第一部 貴子の覚悟
その夜、夜酒を運ぶ侍女が王子の元を下がるのを待って、イーデンは王子の室を訪れた。
イーデンの訪れをおそらく王子は予期していたのだろう。
戸口に佇むイーデンを一瞥し、王子は黙って扉を大きく開け広げた。
室内の燭はやや抑えてあり、カーテンが開け放たれた窓辺からは、青ざめた月の光が慈愛を思わせる静けさで室内に降り注いでいる。
月光に照らされる調度類は絵空事のように瀟洒に整って日常の匂いを感じさせないが、そんな中、窓際の三つ脚の卓子には、そこだけぽっかりと生の営みを切り取ったように、口を切った祥果酒の瓶と玻璃の脚杯が置かれていた。
おそらくは酒杯を片手に、空に浮かぶ上弦の月を王子は愛でていたのではないだろうか。
「お前も嗜むのだろう。付き合え」
王子は紫檀の棚から同じ脚杯を取り出すと、握らせた杯に祥果酒をなみなみと注ぎ入れた。
そうして眼差しは再び月へ、手は卓子に伸び、飲みかけの玻璃杯を指の間に掴み取る。
杯の底から縁にかけて編み物のように交差した白い線が螺旋状に伸びる様が、玻璃の深藍色を典雅に引き立て目を引いた。
「何を…考えておいでです」
気づまりな沈黙に耐えられず、そう問いかけるのへ、王子は夢を追う曖昧な笑みを形の良い唇にふわりと乗せた。
「月のことを」
「月……?」
「ああ。ムーアは二つに分かたれることを殊の外嫌う。
十八が寿数ならば、その半分の九は忌数。
ならば、望月を割った上弦、下弦はさしずめ忌月と言えるのだろうかと」
恬淡と言葉を紡ぐ横顔の、いつもは後ろ一つでくくられた陽色の髪が、今は無造作に背に散らされているのが、いともあえかに美しい。
「それほどに半月はお嫌いですか?」
思い付くまま問いかけるのへ、
「風情がない」
王子は何の感慨もなく言い捨てた。
調和を欠いた十三夜月でさえ王子は愛でていとおしむのに、趣を分かつ半月は許せないのだ。
「形だけを問うならば、完全に満ちて輝くか、いっそひときわの闇の方がいい」
微笑みを宿す唇から紡がれる言葉。
その声音は手にした藍玻璃の澄んだ透度にも似て、張り詰めた静けさが心髄をなしていた。
イーデンはもどかし気に唇を噛んだ。
これほど近くに仕えているのに、王子の心がまるで読めない。
夜を偲んで訪れても、何故ここに来たのかと問われることもなく、自らが忌月と貶める上弦の月に、王子は心を奪われている。
そうして自分が問い詰めぬ限り、王子は何一つ答える気などないのだろう。
凝った哀しみをすべて胸にしまい込み、一切を秘して語らない。
「王は、貴方が十八で時を止め、そのまま臣下に下るよう勧められたそうですね。
そしてそれは、清月妃たっての願いであったとか…」
やり切れない怒りに、端正なイーデンの面が歪んだ。
「そのように大事な事を、何故一言も話してくださらぬのです!
