貴方を守る何の手立ても打っておかなかった…」


「お前のせいじゃない…」

 王子は哀しそうに否定した。


「清月妃には私を打ち据えるだけの理由があった。お前が責任を感じる事はない」


「何故、そのように何もかも一人で被ろうとなさるのです!」

 イーデンはもどかしげに叫んだ。


「食事もとれなくなるほどに苦しんで、それでもつらいの一言さえ私に打ち明けて下さらない。

 それほど私は頼りないのですか?

 貴方を支え、共に苦しむ事も許してもらえないのなら、貴方にとって一体私とは何なのです!」


「イーデン…!」

 王子は堪らずにイーデンの腕を掴んだ。


「お前以上に大切な存在はいない!

 私はただ、これ以上お前の負担になりたくないんだ…!」


「負担…?」

 イーデンは愕然と呟いた。


「貴方の事が負担だと、誰がそのような事を言いましたか?

 私が唯一欲するのは貴方だと、幾度言ったら信じていただけるのです!」


 イーデンは王子を荒々しく引き寄せると、その体を自分に溶け込ませようとするかのように、胸の中にしっかりと抱き込んだ。


 波打つ鼓動の速さが、イーデンの懊悩と想いの激しさをそのまま表している。


 イーデンは王子の温もりをしっかりといだいたまま、思い詰めた眼差しを、窓の外、果てなく広がる深い闇へと据えた。


「貴方が時止めの洗礼を受ける前に、私を貴方の主連として下さい」


「な、に…?」

 信じ難い言葉に、王子はぎくりと体を強張らせた。


「貴方を失えば、私は生きていられない。

 貴方がそれを信じて下さらぬのなら、信じて下さる状況を作るだけです。


 …貴方が時止めの儀式を受ける前に、永劫の忠誠を神に誓います」


 その瞬間、総毛立つような恐怖が王子の体を走り抜けた。

「馬鹿な真似は止せ…!」


 王子は掠れた声で叫び、渾身の力でイーデンの体を押し退けた。


あるじが洗礼を受ける前に、主連の誓いを結ぶ馬鹿がどこにいる!

 私が焔の夢魔むまに取り込まれて死ねば、お前もすぐに後を追わなければならないんだぞ!


 夢魔に取り込まれるのはその者の運命さだめだ。逃れる事は叶わぬ。

 だが、お前までそれに殉じようとはするな。

 そこまでの価値はない」


「だからこそです」

 イーデンは真っ向から反駁はんばくした。


「貴方がご自身の事をそんな風に思っておられるからです!

 洗礼の夢魔が紡ぐ狂気は恐ろしいものだ。体験した私には、その怖さが痛いほどわかる。


 けれどそれは決して運命さだめではありません。

 夢魔は脆弱な心を死へと誘い込む〝迷い夢″です。生への恐怖を紡ぎ、不安や孤独といった負の感情を極限までかきたてる。


 それから逃げる方法は唯一つ。

 石にかじりついてでも生きたいと願う強い心です。


 洗礼の前に誓いを結べば、貴方は私のために生きなくてはならなくなる。私の事が大事なら、貴方は何があっても生きようと願われる筈だ!」


「私をこの世に引き留めるためのくさびになろうと言うのか」

 蒼白な顔で王子は呟いた。


「危険すぎる…!お前の命を軽々しく扱うような真似は私が許さぬ!」


「…では今すぐ命を絶ちましょうか?」

 不気味な静けさを孕んだ声で、イーデンがそう応じた。


 王子は思わず息を呑んだ。

「何を言う!」


「後を追う許しも与えられないのなら、今ここで死ぬまでの事です。


 貴方が夢魔から目覚める自信がないと言われるなら同じ事だ。

 今この手で貴方を殺し、同じ刃で自分の喉を突く」


「イーデン!」


「本気ですよ。貴方のいない人生を生きるつもりはない」


 王子を見つめるイーデンの瞳には、静謐に澄んだ覚悟だけが映し出されていた。

 忠節を請う真摯な思いが、痛いほどに伝わってくる。


「…お前は馬鹿だ」


 やがて王子は降参したように、そっと言葉を絞り出した。

「本当に馬鹿だ、お前は……」


 俯き震える細い肩を、イーデンはゆっくりと抱き寄せた。


 逃げ道など自分には必要ない。

 同様に王子に対しても、イーデンは逃げを打たせるつもりはなかった。


「貴方に何かあれば、私はすぐに後を追う」

 イーデンはうっそりと笑った。

「私のすべては御身のものです」


 それは神に捧げられた、永劫の誓約だった。




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