はじまり
これは、私の家族を取り巻く数奇な出来事を寄せ集めた話であり、私自身の物語である。
私はその時大学三年生で、夏休みを利用して父方の祖母の家に遊びに来ていた。
飛行機で1時間、そこからバスで3時間、その後更にバスで1時間という、酒には強いが乗り物には滅法弱い私からしてみたら罰ゲームの様な道のりであり、草ぼうぼうの廃屋手前の祖母の家までたどり着いた時、私はほっとするあまり玄関で倒れた。
ついた先が廃屋だろうがお化け屋敷だろうが、少なくとももうあのクーラーが壊れた年寄りしか乗っていないバスには乗らなくて良いのだ。
「あんた若いくせに体力無いわね」
玄関に敷いてある、いつ洗ったんだと問いかけたくなるようなマットに大の字になりながら、土産の肉まんを言葉もなく差し出した私を祖母はあきれた顔で見下ろしてから鼻で笑った。
「いらっしゃい」
「……ごきげんよう」
たった5時間足らずで干からびた私から肉まんを受け取った後、祖母は露骨に顔をしかめて「シャワー浴びてきなさい、あんた猛烈に線香くさいわよ」と日向くさいのにかび臭いという絶妙な匂いのするバスタオルを私の顔に放った。
祖母はNHKの次に線香の匂いが嫌いだ。
私はのろのろと立ち上がりながら、自分のワンピースの裾を引っ張り匂いを嗅いだ。確かに線香くさい。
バスで乗り合わせた陰気な顔の老人達はもしかしたら幽霊だったのかもしれない。
風呂場に向かおうと重い体と荷物を引きずった拍子に玄関マットがずれて、ぺたぺたするカビにまみれた木造の床と、多分兄弟の誰かが幼少のころに張ったであろうすすけた某有名小学生探偵のシールが剥き出しになった。
「……やれやれだぜ」
玄関マットを戻しながら私は不吉な夏休みに思いをはせた。まだ1日もたっていない夏休みに。
いつからそこにあるのか、住人ですら覚えていないほど昔から時を鳴らし続けた柱時計が、微妙に狂った時間を告げ、ささくれた畳がなんとなく不吉なカビ臭さを放ち、ほとんど置物の様な老人たちが猫のように勝手に玄関口に座っているという、八つ墓村もかくやという全体的に「多分楽しいエピソードを聞くには60年ほど遡らなければならないだろうなぁ」という、薄暗い影が付きまとった家に、祖母は殆ど一人で住んでいた。
「あんたおはぎ食べる?」
昼間でも暗いくせにどこにいても蒸し暑いという拷問屋敷みたいな家の居間で、私はシャワーを浴びた後、扇風機の前に陣取り温いビールを舐めていた。
「……スルメとかないの」
「田中さんが、あんた来てるからって持ってきてくれたのよ、足悪いのに」
あの置物みたいな老婆は田中さんという名前なのか。
「足も目も悪いのにわざわざあんた来てるからって持ってきたのよ、おはぎ。」
拒否権なんて高尚なものは私には用意されていないのだ。
祖母は返事も聞かないまま、縁の欠けた皿にどかんとでかいおはぎを二つのせて私の前に差し出した。
「……ばあちゃん、私甘いの好きじゃないって知ってるよね」
「大丈夫よ、田中さんケチだから砂糖ちょびっとしかいれないの。ケチだから」
祖母と田中さんの関係性を疑問に思いながら、私はしぶしぶ皿に手を伸ばした。
「……ばーちゃん、今度田中さんに会ったら孫が砂糖土産に持ってくって伝えて」
「無駄よ、あの人人にあげる物は砂糖いれない主義なの。戦後の人だから」
自分だって戦後の人のくせにと、口を開こうとした時にチン、というこの家に不似合いな軽快な音が聞こえて振り向くと、祖母は「レンジよ」といそいそと立ち上がり台所に消えて、数秒してからあつあつの肉まんと冷えたビールをもって私の横に座った。
「あんた、兄ちゃん達とうちの馬鹿いつ来るか知らないの?」
殆ど煮豆と潰した米という不可思議な食べ物を死んだ魚の目で租借する孫を無視して、祖母は大げさにため息をついて景気よく肉まんにかぶりつきビールをあおった。
「まったく、連絡よこさないくせにいっちょ前に酒と飯だけは食べるんだから」
私は黙っておはぎを温いビールで流し込んだ。
元来うちの家族、父・兄二人・私という4人は、自由気ままな人間たちが集ったサークルかコミュニティのような集合体なので、下手したら高校の同級生と会うほうが多いといった体たらくだ。
この祖母宅への帰省というイベントは、寝ても暮らせど誰も顔を見せないといった3年間に「このまま私を孤独死させる気か」と祖母から家族に一斉に活が入った事がきっかけである。
身内各々しぶしぶ旅行鞄を押し入れから引きずり出す光景が目に浮かぶ。私だってそうだ。
「いや、私だって全員と会うの3年ぶりだよ。最後に会ったの、私の大学の引っ越しの時だもん」
「あんた所はみんなそうねぇ、正月だってろくにあつまりゃしない」
煮豆をもそもそ噛んで飲み込む孫をつまみにぐちぐち言いながら、祖母は二個目の肉まんと2本目のビールを胃におさめている。
そういう祖母も正月は綾野剛の番組閲覧に当たったとかでこの家にいなかったくせに、だ。
「うちの馬鹿はね」
祖母は喉を鳴らしてビールを飲み干し、とても80とは思えぬ足取りで冷蔵庫から明太子とプレミアムモルツを出して、私の横に再度座った。
「ねぇばーちゃん、私も発泡酒じゃなくてモルツが良いよぅ」
「うちの馬鹿はね」
祖母はまるっと私を無視して金色に輝くラベルのプルトップを開けた。
さわさわと上品な音をたてる炭酸を祖母は何のためらいもなくごくりと飲みこみ何度目かのため息をついた。
「うちの馬鹿はね、昔大事なものを迷子にしたからああなのよ」
今思い返せばセミの鳴き声はあの家にいるとき、聞いた事がなかった。
もしかしたら歪な私達家族は、人とは違う、どこかずれた、閉じられた世界の夏を、あの5日間過ごしたのかもしれない。