ヨーザ風情の口から聞かされて、どれほど情けない思いをしたか……!」
詰るつもりなど微塵もなかったのに、気付けば声高に王子を責めたてていた。
哀しみを開いてもらえない事が、魂を食む程に口惜しかった。
誰よりも御身の傍にいて、誰よりも深く魂を通わせているつもりであったのに、王子は僅かな弱さすら自分に許してくれない。
声を震わせるイーデンを一顧だにせず、王子は手に持つ脚杯を一息に飲み干した。
そうしてようやく、王子はイーデンに向き直る。
眼差しを灼く自嘲の色だけが、秘められた王子の深い哀しみを表していた。
「多分、言葉にするのが辛かったからだろう。
私は父に心から、我が子と認めて欲しかった。
臣下に落ちるには抵抗があった。
時の流れから見放された身であっても、私は御子であることを誇りに思い、それを支えに生きてきた」
「王がそうお望みになったのは、貴方の行く末を案じられての事です。他意はありません」
イーデンは王子を慰めようとしたが、王子はただ寂しげに微笑むばかりだった。
望むことを諦めた眼差しが、再び窓辺の月を追っている。
「もういい。どちらが真実であっても同じ事だ」
「……同じ?」
イーデンは聞き咎めて眉宇を潜めた。
「どういう意味です?貴方はご自分の誇りをお捨てになるつもりですか?」
王子は答えなかった。
その沈黙にイーデンは苛立ち、焦れたように声を上げる。
「臣下に下るなど馬鹿げています!貴方がそこまで身を落とされることはない。
財政的な事を気になさっているのなら、私が何とかします。私が傍にいる限り、貴方には決して頼りない思いはさせないとお約束する!」
イーデンは激情を抑えるように大きな息を吐いた。そしてゆっくりと王子の足下に跪いた。
「先だって貴方は、終の谷でお尋ねになった。十八で時を止める事を、私が望むかどうかと。
今ならば、迷いなく答えられます。
私は貴方にこの焔満月で時を止めて欲しい。
そうすれば、貴方は私を同じ年寿になる。
八度目の降寿が過ぎて、最後の欠け月が私を訪れる時、貴方一人を残して逝くなど私には耐えられない」
「イーデン…」
王子は足下のイーデンを眺め下ろし、深い声で名を呼んだ。
「片手間の同情は要らぬ。お前が私を守りたいと願うならば、すべてを与えるか一切を拒むかだ」
静かだが、断固たる意志を秘める言葉に、イーデンはたじろいだように顔を上げた。
「すべて、を…?」
王子は嫣然と微笑んで、焔のような眼差しをイーデンに突き付けた。
「私はお前を受け入れる。だから、お前が選ぶが良い。
一生を私に捧げるか、それともこのまま私の元から去るか」
イーデンは大きく目を瞠り、喘ぐように息を吐いた。
王子の言わんとするところは明白だった。王子は今、自分に主連を求愛したのだ。
「私は王が六寿を過ぎて授かった子だ。陽世継ぎに選ばれる事は決してない。
つまり、お前にとっても、トロワイヤ家にとっても、何のメリットもないという事だ。
イーデン。
私はお前を求めるが、無理強いする気は毛頭ない。私の言葉が重荷なら、持ち得る誠意のすべてで私を拒絶せよ。
片手間の同情や哀れみは要らぬ。お前は私の傍を離れ、お前の人生を歩むがいい」
……完全に満ちて輝くか、いっそひときわの闇がいい。
満ちゆく月を厭って呟かれたあの言葉は、そもそも誰に向かって放たれた言葉だったのか。
純然たる覚悟を王子は喉元に突き付ける。
財政的な支援や、憐憫の上に立つ王族の面子など、王子は端から欲していないのだ。
それでも……、王子に心酔し、心から崇敬の念を抱くイーデンにしても、主連という言葉は余りに重いものだった。
自身の栄達も、下手をすればトロワイヤ家の断絶すら導きかねない決断に、イーデンは亡き父の筆舌にしがたい無念を思いやる。
その悲しみを継いで名を残す事こそが長子たる自分の務めなのだと、幼い頃から教え込まれ、自身もまたそう信じて生きてきたのだから。
重く黙り込んだイーデンの様子に、王子はおそらく哀れを覚えたのだろう。
困ったように苦笑して、軽く後を続けた。
「いつか私はお前に言ったな。王が命を終える時、私も共に終の谷に降りると。
今はもうあのような事は考えていない。
あれは多分、独りよがりの子どもの感傷に過ぎなかった。
だからお前も、私に対し何の責任も負おうとするな。私の将来を案じずとも、臣下に下れば私はいくらでも生きてゆけるのだから」
王子は眩しげに月を仰ぎ、笑みを含んだ声音を夜の闇に滲ませた。
「ムーアは生きているだけで祝福を約された国だ。酔生夢死に生きるのも悪くはあるまい」と。
