第一部 陽王の寵姫
大理石でできた艶やかな床に片膝をつき、精悍な面立ちの青年が一人、陽の王の寵姫との謁見を待っていた。
静かに瞳を伏せ、心持ち首を垂れる青年の項には、時止めの洗礼を表す焔の刻印が、淡く刻み込まれている。
青年は高まる胸の鼓動を抑え、じっと寵姫の訪れを待っていた。
晴れて有寿の身となってひと月。十五年間待ち望んだ再会が、今ようやく果たされようとしていた。
時の民。
高く切り立ったカルライの連山に周囲を深く囲まれた秘地ムーアに暮らす人々は、いつの間にか自分たちの事をそう呼び習わすようになっていた。
十八年に一度地を舐める、禍々しくも崇高な血の色の陽光が、彼らに若さと祝福を、そして長寿をもたらせるからだ。
その戦慄すべき力の発現を、彼らは焔の降寿と呼んだ。
ムーアの民に老いは存在しない。
彼らは成人すると、地下祭殿に燃え盛る太古の焔を浴びて己の時を止め、その後は十八年ごとに焔の降寿を身に浴びて、若さと命を繋いでゆくのだ。
時を止めの洗礼を受ける年齢は、およそ十八から三十六歳と暗黙の裡に定まっていたが、これは若すぎると焔が紡ぐ夢魔の狂気に精神が耐えられず、それ以上年齢を重ねると焔の浄化に肉体が耐えられないからだった。
ともあれ、洗礼を受けて有寿とならぬ限りはムーアでは一人前と認められず、彼らは洗礼を受けた年齢を一寿と数え、その後は降寿を浴びるごとに年寿を増やしていき、静けき死へと向かっていった。
そう、彼らは不老ではあったが、不死ではなかった。
恩寵をはぐくむ祝福の焔は彼らに若さと生気を紡いだが、一方では果てを極める力の熾烈さゆえに焔は確実に彼らの体を蝕み、洗礼の焔と八度の降寿、合わせて九回の祝福を身に受けるのが、生身の体の限界であったからだ。
そのため十寿が近付いた民たちは、降寿の前年には自ら死を決意して、死の霧のたちこめる終の谷へと下っていく。
とぐろを巻く白い霧に包まれた荒涼たる岩の霊廟。
ムーアで生を受けた者達は全て、その静謐の谷に葬られた。
青年は深く頭を垂れたまま、僅か五寿で命を散らさなければならなかった父の、今は終の谷に安らぐ静かな御霊を、深い悲哀と共に思い起こしていた。
あの報せがもたらされなければ、父は自ら命を絶つ事もなく、穏やかに満ち足りた年寿を重ねていた事だろう。
仲睦まじい夫婦であったと誰もが口を揃えてそう言った。
だが今、母は王の下に栄華を重ね、父は一人きりで、終の谷に眠っている。
六つで母と引き離されて以来、青年はずっと母との再会を夢見てきた。
死んだと聞かされたなら、おそらく諦めもついた。だがあの華やかな王宮の、一番輝かしい場所で母が暮らしていると聞かされて、どうして母を思い切れよう。
母に選択の余地はなかったとしても、せめて父を悼む言葉の一つでも、青年は母の口から聞きたかった。
…それともそれは口実で、青年はただ母に会いたかっただけなのかもしれないが。
そうして青年はひたすら待ち続けた。自らが有寿となって、王宮への伺候が許される日が来るのを。
アクヴァル七寿一年、焔満月(八月)。
アクヴァル王が七寿となった最初の年、慣例に従って二回の降寿をやり過ごした青年は、二十一の若さで自らの時を止めた。
多く王族、廷臣らの見守る中、母である清月妃の食い入るような視線を背中に感じながら。
遠くからさざ波のように近付いてくる人の気配が、青年の物思いを静かに封じ込めた。
青年は覚悟を決めるように大きく息を吐き、その場に叩頭した。先導の女官が、高らかに清月妃の訪れを告げた。
「イーデン・トロワイヤ。面をお上げなさい」
魂を揺さぶる清冽な声が、イーデンの頭上に落とされた。イーデンは惑乱する思いを一瞬の躊躇いに変え、ゆっくりと顔を上げていった。
十五年ぶりの対面だった。
六歳の時、王宮からの知らせを受けて慌ただしく王都へと旅立った母は、時の恩寵を受けたムーアの民にふさわしく、時を経て尚、その稀有な美貌を微塵も損ねていない。
イーデンは真っ直ぐな視線を母に当てたまま、今華やかに咲き誇る王の寵姫の中に、優しくたおやかだったかつての面影を見出そうとした。
過ぎ去りし時とゆっくり重ねり合う静かな眼差しと気配。
長く辛い別離が今更のように胸元にこみ上げ、イーデンは爪が食い込むほどに拳をきつく握りしめた。
清月妃もまた、十五年ぶりの我が子を前に、荒ぶる感情を隠そうとはしなかった。切れ長の瞳をうっすらと潤ませて、食い入るようにイーデンを見つめてくる。
「本当に大きくなられて…。ああ、どんなに貴方に会いたかったことか…!」
