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第一部 王子の哀しみ

 冷たく静まり返った謁見の間に、王子は一人膝をついていた。


 母の宮に呼び出されてから、かれこれ一刻以上が過ぎようとしているが、今なお宮の主が姿を現す気配はなく、本来なら離れずに従っている筈のイーデンの姿もまた王子の傍らにない。


 そのイーデンはつい先刻、姉の嫁ぎ先であるキサーロへと出立していた。

 姉のユリアナが崩落の事故に巻き込まれ、重体との報せを受け取ったためだ。


 時期が余りに不自然であったため、イーデンは当然作為を疑った。

 馬車に乗り込む寸前まで行くことを躊躇っていたが、その心配が杞憂ではなかったと気付かされたのは、馬車が出立するや、待ちかねたように母妃からの召喚の使者が宮を訪れた時だった。


 

 王子の身を案じる従僕らが謁見の場に付き従う事さえ、清月妃は許さなかった。


 そうして倦むような時がいたずらに王子の頭上を過ぎゆき、怯えにも似た密やかな疑いは、今や王子の中ではっきりとした確信へと変わっていた。



 寒々とした夜の冷気が衣裾を割り、薄物を纏っただけの王子の体はとうに冷え切っている。

 果てなく続く待機の緊張と疲労が極限に達したと思われた頃、ようやく清月妃が姿を現した。


 叩頭する王子には目もくれず、清月妃は従う女官らを早々と部屋から遠ざけて、開口一番、忿怒に満ちた言葉を王子に投げつけた。


「わたくしが何のためにそなたを呼びつけたのか、そなたもうすうすは気付いている筈」


 柔らかな朱唇から放たれる言葉は冷ややかな悪意に満ちて、王子の存在自体を嫌悪し、否定していた。


「もしそなたに人を想う心が少しでもあるのならば、今すぐイーデンの後見を辞退しなさい。


 この騒動で、あの子が何とそしられているか噂くらい聞き知っていよう。

 そなたにたぶらかされ、若い獅子が腑抜けにされたと散々の言われようです。


 あの子さえ望めば、どんな名門の姫でも妻に迎え入れられようものを、あの子はもはや正しい言葉すら耳を通り過ぎるようになってしまった…」


 口惜しさに涙さえ滲ませて、清月妃は更に言葉を重ねる。


「わたくしの大事な子をたぶらかすなど…!


 そなたなど、さっさと臣下に下ってしまえば良かったのです!

 今までさんざん人の笑いものにされ、これ以上の恥の上塗りを、そなたはまだ望むのか…!」


 容赦なく吐き出される言葉の毒に、さすがの王子も色を失った。


 王子は皮膚に爪を食い込ませ、ひたすら恥と痛みの極みに耐えていたが、それでも虚ろな世界に見つけたこの温もりだけは手放せぬと、頑なに母妃の言葉に首を振った。


「母上、申し訳ありません。

 …お言葉には従いかねます」


「そなたは…ッ!」

 清月妃の形相が一変した。


「そなたにはイーデンの不幸が見えませぬか!


 イーデンは自分から口にしたがために、今更言を翻せずにいるのです!

 そなたの主連しゅれんになろうなどと、これほど馬鹿げた選択はないというのに…。


 そなたに少しでも人としての心があるのなら、そなたの方から断ってやるのが筋ではありませんか!」


 今まで口答えなどした事もない王子が正面から逆らってきた事で、怒りに火がついてしまったのだろう。

 清月妃は積年の恨みを晴らすとでも言うように、更に罵言ばげんを撒き散らせた。


 王子は母の顔を正視できなかった。

 清月妃の顔は憤怒と怨みに醜く歪み、夜叉のごとき形相となっていた。


 そこに玲瓏にたおやかな寵姫の面影はない。

 愛する我が子のために狂ったように喚き散らすその姿は醜悪で…、そして慟哭が透けて見えた。


 あまりにも哀れな母の姿だった。

 そしてまた、これほど実母に疎まれなければならないこの身が、王子は凍えるほどに哀しかった。


 無明の闇を一人堕ちていくような孤独を囲いながら、それでも王子は、この望みを聞く事だけはできないと、ただそれだけを自分に言い聞かせた。


 自分はイーデンと約束したのだ。

 何があっても彼を待つと。


 母への情に流されてイーデンを裏切る事はできない。

 このような形でイーデンの思いを踏み躙るような事だけは決して…!