「今日はもう下がれ、心が決まったら来るが良い」
一切の感情を断ち切った静かな物言いだった。高潔さと矜持に満ちて、逡巡を微塵も言葉に残さない。
イーデンは唇を噛みしめた。
出生を疑われたまま臣下として生きることは、王子にとって屈辱以外の何ものでもないだろう。
それを敢えて受け入れようとするのは、主連を求愛した自分に生か死の選択を委ねまいとする、究極の決意の表れだ。
だからこそ一人にしてはおけなかった。
イーデンは重過ぎる運命に独り耐え、誰とも分かち合えぬ哀しみを生き抜いてきた王子の深い孤独を思った。
これ以上の寂しさを王子に負わせてはならない。
のたうつ闇に苦しみ抜かれた方だからこそ、これからはこの腕に抱き取って、少しでも苦しみを癒して差し上げたい。
イーデンの脳裏に、自分に従う数多の親族、家臣、そして清月妃の顔がゆっくりと浮かんで消えた。
何よりも大切に思い、慈しんできた者たちの顔だった。
だが今、イーデンが守りたいと願うのは彼らではなかった。
彼らのすべてを失っても、イーデンはただ一柱の魂を得たいと切に願った。純然たる輝きを放つ、剛毅に満ちた唯一の君を。
イーデンは誇らしげに顔を上げた。
多分この決断は気違いじみていると言われるだろう。トロワイヤ家の名を貶める愚かな行為だとも。
だが、誰にどう謗られようと、神の御前で恥じる事は何もない。
イーデンは背を向けた王子の元に大股で歩み寄り、その体をしっかりと胸の中に抱き込んだ。
「謹んでお受け致します。
一生を貴方の元に過ごし、忠誠と崇拝の限りを貴方に捧げます」
王子は後ろから抱きしめられたまま、僅かに身を震わせた。
「急いで決める必要はない」
王子は諭すように答え、イーデンの腕から逃れようとした。
「お前の姉も家臣も、お前を愛する者は皆、反対するだろう。時間をかけて話し合い、十分に考えて、それでもまだお前の気持ちが変わらないなら…」
「王子…!」
イーデンはその言葉を厳しく遮った。
「一族の反対は承知の上です。誰が何を言おうと私の決意は変わらない…!私は…」
力づくで王子を向き直らせたイーデンは、次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにして息を呑んだ。
王子は泣いていた。
声を押し殺し、きつく唇を噛みしめたまま…。
それはイーデンが初めて見る王子の弱さだった。
「お前が必要だと、お前なしでは生きられないと何故言って下さらないのです…!」
イーデンは切なくそう言葉を重ねた。
「私は御身のものです。貴方だけが唯一、私を支配する…」
イーデンは王子の頤を上げ、その唇に啄むような口づけをした。
王子はその手を払い除けこそはしなかったが、脇に垂らした腕をイーデンの背に回そうともしなかった。
「……お前は自分がどれほどの犠牲を払うことになるか、本当にわかっているのか」
王子は苦痛を堪える声でそう呟いた。
「私は通常の貴子が望むようなものは何一つ、お前に与えてやることはできないんだ。
私がどれだけお前を愛そうと、それと引き換えにお前が失うものは、計り知れないほど大きく深い…」
「王子…」
「急いで決断を下さないでくれ。お前が後悔する姿を私は見たくない」
イーデンはじっと王子の顔を見下ろしていたが、やがて穏やかに口を開いた。
「栄達や出世を私が望んでいるとお思いですか?それとも、身に余る財をすでに与えられたこの身に、これ以上の贅を望むとでも?
私が唯一欲するのは御身です。
貴方を失っての人生など、私には何の価値もない…。
どうぞ私にお命じ下さい。主連として一生を捧げよと。
それこそが私の望みです。こうして共に在ることを許していただけるなら…」
唇に落とされる言葉は、蜜の囁きに他ならなかった。
そしてイーデンは王子の言葉を封じ込めるように、ゆっくりと唇を重ねていく。
王子の面を、狂気にも似た恐れが走り抜けた。
ひとたびこの未来を信じてしまえば、もはやそれを知る以前には戻れない。
この先、イーデンを失うことを考えただけで、王子は痛嘆と恐怖に心が砕け散る気がした。
王子のそうした怯えを知ればこそ、イーデンの行為は一層優しく、一層愛情深いものとなる。
啄むような口づけをいくつも肌にちりばめて、王子の体から強張りが完全に消え失せるまで、イーデンは優しい囁きを耳元に落とし続けた。
その夜、イーデンは初めて王子の寝所で夜を明かした。
これが戦いの序章となる事を、誰に言われずともイーデンは承知していた。