第一部 すれ違う心
イーデンは王都への道をひたすら馬車で急いでいた。
幾度となく窓の外に向けられる眼差しは内心の苛立ちを隠しきれず、焦慮のあまり無意識に爪を噛みそうになり、ふと気付いては吐息と共にその手を膝に下ろす。
同じ道を、姉の待つキサーロへと急いだのはつい二日前の事だった。
容態を案じる気持ちは勿論あったが、それよりも、狂言ではないかと疑う気持ちの方がイーデンには強かった。
あの手の噂は思うよりも早く周囲に伝わるものだ。
姉はどこからか噂を伝え聞き、真偽を確かめるために自分を呼びつけたのではないかと思ったのだ。
案の定、キサーロに馬を飛ばして来てみれば、待っていたのは怪我一つない健やかな姉の姿だった。
七つの時、両親を一時に失う形になってしまったイーデンは、並の姉弟よりも強い絆で姉と結ばれていた。
事実ユリアナは、孤児となった幼い弟の面倒を見るために、定まっていた自分の結婚の時期まで遅らせてくれている。
イーデンが道を誤る事なくこうして有寿となれたのも、親代わりとなって愛情を傾けてくれたユリアナのお陰であり、イーデンは深い恩と感謝の念を姉に抱いていた。
だから、ユリアナが嘘をついて自分をキサーロに呼びつけたと知った時も、姉ならば仕方がないとイーデンは納得した。
信頼を踏みにじられた腹立たしさはあったが、いずれ姉には時を見て、自分の思いを直接伝えるつもりだった。
それが今であっても、イーデンには何の不都合もない。
だが姉は、イーデンの言葉に全く耳を傾けようとしなかった。
姉にとってユーディス王子は、母を奪い、父を殺した憎い敵に他ならず、イーデンがいくら言葉を尽くしても感情で拒絶された。
父の無念を忘れたのと、金切り声で詰られた。
裏切り者と散々に泣かれ、考えを改めるようにと何度も懇願された。
自死した父の事を思うと、今でもイーデンの胸は痛む。あの壮絶な死に様は、どれほど時が経とうと脳裏から消え去る事はない。
けれどあれは、決して王子の罪ではなかった。
父の死に関して最も罪のない者をあげるとすれば、それは王子に他ならなかった。
命を授かった事がそもそもの罪だと言われても、王子にはどうしようもできない事だったからだ。
結局イーデンは、姉と対立したままキサーロを後にする事になった。
急ぎ王都に戻るのには、それなりの切迫した事情があった。
口論の最中、「元々は清月妃が繋がれた縁だ」と言い返したイーデンに、ユリアナは「清月妃はその事を深く後悔していると、わたくしに文で謝られたわ」と口を滑らせたのだ。
自分の顔色が変わるのがイーデンにはわかった。
主連の件を伝えて、説得するようにと頼んだのが清月妃であるのならば、自分が王都を空けている間に清月妃は必ず王子に接触してくる。
それはもはや明白な事項で、イーデンは遠く隔たれた王都にいる王子の身が案じられて気も狂わんばかりだった。
丘陵地帯を抜け、白壁の立ち並ぶ街並みに差し掛かると、馬車はわずかに速度を落とした。
思いごとに気を取られるまま、見るともなしに遠い山々へと目をやれば、秋も深まってきたのか、目に鮮やかな赤や黄色がまるで絵画のごとく山肌を彩っている。
日中はまだ汗ばむほどの陽気だが、確実に冬は近付いているのだろう。
ようやく城門が見えてきて、イーデンは我知らず握りしめていた拳を解いて、小さく吐息を零した。
一刻も早く王子の元へ帰りたかった。
その無事な姿と、安らかに澄んだ眼差しを認めるまでは、安心できない。
イーデンが帰都するや、その報せはすぐに王子に伝えられ、王子は見送った時と変わらぬ柔らかな笑みでイーデンを宮に迎え入れた。
慌ただしい旅装束のまま膝を折るイーデンに、王子の眼差しが自然緩む。
「姉君は如何であった?」
穏やかにかけられた言葉にイーデンは一瞬答えを躊躇った。
