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第一部 月妃の心

 イーデン・トロワイヤがユーディス王子の主連しゅれんになるという噂は、瞬く間に王宮を駆け巡った。


 何の不足もないトロワイヤ家の貴子きしが世の流れから見放された不遇の王子に終生の忠節を願い出たのだ。

 その気違いじみた決断に誰もが呆れ、その正気を疑い、そして陰で嘲笑った。


 今や王子の美しさは、かの守陽しゅようムーランさえ凌駕するものがあった。


 大切に守られ、愛された伸びやかさがムーランの美貌に軽やかさを添えていたのに対し、王子の美貌は、哀しみと憂いに彩られて尚、褪せぬ魂の崇高さを、より鮮明に打ち出していたせいだろう。


 王子の色香に惑わされてトロワイヤが正気を失ったのだと、誰もがそう噂した。


 そうして貴子らは、面白おかしく囁き合った。

 確かにあれほどの美貌の君ならば、将来をなげうっても悔いはないかもしれぬ…と。





 イーデンが清月妃の宮に呼ばれたのは、それから二日も経たぬ日の晩だった。


 十日ぶりに見る清月妃の顔は、ある程度予測していたイーデンですら息を呑むほどにげっそりとやつれ、その目尻には深い苦悩が刻まれていた。


「わたくしが何故貴方をここに呼び出したのか、理由はご存知ですね」


 清月妃は、先導の侍女が部屋を下がるのさえ待てず、不快も露わにイーデンにそう言った。

 イーデンは警戒するように顎を引き、やや冷ややかに清月妃を仰ぎ見た。


「…私が王子の主連になるという噂をお聞きになったのでしょうか」


 この三日間、自分はどれだけ多くの者たちに、この決断を考え直すよう言われただろう。

 ある者はイーデンが王子にたぶらかされているのだと悪しざまに王子を罵り、ある者はイーデンがいかに愚かしい決断をしようとしているかを、言葉を尽くしてわからせようとしてきた。


 まるで今まで、ごく自然に自分を取り巻いていた人々が、この一件を機に人間の本性をさらけ出し始めたかのようだった。


 不遇の王子に肩入れしても益することは何もない…。

 金、出世、名誉、地位...。彼らが口にするのはその事ばかりだ。


 清月妃から呼び出しを受けた時、イーデンは何より清月妃の心を知りたいと思った。

 無寿むじゅの間だけでも仕えて欲しいと、最初にそう望んだのは清月妃だった。


 他の者はともかく、王子の母である清月妃だけは自分の決断を認めて下さるのではないか、王子のために喜んで下さるのではないか、秘かにそう望みをかけてさえいたのだ。


 だが、清月妃の険しい眼差しの前に、イーデンの期待は瞬く間に霧散した。清月妃もまた、自分が王子の主連となる事には反対なのだ。


「噂は本当なのですか?」


 清月妃は、不気味なほど静かな声で問いかけた。

 その眼差しにとぐろを巻く憎悪を感じ取った気がして、イーデンは思わず嫌悪に身を震わせた。


「本当の事です」

 イーデンがそう答えると、清月妃の柳眉が跳ね上がった。


「なりません!ユーディスの主連となるなど、このわたくしが許しません!」


「…何故です?」

 イーデンの瞳が剣呑な光を帯びる。


「何故ですって…?」

 清月妃は、信じられないというように首を振った。


「そなたにはわかり切っている事でしょう。ユーディスは王の御子であるかどうかすら、周囲から危ぶまれている王子です。

 王の晩年に生まれ、陽世継ひよつぎとなる可能性は皆無に等しい。

 そのような御子に肩入れしたとて、貴方に何の得がありましょう。陰ながら援助してやるだけで十分ではありませんか!」


 イーデンは最初、怒りのあまり口もきけぬほどだった。


「王子は貴女の御子ではありませんか!

 頼りない身であればこそ、こうして後見が決まった事を何故喜んで下さらぬのです!」


「わたくしの子ですって?」

 清月妃は身震いし、嘲るように言い放った。


「あのような子、我が子だと思ったことは一度もない!わたくしが愛するのは、イーデン、お前とユリアナの二人だけ。

 ユーディスなど……!」


 不意に言葉は途切れ、清月妃の瞳から堪えきれぬ涙が迸り出た。


「そなたはもはや幼い子ではない。わたくしの気持ちくらいお分かりでしょう。

 遠い昔、わたくしはそなたの父上とそなたたちに囲まれて幸せでした。


 それが突然の兄の死…。

 王は守陽を失った悲しみからわたくしをお求めになり、わたくしも臣下の一人としてそれに応じました。


 わたくしは王を心から崇敬しておりますが、その感情はそなたの父に抱いていたものとはまるで違います。

 わたくしにとって、心からの夫と呼べるのは亡きあの方だけなのです。


 何故ユーディスが生を受けたのか、わたくしにもわかりません。

 王の年寿を考えると、授かる筈のない命でしたのに。


 あの子の誕生など望んだこともなかった…。身に覚えのない罪を着せられ、わたくしはどれほど口惜しい思いをしてきた事か…!