成人した我が子の姿を感無量といった目で眺め下ろし、清月妃は染み入るような笑みを零す。
艶やかに流れる銀の髪を有寿だけに許される紫紺の絹紐で一つに結び、凛と背を伸ばした一寿の貴子。
凛々しさの際立つ面差しは匂い立つ闊達な若さに溢れていたが不思議と幼さは感じられない。深く澄んだ聡明さが、その瞳に強く映し出されているからだろう。
「あんなに小さかった貴方が、何とご立派になられた事でしょう」
清月妃の言葉に、青年は形ばかり微笑んだ。
母を恋う事さえ許されず、偽りの笑みの下に凍てつく寂しさを押し隠した十五年だった。
涼やかな容姿と有り余る財に恵まれて、傍目には何不自由のない幸運な貴子だと人は思うだろう。
確かにイーデン自身、そうした環境に自らを調和せしめ、殊更、瀟洒に着飾り、享楽を甘受して生きてきた。
ただそれは、イーデンの本質では決してなかった。
快活な笑顔の下には、人とは永遠に分かち合えぬ心の闇が今なお深い傷を残し、それは自らの恵まれた環境が何を犠牲にして与えられたものかを忘れまいとする、無意識の無残から発せられたものであった。
従者に抱きかかえられて無理やり遠ざけられる視線の先、くの字となって床に倒れ込む血だらけの父の姿。
卓子につけられた無数の爪痕は、絶望の末に選んだ死が、計り知れない断末魔の苦痛を父に与えた事を凄惨に物語っていた。
どれ程時を惜しんでも、失われた命は元に戻らない。砂地に零れた水を掬う事が不可能なように、隔たれた十余年の歳月もまた、決して埋まることはない。
そうしたイーデンの思いを、如実に読み取ったものであろう。眼差しを追う清月妃の瞳が寂しそうに翳り、まるで許しを請うかのように切なく細められた。
「この十五年間、貴方やユリアナの事を思い出さぬ日はありませんでした」
そして辺りを憚るように声を落とし、思いの丈を込めて清月妃はその言葉を口にする。
「あの方の事も…、忘れた事は一日たりともありません」
「清月妃さま…」
傍らの女官が、尖るような視線を自らの主に向けた。
イーデンは唇を噛みしめた。
それが今の清月妃に許される精一杯の言葉なのだと、張りつめた沈黙の中でイーデンは賢しく悟った。
離れがたい思いに駆られるまま、ぎこちなく会話を続けるイーデンに、清月妃もまた魂を重ね合わせるようにじっと耳を傾けていた。
王の寵を一身に受けるのも無理からぬとお思わせる艶やかな美貌が、揺らぐ蜀に匂い立つ。
緩やかな弧を描く珊瑚の唇、時折零れる白い歯。
清月妃が楽しげに頭を揺らすと、髪飾りの金鎖が軽やかな音色を響かせた。
そんな母の姿に強い喜びを覚えながらも、イーデンはふと、清月妃が傍から見えるほどには幸せではない事に朧気に気付き始めた。
王の寵姫として栄華の限りを極めながら、眼差しを衝くこの哀しみの色は何なのだろう。
どれ程軽やかな笑い声を立ててもその闇は瞳から拭われず、ただ一心に奈落を恋う悲痛な孤独を孕んでいる。
イーデンはその意味を探ろうとするように瞳を眇めて清月妃を仰ぎ見た。
母は何を思い、何を感じて日々を過ごしているのか。
ムーアの輝ける寵姫となった今も、母の心は未だ終の谷へと逝った父の下へ哀しく魂駆けをしているのだろうか。
だがそんな甘い感傷は、話に区切りがつくのを待っていたかのような清月妃の一言で、無情にも打ち砕かれる事となった。
「トロワイヤ。わたくしの息子、ユーディス王子の事はご存知ですね」
思いもよらぬ名に、イーデンははっと体を強張らせた。
どす黒い憎悪が瞬く間に喉元にせり上がり、イーデンは醜い感情を押し隠そうと慌てて視線を床に伏せた。
「名前だけは存じ上げております」
「王子は今、西殿の月欠宮で導師や侍従達と一人で住んでいます。
本来なら王子の親族が宮に従うところですが、あの子には後見となる親族がおりませんので」
イーデンは頷いた。
母が何を言いたいのかわからないが、母が住まう清月宮はいわば王の後宮だから、九つの忌み年をとうに過ぎた王子が、宮を出て一人で暮らすのは当然の義だろう。
「わたくしも月に一度は王子と会っておりますが、目が行き届いているとはとても申せません。心を許した名家の貴子も一人も侍してはおりませんし」
言い辛そうに清月妃の声が小さくなった。その眼差しが怯えるように揺らいで、やがてゆっくりとイーデンに向けられる。
そして次の瞬間、清月妃はイーデンを絶望と憤怒に突き落とす、信じがたい言葉を口にした。
「貴方に王子の宮に入っていただきたいのです。
正式な仕え人というのではなく、王子と年の近い話し相手という形で、ユーディスを支えてやってはいただけませんか」