この呼び出しが姉の狂言であった事を皆の前で明らかにして、王子にこれ以上の心痛を与えたくなかったからだ。
「大した怪我ではありません。ご心配をおかけし、申し訳なく存じます」
神妙に瞳を落としたイーデンは、この言葉を聞いた王子の瞳に、怯えにも似た微かな揺らぎが走り抜けた事を迂闊にも気付き損ねた。
王子は物問いたげに口を開きかけ、すぐに思い直したように瞳を逸らした。
「このように早く戻ってくるとは思わなかった。
姉君とは久しぶりに会ったのだろう。もう少しゆっくりしてくれば良かったのに」
鈴のごとく澄んだ声音に皮肉めいた響きは一切なかったのに、イーデンはふと奇妙な違和感を覚えて王子の顔を仰ぎ見た。
「王子にお会いしたくて急ぎ戻って参りましたのに、つれないお言葉ですね。
喜んでは下さらないのですか?」
王子ははっと顔を上げた。
「そのような事はない。私はとても…」
にこやかに言い切ろうとした王子は、自分の笑みが歪んでしまった事に気付き、一瞬、言葉を詰まらせた。
「とても喜んでいる」
イーデンは押し黙った。
それはキサーロに旅立つ前の王子ではなかった。
まるで、何か目に見えないヴェールが、自分と王子との間を隔ててしまったかのようだった。
イーデンはもどかしげに瞳を細めた。
他の宮人らの目がなかったら、イーデンはすぐにでも王子をこの腕に抱きしめ、詰問していただろう。
だが、この場で見苦しく騒ぎ立てるのは、すでに主連を公言している身としては憚られた。
「今日はもう下がれ。部屋でゆっくり旅の疲れを癒してくれ」
そうして王子は、イーデンの視線を殊更避けるように、唐突に会話を終わらせる。
イーデンは不満そうに口を開きかけたが、どこか苦し気な王子の様子に気付き、思い直したように口を噤んだ。
「仰せのままに」
イーデンは一礼し、王子の言葉に従った。
イーデンが退室した後、王子はすべての宮人を自分の周囲から遠ざけた。何もかもがやり切れず、ひどく投げやりな気分だった。
暮れなずむ夕空が、庭木の長い枝影を絨毯に落としている。
王子は震える両手で顔を覆い、崩れるようにソファーに沈み込んだ。
己の惰弱さに、歯噛みするような嫌悪を覚える。
何故、姉の事で嘘をつくのかと、正面から質せば良かったのだ。
それすらも怖くてできなかった。
姉の願いを受け入れることにしたと、その口から告げられるのが怖かったからだ。
泣いて縋ればイーデンは自分の元に留まってくれるだろうか。
そんなあさましい考えが一瞬、胸を過ぎり、そうした己の卑しさに王子は血も凍る思いがした。
そうやって己が孤独を埋めるために、イーデンを自分に縛り付けるのか。
優しさに付け込んで人生を狂わせ、その上に胡坐をかいて笑っていられるのか。
答えは否だった。
自分はイーデンを解放してやらなければならない。本当にイーデンの幸せを自分が望むならば…。
ほとほとと戸を叩く音が、打ち沈む王子の物思いを中断させた。
「お食事をお持ち致しました」
遠慮がちな声に、王子は気怠くソファーから身を起こした。
「……そこに置いておいてくれ」
食欲はまるでなかった。
イーデンが離れた三日間、膳にほとんど手を付ける事ができなかったように。
体はぼろぼろに疲れているのに、神経だけが張り詰めて高ぶっていた。
日常に追われる日中はともかく、夜は幾度となく目覚めて闇に微睡み、夢うつつにイーデンの温もりを探した。
手を伸ばしても望む温もりは見当たらず、ぼんやりと辺りを見渡してようやく闇に目が馴染めば、自分が一人きりである事を思い知らされる。
底知れぬ奈落を一人堕ちていくような深い喪失と悲哀…。
この失墜の感覚はいつになったら癒されるのだろうか。
明日で、第一部は終了します。
今まで読んで下さって、ありがとうございました。