 それでもわたくしはあの子を哀れに思い、優しくしてやったというのに…」


 イーデンは憤怒の余り、今や吐き気すら覚え始めていた。

 優しくしてやったなど、どの口でそんな言葉が言えるのか。


 哀しみも寂しさもすべてその胸にしまい込み、ひっそりと生を紡いできた王子の孤独を、清月妃は何だと思っているのだろう。

 

 イーデンはそれ以上の暴言に耐えられなかった。清月妃の言葉を遮るように、イーデンは荒々しく席を立った。

 


「これ以上の話し合いは不要です。

 貴女がどうおっしゃろうと、私の気持ちは変わらない。

 お話がそれだけなのであれば、これで失礼致します」


「お待ちなさい、イーデン…!」


 清月妃は己が立場も忘れ、戸口に向かうイーデンの背中に取り縋った。

 流れ落ちる涙が、イーデンの服を熱く濡らした。


「行ってはなりません!

 あの子はお前を不幸にします。あの子にだけは関わってはなりません…!」


「……母上」

 イーデンは感情を抑えるように大きく息を吐き、清月妃の手を振り解いた。


「こうお呼びするのも、これが最後と思し召し下さい。

 私はとても残念です。貴方が私に与えて下さった愛情の半分でも、王子に与えて下さったなら…」


「イーデン…!」

 清月妃は涙声で叫んだ。

「お待ちなさい…!イーデン…ッ!」


 母の金切り声が背中に突き刺さる。

 それでもイーデンは、一度も後ろを振り返ろうとはしなかった。



 何もかもがやりきれなかった。

 王子をひときわの闇に陥れたのは他ならぬ清月妃であったのだと、今更ながらにイーデンは思い知る。


 親切そうな上辺で取り繕っていても、その仮面の下に蠢く暗い憎悪を、幼い王子は本能的に嗅ぎ取ってしまったのだろう。


 無寿の王子に自分を近づけさせたのは、僅かにとどまる母性の残滓であったのか…。

 そこまで考えて、イーデンはふと霧が晴れ渡るように何もかもが鮮明に理解できた気がした。


 …お前は本当に、月妃が私のためにお前を呼び寄せたとでも思っているのか?

  私の心も月妃の心も、お前は何もわかっていない…。


「ああ…」

 イーデンは我知らず声を漏らした。

 なぞかけのような王子の言葉が、今ようやく理解できたのだ。


 清月妃はただ、自分に会いたくて王子を利用した。

 王子の傍仕えともなれば、それを口実にいくらでも自分を居殿に招く事ができるからだ。


 清月妃は何と残酷な事を王子に強いたのだろう。

 王子はずっと母の愛を求めていたのに、清月妃はもっとも残酷なやり方でその思いを踏み躙った。




 ざわめく心を抑えかね、あてもなく内庭にさまよい出た時、イーデンはそこに思わぬ人影を認めて、はっとその場に立ち竦んだ。


 王子だった。

 王子もまたすぐにイーデンに気付いたらしい。

 驚きに目を瞠ったのは一瞬で、王子はすぐに笑みを取り繕い、何事もなかったように声をかけてきた。


「こんなところでお前に会うとは思わなかった。

 ここで会った事は、テナーンには黙っていてくれないか?」


「…何故です?」

 とっさに意味を図りかね、そう問い返すのへ、

「風邪を引くから、夜は絶対に外に出るなと言われている」

 王子は重大事を打ち明けるようにそっと声を落としてきた。


 イーデンは思わず笑いを零した。

「わかりました。私の胸だけに秘めておくことに致しましょう」


 時止めの洗礼を受けていない無寿の者は、有寿たちに比べると、格段に体が弱い。

 そう気付いたイーデンは、自分が身に纏っていったローブをそっと王子の肩にかけてやった。


「中に入りましょう。これで本当に風邪をひいたら、テナーンに何と言われるか」


 イーデンは笑いながら王子の手を取ったが、触れた手が冷え切っている事に気付き、驚いたように皇子を見た。


「こんなに冷え切って…。

 なんて無茶をされるのです」


  …自分が月妃に呼ばれたことを知ったのだ。


 理由もなくそう感じた。

 問い詰めたとて王子は口を割らないだろう。こんな風に、言えば負担をかけてしまうと思われた時には…。


「心配させて済まない。

 こんなに長く外にいるつもりはなかったのだが…」


 王子が身仰ぐ先にはなるほど、いびつな縁を形作る十三夜月がある。

 望月となる前の、あと一歩の調和に欠ける育ちゆく月が好きなのだと、あの夜、皇子がそんな風に呟いたのを思い出した。


   十三夜月は必ず満ちるから。


 そう呟いた王子の妙にきっぱりとした情を許さぬ眼差しも…。

 それは、寂しさだけを友として育った王子が、唯一夢見ることを許された確かな未来であったからかもしれない。



「部屋に戻りましょう」


 諦念を呑んだ、もの柔らかな横顔が何故か痛ましい。

 あれほど理不尽な扱いを受けて尚、この方は憎しみを向ける事すらできないのだ。


 イーデンはそっと王子の肩を抱き寄せた。


 降り注ぐ清浄な月明かりが、虚心に空を仰ぐ王子をひとしく照らしている。

 業を捨て、惑いもなく、ただ溢れんばかりの幸福だけをその身に刻みたいと、イーデンは冴え冴えとした月明かりの下でそう強くこいねがった。




 

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