「鋏と傷口」プロローグ
少女は歩く。
夜の街を歩く。
ガス灯の明かりは今はすでになく、薄い雲に覆われた柔らかい月明かりだけが街の輪郭を浮かび上がらせる。日中の音は闇に飲まれ、いや、闇に追われて今はない。
少女の目は闇に慣れているようで、足取りは軽い。
他の子どもたちのように闇を恐れてなどはいない。むしろ陽の光よりも月の光、月の光よりも闇を「友」としているようにも見える。
少女が身に着けるのはサイズの合わない布靴、中に着たワンピースはかろうじてちょうどいいサイズと呼べるが、元は白かったであろうそれは煤や泥や様々な汚れで、見る人によっては「白い」とは言わないだろう。
しかし、それは闇の中でかすかに、ボウっと浮かび上がっている。
上に羽織った薄茶のジャケットは完全に大人の男性ものだ。肩幅がまるで合っていない。袖も長すぎて、切って巻いて短くしているが、それでも少女の指先しか見えない。
見える指も、細い足も、小さな顔も、どこかしら擦り傷や青アザが見受けられる。
髪もどれくらい櫛を通していないのか、伸ばしっぱなしのせいもあってか、拍車をかけて彼女をみすぼらしく見せている。
――孤児。
少女を見た者は誰もがそう思うだろう。言うだろう。
だが、少女には関係のないことだ。
日々、誰かに邪魔されずに眠れる場所があればいい。一時でも空腹が満たされればいい。それ以外は何も望まない。それ以上の贅沢を知らない。
少女の後ろからゆっくりと光が近づいてくる。
黄色いランプの光。
それは太陽の光を反射する月よりも強くて近かった。
光に気づいた少女は近くの路地に逃げ込もうと辺りを見渡すが、そうしている間にも光は近づいてくる。
少女が慌て、迷い立ち止まったことで、光が走り寄ってきた。
大人の男だ。
ランプの明るさに少女の目は焼ける。顔を背け、瞼を薄く閉じる。
男の、黒く鈍く光る革のブーツだけがかすかに見えた。
折れ目のついたズボンに、しっかり縫われた革のブーツ。ドブのような悪臭もしない。
「君、孤児かい? どこかの孤児院から抜け出してきたのかい?」
男の声は若い。
少女の前に腰を下ろし、優しく声をかける。
つとめて、優しく、聞こえるように。
少女は知っている。男が親切で声をかけてきたわけではないということを。
――面倒なものを見つけてしまった。
大人たちは自分たちの成長速度を忘れてしまった。知識の吸収力も思考力の発達も早いということを。
そして、聞いていないだろう、理解できないだろうと高をくくって子供の前で毒を吐く。
隣国が大陸一信者の多い宗教の聖地であるからか、この国には教会が多かった。孤児や浮浪者は教会が積極的に面倒を見た。
孤児には教育を、浮浪者には仕事を。
この国はとてもいい国なのだとシスターは言っていた。
いい国なのかどうか、他の国を知らないから少女はどうでもいいと思った。
寝るところがあって、暖かい食べ物が与えられる。
それは嬉しい。
だけど何の役にたつのかわからない勉強を押し付けられたり、寝る時間が決められていたり、自由が奪われるのは我慢できなかった。
だからみんなが寝静まった夜にこっそり抜け出して夜の散歩を楽しんでいた。
抜け出すのはすごく疲れる。
なので、このまま孤児院に連れ戻されるのは嫌だなと少女は思った。
男は黙っている彼女に対して質問を繰り返している。
しびれを切らしたのか、ランプの明かりが熱いと感じられるくらい顔に近づけられて、「おい!」と大きな声を出された時、ポロリと本心がこぼれ出た。
「邪魔しないで」
その一言で、ランプの明かりが一瞬にして消え失せた。
そして再びの暗闇。
少女は、まだ夜明けの遠い夜を走った。
あの男の人が悪いんだ。声なんてかけてくるから。そっとしておいてほしいのに。
私はただ夜の散歩を楽しんでいただけ。なぜ子供はだめなの?
早く大人になりたいな。
大人になったら自由だから。
それはとても純粋で浅はかな願いだった。
それでいて、実に子供らしい願い。
少女の走り去った跡には、黒い足跡が残されていた。
太陽が昇り、照らされた足跡は、血の赤色だった。