映画館で
何となく嫌な予感はしていた。元々、戦争映画は好きではないが、夫がどうしても観たい、と言うので渋々付き合った。
別に同じ時間帯なら私は他のを観ても良かったのだが、私が観たかった作品は公開されてからもう3週間経っていて、早朝か夜しか上映されていなかった。
案の定、アメリカのアメリカによるアメリカの為の、戦争で活躍した兵士を讃える映画だった。この手の内容は、結局アメリカが戦争を正当化する為の、胸糞の悪いものでしかない。
あとはもう、俳優の筋肉を楽しむしかない、そしてストーリーや場面の繋ぎ方を、小説を書くにあたって参考にしようと澄ました顔して観ていた。
ふと、どこからか男性用の……整髪料なのかコロンなのか、いい香りがする。後ろからなのか前からなのかわからない、何しろあたりが暗くて前に座っている人の性別すらわからないのだから確かめようがない。
もちろん、映画の最中に後ろを振り向くわけにも行かない。
しばらくは、その香りをただ「ああ、結構好きな香りだな」と堪能していた。しかし、突然涙が込み上げてきたのだ。
理由がわからない。いや、多分この香りは初めて嗅ぐ香りではない。記憶の糸をたどる。
ああ。
かつて、愛した人と同じ香りだ。
こういう書き方をするのは自分の恋愛に酔っているようであまり好きではないのだが、夫の前に付き合っていた、心底愛していた人だった。
様々な行き違いがあったのだから、本当の運命の人ではなかったのかもしれない。しかし、恐ろしいことに夫と結婚して17年たった今でも、心の中にいるその人の何もかもを手放せずにいるのだ。たった2年弱付き合っただけの人を。
思い出、などという生易しいものではない。
何故なら、その人は当時、私が失いかけていた大切なものを、捨ててはいけないと必死に取り戻させてくれた人だったからだ。
声が、好きだった。
どうしようもなく愛していた。
今でもその人は、手を伸ばせば届くところにいる。あえて避けているので会うことはないが、ネットで検索すれば簡単に情報を得られ近影を見ることができるほど、あるジャンルで活躍している人だ。
たまたま、その人が仕事で忙殺されている時に夫と知り合った。夫は私をとても可愛がってくれ、大切にしてくれた。
寂しさに負けてしまった、あの時の自分をどれだけ後悔しただろうか。
夫と結婚してしばらく経った頃、その人が私と結婚するつもりでいた事を人伝手に偶然知った時は、私のお腹の中には二人目の子供が宿っていた。
そしてまた、その頃その人も、他の人と結婚していた。
私が子供の頃から知っている、大嫌いな女だった。
スクリーンでは、戦地から帰った兵士が妻と抱擁しあっていた。恐らく夫は、そのシーンを観て泣いていると思っているに違いないだろう。
エンドロールは大抵最後まで観る派だが、今日はもう暗いうちに席を立とう。
霧雨の中、梅の花が煙るように咲いている。確か、その人と最後に会ったのもそんな景色の中だった。