「…お許し下さい。辞退する気はありません」

 王子は言葉を振り絞るようにそう答えた。


「これほど言ってもまだ…」


 清月妃の言葉が不気味に途絶えた。

 近づいてくる衣擦れの音に王子がはっと顔を上げた時、仁王立ちする母の姿がすぐ眼前に迫っていた。


 あらん限りの憎しみを込めた双眸が、毒矢のごとく王子を射抜く。

 王子はたじろぎ、哀しみを堪えて母妃を仰ぎ見た。


「そなたなど、生まれてこねば良かったのに!」


 次の瞬間、清月妃は手にした扇を王子の顔に躊躇いもなく振り下ろした。


 鈍い音が響き、鮮血が辺りに飛び散る。

 とっさに顔を庇った王子の二の腕を、金でできた扇が鋭く切り裂いたのだ。


 切り裂かれた腕の痛みより、驚愕の方が王子には大きかった。


「母上…」

 

 呆然と呟く王子に、清月妃は迸る憎悪をそのままに浴びせかけた。


「そなたなどに母などと呼ばれる筋合いはない!

 その魔性の貌でイーデンを惑わせたか!

 殺せるものなら、今この手でくびり殺してやったものを……!」


 その言葉は、とどめのように王子の心を切り裂いた。 

 王子は小さく呻き、崩れるように床に倒れ込んだ。





 しばらくの間、王子は気を失っていたのかもしれない。

 気付けば清月妃の姿はそこにはなく、王子は一人、冷たい広間に残されていた。


 王子は床に蹲ったまま、衣服を染める血をぼんやりと眺め下ろした。

 この身に赤い血が流れている事すら、母はとうに忘れてしまったに違いない。



 王子は不意にくっと短い笑い声を漏らした。


 母が少しは自分を気にかけてくれていると信じていたなど、自分は何とおめでたい人間だったのだろう。

 愛された記憶はなかった。いくばくかの哀れみや同情は与えられたとしても。


 対等の人間として認め、あるがままの愛情を向けてくれたのはイーデンだけだった。


 だからこそ惹かれた。

 失いたくないと切に願った。


 今頃イーデンは、考えを改めるよう姉君から説得を受けているに違いなかった。


 ユリアナの怪我が狂言であったことを、今や王子ははっきりと確信した。

 本当に重篤であるならば、あの清月妃が愛する我が子を案じていない筈がない…。


 王子は震える息を小さく吐き、虚ろな闇を遠く見つめた。


 そうして思いを突き詰めていけば、最後には自分だけが一人なのだと、改めてそう思い知らされる。


   そなたなど生まれてこねば良かった。


 自分を産んだ母の、魂を食む怨嗟の言葉…。


 何故自分が生きているのか。生き続ける価値が本当にあるのか。

 気が狂うほどに、幾度となく自分に繰り返してきた問い。


 今でも答えはわからない。

 だが今はイーデンがいる。すべてを犠牲にしてでも、自分に従おうとしてくれるイーデンが。



 イーデン…。

 王子は闇に差し込む一条の光のように、愛おしいその名前をそっと唇に乗せた。


 つい半日前、時を惜しんで交わされた抱擁と接吻でさえ、今は昔日のごとく感覚が薄らいでいた。

 一刻も早くイーデンに会いたいと切望するのに、心のどこかでそれを恐れる自分がいる。


 もしイーデンが姉の懇願に負けて、自分との別離を望んだら……?

 喪失を突き付ける恐ろしい予感に、王子は身を震わせた。


 …それでもお前が真に私から離れたいと望むのなら、お前を無理やり縛り付けたりはすまい。


 矜持きょうじを奮い立たせるように王子はそう心に呟き、傷付いた右腕を庇うようにゆっくりと立ち上がった。

 と、その視界が不意に、涙でぼやける。


 期せずに溢れ出た涙はたちまち幾筋もの涙となって頬を伝い、襟足を濡らしていった。

 王子は崩れるように壁に寄り掛かると、声を押し殺して静かにむせび泣いた。


 寂寞が辺りを覆っていた。

 明るさを絞ったほの暗い燭の灯は、慣れた諦念を思わせて殊の外暖かく、限りない慈愛を込めて孤独な王子を包み込んだ。 












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